第一次世界大戦下の日本 遺言

遺言

第一次世界大戦下の日本


遺言

遺言について考える

民法
相続
遺贈
遺書
遺言の方式の準拠法に関する法律
相続税法
遺留分
争族
贈与

遺言

 全ての人に訪れる死。訪れる前に大切な人へのメッセージをしっかりと残しておきたいと思います。

お勧めリンク

ネットショップ開業

商品検索

商品リンク 遺言 民法 相続 遺贈 贈与 相続税法 日本民法 遺言書



第一次世界大戦下の日本(だいいちじせかいたいせんかのにっぽん)では、日英同盟に基づき、連合国の一国として第一次世界大戦へ参戦した日本(当時は大日本帝国)について述べる。

参戦

日英同盟に基づく参戦


第一次世界大戦の開戦に際して、イギリスは日英同盟に基づき、ドイツ東洋艦隊を撃滅する必要から日本へ連合国側に立っての参戦を要請した。日本と同じくヨーロッパの外に位置するアメリカ合衆国は当時中立であり、日本の軍部は艦隊の外地派遣によって本土の防備が手薄になることを恐れ、即時参戦には消極的だった。一方でイギリスは開戦直後の混乱により政府内部の考えがまとまらず、「参戦不要」「参戦要請」「参戦延期要請」「地域限定参戦要請」「全面参戦要請」と通牒内容が目まぐるしく変わった。

しかし日本政府は1914年8月15日に、ドイツに対し最後通牒と云うべき勧告を行った。参戦に慎重だった為、異例の一週間の期限となったが結局ドイツは無回答の意志を示した。

大隈重信首相は、御前会議にもかけない上に、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部との関係悪化を招くことになる。8月23日に日本はドイツ帝国へ宣戦を布告した。

ドイツ帝国領の攻略


旧イギリス海軍墓地 (現イギリス連邦墓地) にある大日本帝国海軍第二特務艦隊戦没者の墓
1975.8.6撮影11月7日に、大日本帝国陸軍イギリス軍の連合軍は、ドイツ帝国東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省租借地である青島膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日 - 11月7日)。また、大日本帝国海軍は、太平洋のドイツ帝国の植民地だった南洋諸島マリアナ諸島カロリン諸島マーシャル諸島-当時は『ドイツ領マリアナ諸島カロリン諸島マーシャル諸島』と呼ばれた。)を攻略し、これを制圧した。

船団護衛


英仏露からは主戦場であるヨーロッパの戦線への帝国陸軍の派遣要請があった。ヨーロッパの戦場から遠く離れた日本軍にとっての課題である兵站・経費についてはヨーロッパの連合国が負担するという条件であったが、日本陸軍はあくまで「本土防衛が任務である」とし、これを拒絶した。また、イギリスより要請があった日本海軍の地中海への出兵も当初は断った。しかし、大日本帝国海軍は、連合国からの再三の要請を受け、イギリスやフランスなどが持つ世界各地の植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。1917年には、Uボートを中心とした無制限潜水艦作戦により輸送船の撃沈が続いていたインド洋地中海で、連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行い、司令官以下27人はイギリス国王ジョージ5世から勲章を受けた。

特に、1917年後半から開始したアレクサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献した。

地中海には巡洋艦「明石」及び樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊を派遣、後に桃型駆逐艦などを増派し合計18隻を派遣した。被害としては駆逐艦「榊」がオーストリア=ハンガリー帝国海軍潜水艦「U27」からの攻撃を受け大破、59名が戦死した。「榊」は完全な状態に修理するのに8か月を要した。他の戦闘をあわせて地中海前線においては日本軍将兵計78名が戦死しており、戦後、マルタ島のイギリス海軍墓地の一隅に墓碑が建立されている。

戦勝国


連合国の勝利に大きく貢献したこれらの功績により、大日本帝国は連合国五大国の一国としてパリ講和会議に参加し、ヴェルサイユ条約によりドイツの山東省権益と、パラオマーシャル諸島などの赤道以北の南洋諸島委任統治領として譲り受けるとともに、国際連盟常任理事国となった。

対華21ヶ条要求



青島攻略後の1915年1月18日、大日本帝国は同じ連合国である中華民国袁世凱政権に14か条の要求と7か条の希望条項を提示した。これは次のような内容であった。

  • ドイツ帝国が山東省に持っていた権益を大日本帝国が継承すること
  • 関東州の租借期限を延長すること
  • 南満州鉄道の権益期限を延長すること
  • 沿岸部を外国に割譲しないこと

