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飯田 房太(いいだ ふさた、1913年 (大正2年) 2月12日 - 1941年 (昭和16年) 12月8日)は、日本の海軍軍人、戦闘機操縦士。最終階級は海軍中佐山口県出身。

経歴

1913年2月12日、山口県都濃郡富田村 (現周南市)で旧家の一人息子として生まれた。1925年4月、徳山中学校 (現山口県立徳山高等学校)に進学、1931年4月、海軍兵学校に入学し、1934年11月17日、同校 (62期)を五番の成績で卒業した。少尉候補生として艦隊勤務や遠洋航海など実務練習を経て、1936年4月、少尉に任官、軽巡洋艦「那珂」に配属された。

1936年12月、霞ヶ浦海軍航空隊の飛行学生となり、1937年9月、第28期飛行学生教程を修了した。大尉に進級後、佐伯海軍航空隊大村海軍航空隊を経て、1938年11月、航空母艦「蒼龍」に配属された。1939年、霞ヶ浦航空隊の教官として内地に帰還し、霞ヶ浦海軍航空隊筑波分遣隊の分隊長として、海兵66期の坂井知行原正日高盛康藤田怡与蔵山下丈二らを鍛えた。

成都攻撃

1940年9月、華中方面の前線部隊第一二航空隊 (司令長谷川喜一大佐)に配属され、1940年10月26日昼、「長谷川部隊の戦闘機隊」を指揮して成都に対する戦闘機単独長駆襲撃 (第三回成都攻撃)を実施し、新津北東の上空で中華民国軍機10機 (E15型戦闘機x5、フリート練習機x4、輸送機x1)と交戦して全機撃墜、1940年11月6日に公開された『日本ニュース』第22号で「敵機撃墜の八勇士」として報道された「敵要衝壊滅を期す 海鷲の連爆」, 『日本ニュース』第22号 1940年(昭和15年)11月6日

第三回成都攻撃における飯田隊所属の零式艦上戦闘機一一型八機の編成と操縦者は以下の通りであった:指揮官 飯田房太大尉、二番機 光増政之一空曹、三番機 平本政治三空曹、第二小隊 一番機 山下小四郎空曹長、二番機 角田和男一空曹、三番機 岩井勉二空曹、第三小隊 一番機 北畑三郎一空曹、二番機 大木芳男二空曹「10月26日の空」、(その1), (その2)(その3)(その4)(補遺)

真珠湾攻撃


房太の遺体を埋葬する合衆国海軍兵達1941年9月に、航空母艦「蒼龍」の分隊長となり、1941年12月8日 (現地時間12月7日)、第二次攻撃隊の第三制空隊 (航空母艦「蒼龍」制空隊)第三中隊長 (第一小隊長兼任)として、真珠湾攻撃に参加した。房太の中隊は、カネオヘ海軍航空基地 (1952年1月15日以降、カネオヘ湾海兵隊航空基地, Marine Corps Air Station Kaneohe Bay)を銃撃した後、ベローズ陸軍航空基地 (現ベローズ空軍基地, Bellows Air Force Station)を機銃掃射した。再び、カネオへ海軍基地を攻撃中、房太の操縦する零式艦上戦闘機二一型 (固有機番号 BI-151)は、燃料タンクに被弾した。キャリバー50機関銃で応戦したジョン・ウィリアム・フィン (John William Finn)は、名誉勲章を受けたGregg K. Kakesako, Dec. 7 hero at Kaneohe is honored, Honolulu Star-Bulletin, June 30, 1999.

房太は、隷下の第二小隊長藤田怡与蔵中尉に、燃料切れを意味する手信号 (自分の口元を指差して左右に振る)を送った後、手を振って、カネオへ海軍基地格納庫に向かって突入し、現地時間午前9時30分、妻帯士官宿舎付近の舗装道路に激突した。房太の遺体は、12月8日 (現地時間)、カネオヘ海軍基地で戦死した18名の米海軍兵と1名の民間人とともに、同基地内に埋葬された。なお、真珠湾攻撃で、二番機の厚見峻一飛曹、三番機の石井三郎二飛曹 (ニイハウ島付近で海面に突入し自爆)も未帰還となった。なお房太は出撃前日に部下を集め、「この戦はどのように計算してみても万に一つの勝ち目もない。私は明日の栄ある開戦の日に自爆するが、皆はなるべく長く生き延びて、国の行方を見守ってもらいたい」と訓示していたといわれ、また被弾の程度も帰還できないほどのものではなかったといわれる 角田和男『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』光人社 ISBN 4-7698-1041-5

