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評論家(ひょうろんか)とは、評論職業とする者である。

歴史


評論は欧米においては「(個人が)物事をどう捉えるか・把握するか・判定するかを表明するもの」であったのであり、日本にも近代になり欧米の「評論」が流入した。やがて「技術的に有用な、多くの知見を持つことになった者が、それを社会へ提供・還元するもの」という面が強くなり、評論家の存在が前面に出てくるようになった。

対象、分野、手法


評論家が対象とする事物には特に制限があるわけではなく、文学政治経済言語などあらゆる事物が評論の対象になる。そのため、毎年のように新しい肩書きの評論家が登場してくる。評論家は多くの場合ある特定の分野だけを評論活動の対象としている。が、「思想家」や「哲学者」が、対象を限定せず広く批評・評論活動をすることもしばしばある。

評論の手法は研究対象などによって異なる。「評論家」と「批評家」の区別について、議論がある(参照:加藤典洋 『僕が批評家になったわけ』 など)。またスポーツでは、「評論家」と「解説者」の区別は概して曖昧であり、過去には相撲分野でマスメディア記者クラブ所属で解説を行った「相撲専門記者」に「相撲評論家」という肩書を付けたことで、日本相撲協会とマスメディア各社の間で小さからぬ問題に発展した事例もある。

評論家の出自


評論家はフリーランスジャーナリストなどのライターが自称する場合が多い(小林よしのりのように、漫画家さえいる)。多くはその分野の真の意味での専門家プロフェッショナル)ではない。本当のプロ、あるいはプロとして一定の業績を挙げてリタイヤした人物であれば相応の肩書きがあり、「評論家」を自称する必要がない。たとえば中曽根康弘塩川正十郎衆議院議員引退後の活動は政治評論そのものだが、彼らが政治評論家と自称することはないし、その必要もない。プロ野球分野における野村克也監督退任後のマスコミにおける活動もまた同様である。

出自には以下のようなものが多い。

  • ある分野での真の専門家となることを目指し専門的知識を習得したものの、なんらかの事情で専門家になることができず、転じて当該分野の評論家となって、その分野との関係を保っている者。たとえば、画家を目指したことがある美術評論家など。
  • ある分野における専門家やプロ・日本代表クラスの選手・指導者であったが、年齢による体力の衰えや契約・任期の終了など各々の要因で競技生活の一線を退き、現在は当該の分野で実活動を行っていない者。たとえば各種スポーツにおけるプロの元選手・元監督などという出自を持つ評論家。
  • マスコミにおいてその分野の報道や番組・記事などのコンテンツ制作に携わったことがきっかけで専門的知識を得て、その文筆・弁舌の能力をもって評論活動を行っている者。大相撲中継大相撲ダイジェスト番組アナウンサー出身の相撲評論家や、プロレス雑誌記者出身のプロレス評論家、アニメ雑誌の契約ライター出身のアニメ評論家、放送作家出身のお笑いもしくはアイドル評論家、ギャルママ評論家など。

『評論家になろう』で紹介されている14人の評論家の出自は、出版編集関係6人、テレビ・ラジオ関係5人であり、元々なんらかの形でマスメディアに関与していた・関与しようとしていた者が多い評論家評論委員会『評論家になろう』(2002年) ISBN 978-4574701662。特に元専門家・プロという出自の評論家については、マスメディアからの仕事を請けたことでマスメディアによって「評論家」という肩書きをつけられた者が少なからず見られる。

評論家とメディア


評論家にとって、マスメディアは必要不可欠の存在である。文字媒体(新聞雑誌書籍インターネットなど)やラジオテレビなどのメディア抜きでは、業としての評論家は成り立たない。またメディアの側も評論家を必要としている。メディアは放送番組記事広告としての形式や内容を成立させるために、評論家の知識や信頼感を利用する。生放送などで台本を用意できない場合、特定の分野について多くの専門知識や最新情報を有し、その知識・経験を踏まえて、解説・意見をアドリブで話す事が出来る評論家は重宝される。評論家の解説・意見の責任は基本的には評論家に帰するものである。台本を用意しないことで、メディアは大きな責任を回避する事が出来る2007年10月の亀田内藤戦の報道姿勢への批判に関して、TBS広報部は「実況は用意した原稿を読んでいるのではなく、アナウンサー個人がその場で行うもの。局として見解を示すべきことではない」と回答している。

特にテレビの場合、評論家は画面の中に居るだけで、一定の信頼感を醸成することが出来る。放送局番組制作会社にとっては便利な存在である。そのため、昨今ではメディアによって、評論家が粗製濫造されている。

評論家の種類

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業界団体職能団体として、「日本評論家協会」がある。

評論家の肩書き


“評論家”という肩書きは自称に過ぎない。政治評論家が「政治アナリスト」と名乗っても問題はないし、経済評論家がしばしば「エコノミスト」を自称するなど、特定の分野でのみ使われる別名もある。さらには文化人と総称される場合、「論客」や「オピニオンリーダー」として紹介される場合もある。報道番組の「ワイドショー化」によって、専門分野以外のコメントを求められることも多く、コメンテーターとの区別は難しくなっている。また、主にマスメディアなどにおいては、評論活動をしていていも「評論家」ではなく「有識者」という表現を用いる場合がある。たとえば、当該の分野に対してその道の専門家さえ舌を巻くほどの極めて高度な学術的専門知識を持つ人物であったり、別分野であっても高い社会的ステイタスを持つ人物が評論活動を行う場合などである。また、外部の「評論家」であっても業界団体や政府・行政が設置した諮問機関に招請した場合には同様に「有識者」「学識経験者」などと称されることがある。

