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目隠しされた正義の女神像は、[[法の下の平等原則から要請される法的安定性の確保のための、個別的事案の特殊性への意図された無関心を象徴するラートブルフ(1964)13頁。アリストテレス以来の西洋正義論の中核は平等という思想にほかならなかったラートブルフ(1964)32頁、B.N.カドーゾ著・守屋善輝訳『法律学上の矛盾対立』(中央大学出版部〈日本比較法研究所翻訳叢書〉、再版1984年)62頁。法解釈(ほうかいしゃく)とは、各種の法源について、その内容を確定することをいう我妻(1965)27頁。法源とは、法解釈の対象となる、法の存在する形式のことをいう我妻(1965)7頁。
概要
「馬つなぐべからず」という立て札があるときに、[[牛はつないでも良いのであろうか?我妻(2005)147頁馬を禁じたのが、馬がいななくためとか繋がれた木を蹄で蹴って困るからという理由に限定されるなら、牛については繋いでも良いことになるし、馬が糞尿をして困るというのであれば、牛は繋いではいけないことになる。我妻(2005)150頁。一般的には馬に限定される理由はない場合がほとんどであろうが(→証明責任)、規定の文字だけでは水かけ論になるから(→#文理解釈)、その趣旨を考える必要がある(→#反対解釈・類推解釈)。我妻(2005)148頁]]文字に表された規範ないし法則は、たとえそれ自体は一見極めて明瞭なようでも、千変万化の具体的事象に適用するに当たっては、不可避的に解釈上の疑義を生む我妻(1965)27頁、棚瀬(1994)66頁(右画像参照)。法学の対象とする法もまた例外でないから、法律を暗記してもそれだけでは役に立つものではなく我妻(2005)1頁、ここに法解釈の必要が生じる。
法解釈においては、単に具体的事件のみに妥当な結論を導くことができれば足りるものではなく、同種の事件が生じたときにも、同様の結論を得ることができるという確信の下に行われなければならない長谷川(2008)448頁。さもなければ、「どのような行為があればどのように法的に判断されるかについて一般人が不安をもつ必要のない状態」、すなわち法的安定性(独:Rechtssicherheit; 仏:sécurité juridique; 英:legal certainty)が害されてしまうからである竹内ほか(1989)1299頁、中野(2002年)16頁。したがって、法解釈においては、法的安定性を害すること無く、いかにして個別の事案についての社会的正義、すなわち具体的妥当性を発揮するかが最大の課題である我妻(2005)153頁、我妻(1953)534頁、我妻「私法の方法論に関する一考察」『ジュリスト』563号183頁、長谷川(2008)449頁(→#立法者意思説と法律意思説)。そして、注意すべきは、法的安定性と具体的妥当性のどちらを重視し、両者をどこで調和させるべきかは、時代によって我妻(2005)155頁、梅(1907)305頁(→#概念法学と自由法論)、また法律の領域によっても異なってくるということである我妻(2005)156頁、梅(1907)305-306頁例えば、同じ民法においても、物権・相続・法人といった客観的制度を扱うものにおいては、統一的取り扱いの必要から法的安定性の要請が強くなるのに対して、債権のように当事者の主観的関係を取り扱うものについては、具体的妥当性により重きをおくべきものが多くなる。我妻(2005)156頁(→#刑法における慣習法解釈)。
要するに、解釈という論理操作を経ることなく意味の明瞭な法は、一つも無いといっても過言ではない。
法解釈の対象
法源は法典を始めとする明文の制定法に限られないから、慣習法や判例法についても、解釈は必要である我妻(2005)139頁。
慣習法