真珠湾攻撃における第三制空隊 (第三中隊)所属の零式艦上戦闘機二一型九機の編成と操縦者は以下の通りであった: 指揮官 飯田房太大尉 第一小隊 二番機 厚見峻一飛曹、三番機 石井三郎二飛曹、第二小隊 一番機 藤田怡与蔵中尉、二番機 高橋宗三郎一飛曹、三番機 岡元高志二飛曹、第三小隊 一番機 小田喜一一飛曹、二番機 田中二郎二飛曹、三番機 高島武雄三飛曹。

戦死後


房太の突入地点に建立された記念碑
原田要元帝国海軍中尉 (青色の帽子)が、房太の記念碑にカーネーションのレイを顕花しているところ。原田は、零戦搭乗員の生き残りで構成される海原会の会員達とともに基地を見学した。
房太は、牧野三郎大尉 (第二次攻撃隊、加賀爆撃隊指揮官、操縦員。海兵60期)、鈴木三守大尉 (第一次攻撃隊、加賀雷撃隊第二中隊長、操縦員。海兵64期)とともに、「真珠湾偉勲の三勇士」と謳われ、戦死後、二階級特進して中佐となった。房太の記事を見た群馬県に住む喜久代は、房太の母親ステを慰めるべく手紙を書いたのがきっかけで、房太の従兄弟義昭と結婚して夫婦で飯田家を継ぐことになり、1958年には、飯田記念室を設立した。

1971年、記念碑がカネオヘ湾海兵隊航空基地内に建立された。碑面には英文で、「日本機突入地点、パイロット 飯田大尉 第三制空集団指揮官 一九四一年十二月七日」(JAPANESE AIRCRAFT IMPACT SITE PILOT LIEUTENANT IIDA, I.J.N. CMDR.. THIRD AIR CONTROL GROUP DEC. 7, 1941) と書かれている。

カネオへ海軍基地の防備隊にいて房太の突入を目撃していたコンラッド・R・フリーズ (Conrad R. FriezeStephanie Frieze, December 7th, Seventy Years Later)は、ミッドウェー海戦で、漂流中の航空母艦「飛龍」機関科万代久男少尉 (海機50期)を、自らが搭乗する哨戒機で救助し、交流を続けていた。その後、万代を介して、房太の遺族を探しあて、1981年12月7日、ハワイで行なわれた「米軍将兵戦没者慰霊祭」に、喜久代を招待した。

炎上する零式艦上戦闘機から房太の遺体を運び出したサム・チュン (Sam Chun)は、房太の飛行帽を隠して保管していた。1999年12月8日、サム・チュンの娘エルフリーダ・ツカヤマ (Elfrieda TsukayamaChristine Donnelly, Pilot’s helmet going home. The helmet of a Japanese fighter pilot who died on Dec. 7, 1941 is given to a relative, Honolulu Star-Bulletin, December 8, 1999.)は、ハワイで行われた返還式で、喜久代に飛行帽を手渡した。戦死した義兄の飛行帽 58年ぶりに古里に帰る, posted by Yamada Junji.

2001年5月26日には、千葉県銚子市のカメラマン堺敬生が製作した上映時間19分のビデオ作品堺敬生、「還ってきた飛行帽」を巡って, 『とっぱずれ』, 銚子東ロータリークラブ週報 No. 1565.『還ってきた飛行帽』が、山口県新南陽市 (当時)で上映された。

トラ・トラ・トラ!

1970年に公開された映画『トラ・トラ・トラ!』には、和崎俊哉演じる航空母艦「赤城」所属の零戦操縦士が海軍基地の格納庫に突入するシーンがあるが、これは、房太のものをはじめ、何件かの日本機による突入をヒントに創作されている。

実際に、航空母艦「赤城」所属の零戦のうち未帰還となったのは、第一次攻撃隊の第二制空隊第一小隊二番機平野崟一飛曹 (固有機体番号 AI-154)であり、平野は、特務艦「アルゴンヌ」 (USS Argonne (AG-31))所属のマーカス・F・ポストン二等機関兵曹 (Marcus F. Poston)が操縦する民間機パイパー・カブを岩間品次一飛曹と共同撃墜したが、A-20の旋回機銃などによる対空射撃で被弾し、カメハメハ大通りの直上をかすめながら、カメハメハ要塞 (Fort Kamehameha)の兵器庫の前に突入している。David Aiken, "Hirano's Zero", Aviation History, January 2009, pp. 28-35.

出典


外部リンク




大日本帝国海軍搭乗員
太平洋戦争で戦死した人物
山口県出身の人物
1912年生
1941年没



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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