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A.M.ナイル、またはアイヤッパン・ピッライ・マーダヴァン・ナーヤルマラヤーラム語:അയ്യപ്പന് പിള്ള മാധവന് നായര്, 英語:Ayappan Pillai Madhavan Nair, 1905年 - 1990年4月22日)は、インド独立運動家、実業家。

生涯

インド独立運動参加


1905年に、イギリス領インド帝国のトラヴァンコール藩主国(現在のインド南部のケーララ州ティルヴァナンタプラム(トリヴァンドラム)で、クシャトリヤ階級の母とバラモン階級の父のもと、10人兄弟の末子として生まれた産経新聞 2002年5月21日。高校在学中からインド独立運動や、カースト差別批判運動などに参加し、イギリス植民地当局から要注意人物として監視された。

日本へ


、頭山満1928年には、かつて北海道大学留学していた5歳上の兄の熱心なすすめにより日本に留学することを決意し、京都に居を構え京都大学工学部に入学、土木工学を学ぶ。来日早々、先に日本に亡命し東京府を中心に活動していたインド独立運動家のラース・ビハーリー・ボースを訪ねている。京都大学入学後は学業の傍らインド独立運動を行うこととなる。1932年に京都大学を卒業した後は栗本鐵工所へ入社するも、インド独立運動家としての講演活動などが多忙になりその後退社し、のちにはビハーリー・ボースの腹心として、日本政府の上層部や荒木貞夫田中隆吉などの軍上層部、頭山満大川周明などのアジア独立主義者らと関係を結びインド独立運動を行う『知られざるインド独立闘争—A.M.ナイル回想録(新版)』 河合伸訳、風涛社、2008年

なお、この様な形でインド独立運動(反イギリス運動)を行っていたために、駐日イギリス大使館より要注意人物としてマークされた。このためその後もイギリス植民地下にあったインドへの帰国は事実上不可能となり、事実上日本へ亡命し独立運動を続ける形になる。

満州国へ


かつてインド臨時総督を務め、過酷な植民地政策を進めたヴィクター・ブルワー=リットン率いる「リットン調査団」に欺瞞を感じ、同調査団の満州国派遣に対する抗議活動などを行っていた縁から、満州国協和会の創設メンバーの1人で京都大学の同窓生の長尾郡太からの誘いを受けて、日本の租借地の大連で開催されるアジア会議の開催に奔走する。その後、1934年に開催された同会議に出席する産経新聞 2002年5月21日。その後も満州国と日本を行き来し、満州国への渡航後に習得した中国語を駆使して、モンゴルからの羊毛のイギリスへの輸出停止や、インドの独立派の新聞記者愛新覚羅溥儀の会見を成功させるなど、様々な形のインド独立運動及び反英工作を行い、その傍ら満州建国大学の客員教授などもつとめている産経新聞 2002年5月22日1939年には日本人の浅見由久子と結婚。同年に長男が誕生した。

インド独立連盟


大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ、[[張景恵、汪兆銘東條英機ワンワイタヤーコーンホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース1941年12月に日本軍がイギリス領マレー半島に対する攻撃、いわゆる「マレー作戦」を契機として太平洋戦争大東亜戦争)に突入、イギリスをはじめとする連合国と開戦する。その後1942年には、ラース・ビハーリー・ボースを首班とする「インド独立連盟」(のちに後継者のスバス・チャンドラ・ボースによって「自由インド仮政府」となる)の設立に貢献し、同連盟の指導者の1人となった。他にも、英印軍捕虜のうち志願したインド人によってシンガポールに作られたインド国民軍の設立に関わった。その後は、インド国民軍の初代司令官となった元英印軍大尉のモーハン・シンとビハーリー・ボース、および日本政府と日本軍の間の緩衝役として活躍した『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』中島岳志著 白水社、2005年

1943年11月に東京で開催された大東亜会議の開催の際には、自由インド仮政府の一員として日本の東條英機首相に助言を行うなど、日本や満州国、日本の占領下にあったシンガポールなどを拠点に、ビハーリー・ボースやチャンドラ・ボースらとともにインド独立運動及び反イギリス活動に従事する。また、1944年には次男(G. M. ナイル)が誕生する。

しかし、1945年にはビハーリー・ボースとチャンドラ・ボースが相次いで客死した上に、同年8月のアジア・太平洋戦争の日本の敗北により、日本と協力した上でのインド独立が不可能になってしまう。

日印親善への貢献



大戦前後の行動により、引き続きイギリス植民地政府に要注意人物としてマークされていたこともあり、アジア・太平洋戦争終戦後も日本に留まる。東京に居を構え、1946年に行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)のために来日したラダ・ビノード・パール判事通訳を務めたほか、裁判情報の提供に協力した。1947年8月のインド独立後は家族とともにインド国籍を得るが、新政府に参加せずに引き続き日本に住み続け、1949年には駐日インド大使の顧問に就任する。同年には、東京都中央区銀座に日本初のインド料理専門店となる「ナイルレストラン」を開店。同店は現在もインド料理の老舗として営業を続けているナイルレストラン。さらに1952年には小泉忠三郎とともにナイル商会を設立、インドの食材などの輸入、販売を手掛けることとなる。同社はヱスビー食品カレー粉を供給するなど、その後経営規模を拡大しつつ日本におけるインド料理の普及に貢献することとなる『銀座ナイルレストラン物語 日本で最も古く、最も成功したインド料理店』P-Vine Books: 水野仁輔、G・M・ナイル

その後もパール判事の来日の際のブレーンとして活動する他、石橋湛山大野伴睦藤山愛一郎など日本の政財界人との広い交友関係を生かしながら、在日インド人協会の代表などを歴任し、日印両国を行き来し日印親善活動を続けた産経新聞 2002年5月24日。また1970年に開催された日本万国博覧会のインド館の運営にも協力を行った。1984年には、日印親善に尽くした功により日本政府から勲三等瑞宝章を授与された。1990年に故郷のティルヴァナンタプラムで死去。

回想録の出版


1983年、『知られざるインド独立闘争―A.M.ナイル回想録』を出版した( "An Indian Freedom Fighter in Japan" by ORIENT LONGMAN, 1982 の邦訳)。ナイルはこの本を書いた目的として、スバス・チャンドラ・ボースの過大評価と、ラース・ビハーリー・ボースの過小評価を正すことを挙げている。たとえば、日本軍が占領したアジア地域に住む200万人近いインド人の生命と財産を保全したのは、ラース・ビハーリーとナイルの功績であった。ふたりはそのことを大本営に要請し、的確な命令を出してもらうことに成功した。大本営は、マレー地区の司令部に、末端の兵がインド人を見分けるための簡単な方法まで教えたという。それは相手がインド人かどうか分からなければ、「ガンジー」と尋ねてみよ、それが肯定の答えであればその人間は大事に扱えというものだった。

著書


『知られざるインド独立闘争—A.M.ナイル回想録(新版)』 河合伸訳、風涛社、2008年 ISBN 978-4-89219-306-4

出典


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1905年生
1990年没



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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