文学評論家と作家


文芸評論家が作家に準ずる存在として扱われる場合がある。評論文それ自体が後世に至り一種の“文学作品”として扱われることもある。ほとんどの分野では(ある段階では言語を活用するものの)、最終的には、なんらかの物質の次元での現実化、実証、あるいは身体を使っての実行というものが重んじられている。
ところが、文学の分野では、生み出されるものが、文字や言葉、あるいは観念ばかりである。つまり、他の分野のようには対象となる作品と評論の境界がはっきりしているわけではないからである。

だが、他の分野で真の専門家と評論家が同等には扱われないように、やはり文芸評論家は作家等とは同列には扱われない場合のほうが多い。

評論活動の問題点


評論家の活動は対象とする分野の発展や研究に寄与することもあるが、一方でその評論の内容次第では対象分野の発展を阻害するような事態も起こし得る。たとえば、評論家が一定の実力(すなわち社会的影響力の強さ)を持つようになると、それを悪用して本来高水準である作品を低く評価したり、作者と評論家の交友関係や相性、あるいはジャンルの好き嫌い、すなわち評論家のごく個人的な嗜好や価値観によって、特定の作家や作品について不当に低い評価や過剰に高い評価を下すという事態も発生する様になる。

評論である以上、自身の私見・感想や意見をその文言に盛り込むのは当然ではあり、また評論家の権利と言えるが、客観性が著しく欠如した不当な評価を繰り返した場合、その評価を下した評論家自身が「正しい判断の出来ない評論家」としてその権威と説得力を喪失してしまう事もある。例えば、映画評論家のおすぎは同項目でもあるように作品や俳優に対して極端に好き嫌いがはっきりしている人物であり、それが評論内容にも顕著に現れるため、その批評姿勢については他の同業評論家等からも批判を受けている。

また、その世界の人気者として知られる特定の人物や団体を激しく攻撃・非難することで評論の世界で名を売ったり、さらには一方では業界内部で実権を持つ特定の人物や団体を持ち上げ続けて交友関係を持つなどの手法で、評論家がその業界に影響力を及ぼそうとするケースすら見られる。例としては昭和期の落語評論家の安藤鶴夫があり、安藤は新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥し、一方で古典落語界の権力者である人物はやはり評論で持ち上げ支援し、これにより昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした人物であるが、自身が嫌う落語家に対しては客席で露骨に「鑑賞拒否」の態度を取るなどという嫌がらせにも近い行為を見せ、他方で5代目春風亭柳昇柳昇は安藤の全盛期は中堅の真打で、新作落語のスペシャリストであった。によれば、安藤は売れて人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いしており、また、落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が寄席楽屋では立てられていたという春風亭柳昇『寄席花伝書―人間社会の道しるべ落語道』(青也コミュニケーションズ、2001年) ISBN 978-4881055366。同様の例として音楽評論家宇野功芳がいるが、宇野の場合は当時の「楽壇の帝王」ヘルベルト・フォン・カラヤンなどを激しく攻撃する一方で、日頃批判している演奏家の演奏や録音も評論のためにきちんと聞く姿勢を持っており、出来が良いと感じれば絶賛するという一面もあったため、安藤の様に大きく問題視はされなかった。

評論家の言動には、名誉毀損営業妨害に該当する内容が多分に含まれる場合がある。また、「評論」を通じて欠点や弱点の暴露や痛烈な批判を繰り返し開陳することで、批判的な世論を形成したり、対戦競技の場合はライバル選手に有利な情報をもたらすことで、極論すれば評論家が評論の対象とした人物の職業生命を直接に脅かす事が可能になる場合もある。そのため、時に評論家の言動はその対象とされる側にとっては単なる目障りを超えて死活問題にもなる事がある。それゆえ、評論内容を巡って法律問題・訴訟告訴などにも発展するケースはまま見られ、評論家や評論を掲載した出版社損害賠償が命じられる場合もある。上述した安藤鶴夫に至っては、評論で痛罵された事に激怒した柳家権太楼に本気で殺し合いの決闘を申し込まれてしまい、第三者を介して大慌てで詫びを入れ筆鋒を収めざるを得ない状況に追い込まれたことがある。

比喩表現としての評論家


自分で実行しないで他者の行為をあれこれ言う者を皮肉めかして「評論家」と呼ぶ。通常、以下のような観念と結びつけられて理解されることが多い。

  • 実行力の欠如
  • オーナーシップの欠如
  • 責任感の欠如
  • 傍観者的な姿勢

このような態度をシニカルに描いた小説として、筒井康隆の『俗物図鑑』(各種事象の“評論家”が登場)がある。

脚注


関連項目


ひようろんか
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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