要求に対して中国国内では反対運動が起こったが、日本側は5月7日に最終通告を行い、同9日に袁政権は要求を受け入れた。これにより中国人の反日感情が高まり、五四運動を引き起こした。これは蒋介石北伐との衝突である山東出兵1927年 - 1928年)に至る。

シベリア出兵


ウラジオストク内をパレードする連合国軍

1917年11月7日に、連合国の1国であるロシアで「ロシア革命」が勃発すると、西部戦線で手一杯になっておりロシアへの出兵の余裕がないイギリスとフランスの依頼により、陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対してシベリア出兵が打診され、1919年にはアメリカと共同歩調を取ってシベリア出兵を実施した。なお、イギリスやフランス、イタリアなども出兵したが、その規模は日本に比べ小さいものであった。しかし、他国が兵を戻す中でもシベリア出兵を継続したことで各国の猜疑を招き、国際的立場が厳しいものとなっていった。また、シベリア出兵の継続により、日本がロシアや中国においてアメリカの利権を侵すのではないかという疑いを持たれた。

ドイツ人捕虜への待遇


日露戦争時同様、戦時下においては陸海軍とも国際法を遵守し、捕らえたドイツ帝国軍俘虜は丁重に扱った。青島で捕獲した俘虜約4700名は徳島県板東俘虜収容所千葉県習志野俘虜収容所広島県似島検疫所俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた。このときにドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本に伝えられた。ベートーヴェンの「交響曲第9番」(第九)はこのときドイツ帝国軍俘虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。ドイツに帰還した元俘虜はこのときの扱いに感謝し、「バンドー会」を結成している。「今では日本語として定着している『びっくり』はドイツ人捕虜の発した『Wirklich(本当に?)』が語源である」との説も流布している。また、敷島製パンの創業者盛田善平は、ドイツ人捕虜収容所のドイツ軍捕虜のパン製造を教えられてからパン製造事業に参入するきっかけをつくった。

545名が移送された似島検疫所では、菓子職人のカール・ユーハイムが日本で初めてとなるバウムクーヘンを焼き上げたり、広島市産業奨励館(現在の原爆ドーム)で実演販売も行ったりした他、捕虜のサッカーチームが地元の師範学校チームと試合を通じて技術を教えるということもあった。この選手の一人はドイツに帰国後、サッカークラブ「SVヴァンヴァイル」を創設し、後にギド・ブッフバルトを輩出する礎を築いている。

影響

経済への影響


国土が戦火に見舞われなかった上に、当時すでに世界有数の工業国として近代工業が隆盛を誇っていた日本は、連合国の他の参戦国から軍需品の注文をうけ、成金が出現するなど大戦景気に沸いた。一方、急激にインフレーションが進み、貧富の差が広がった。また、戦争が終わると一転して戦後恐慌と呼ばれる不景気に見舞われた。工業は成長して生産力は増大、都市に人口が集中するなど人々の生活は大きく変わった。

アメリカとの関係悪化


日本が列強の一国となり、戦後にヴェルサイユ条約により山東省の権益と、アメリカ領フィリピンハワイの間に位置するパラオやマーシャル諸島の統治権を得たことや、シベリア出兵を続けるなどしたことが、日本がアジア太平洋地域において排他的経済ブロックを構築し、他列強による中国への経済進出を阻害するのではないかとの警戒を呼んだ。アメリカ国内でも日本に対する脅威論が支持を受けた他、これに後押しされた人種差別的指向を持つ諸派が「黄禍論」を唱え、その結果、排日移民法によって日本からアメリカへの移民が禁止された。また日本でもそれに対して反米感情が高まり、日米関係は悪化することとなった。

日英同盟解消


同様の警戒感はイギリスも共有していたため、太平洋における領土と権益の相互尊重と、諸島における非軍事基地化を取り決めた「四カ国条約」をアメリカが提唱し、1921年には日本、アメリカ、イギリス、フランスの間で同条約の締結に成功し、同時に日英同盟は解消された。日露戦争後には友邦となっていたロシアが革命によって共産化したことも重なり、日本は実質的な同盟国をもたない状態となった。

外部リンク


関連項目


たいいちしせかいたいせん
にほん



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


[hsk media group] [鼻の手術日記] [Active Server Pages Reference ] [テレホンカード] [遺言] [ブランドショップ]