歴史法学派の巨頭にしてラートブルフ(1964)49頁、富井(1922)6頁、近代法学の祖とされるサヴィニー勝田・山内(2008)299頁。民族精神に裏付けられた慣習法の蓄積による緩やかな法形成という理想は、古城を愛でるかのようなロマン主義に基づくものとして[[文学者のゲーテとの同源性を指摘され、しばしばアンゼルム・フォイエルバッハ及び詩人シラーとに対比されるラートブルフ(1964)50頁、ヤーコプ・グリムも参照(→#概念法学と自由法論)。慣習法とは、慣習に基づいて成立する法のことをいう長谷川(2008)7頁。歴史的には、慣習法は成文の制定法に先立つものである団藤(2007)166頁、穂積重遠『新民法讀本』(日本評論社、1948年)3頁。
慣習法解釈の問題点
慣習法の解釈においては、慣習そのものが本来明確なものでないから、その存在、内容などをある程度はっきり確定させること、また成文法と調和させることが重要な任務になるラートブルフ(1964)45頁、我妻(2005)139頁、法の適用に関する通則法3条、日本民法92条、日本商法1条2項参照(→#成文法解釈)。慣習法と成文法の調和の仕方を巡っては、成文法の優位を説き法と道徳の峻別を重視する法実証主義と、成文法と慣習法の連続性を強調して両者の共通点に着目する自然法論の対立があると説明されることがある長谷川(2008)428頁(→#反対解釈・類推解釈)。しかし、歴史法学の立場から、自然法論を批判する論者が慣習法の尊重を説くこともあり星野(1970)165頁、穂積陳重「英佛獨法律思想の基礎」穂積(1932)165頁(→#概念法学と自由法論)、また逆に自然法論者が不文の慣習法の排除を説くこともあり、両者の対立が必ずしも対応するわけではない星野(1970)166頁。
例えば、18世紀から19世紀にかけてのフランスにおいては、自然法の現れとみなされたナポレオン法典による慣習法の統一を背景に、紛争はことごとく法文解釈の枠にはめて規律しようとしていた碧海(2000)149頁、潮見・利谷(1974)33頁。一方、ドイツにおいては、1794年に成立したプロイセン民法典が同様の見地から詳細かつ網羅的な立法を試みたが挫折しラートブルフ(1964)181頁、法の普遍性を強調する自然法学派に対し、法の歴史的必然性を強調する歴史法学派により、フランスとは逆に、早急な人為的立法によることなく(→#法解釈の現代的展開)、社会的な自然の慣習法の発達に多くを委ねるべきとの立場が有力になったラートブルフ(1964)46頁。当時ヨーロッパを席巻していたロマン主義(右画像参照)、及び分断化されていたドイツの政治的事情が背景にあるラートブルフ(1964)45頁、勝田・山内(2008)301-303頁(→#概念法学と自由法論)。ナポレオン戦争の影響によって、ティボーらにより、国家統一のための統一的な法典整備の必要が叫ばれたのに対し穂積陳重『法窓夜話』98話、デルンブルヒ(1911)序文(穂積陳重執筆)、サヴィニーをはじめとする歴史法学派が反対したのはこのためであった(法典論争)石坂(1919)93頁。ところが、19世紀末から20世紀にかけて、ナポレオン法典の老朽化とドイツ民法典の制定によって、両国の解釈態度は逆転し始めたのである(→#論理解釈)。
これに対し、英米法特にイギリス法は、このようなフランス・ドイツを中心とする大陸法における法典化運動、すなわち慣習法の全面的な制定法化には従わなかったラートブルフ(1964)188頁、マグナ・カルタも参照。むしろ、かつてドイツの歴史法学派が主張したように、成文法の制定は慣習法の個々の点について生じた誤りを是正するためにのみなされるべきだと考えられたのである。
これは、成文法は立法者の恣意によって変動しうるからラートブルフ(1964)45頁、それよりも何世紀にもわたる慣習法と判例法の蓄積によって、裁判官を拘束し恣意を防ぐことが合理的であると考えられたためである。
一般論としては、もし成文法を重視する主義に立てば、法源の明確さゆえに法的安定性の確保に資するが、反面、慣習法や判例法のような不文法を重視する主義によれば、柔軟な解釈によって、より具体的妥当性を実現しやすいということはできる我妻(1965)8頁、ラートブルフ(1964)45頁、星野(1970)153-184頁、団藤(2007)299頁、竹内ほか(1989)1299頁(→#立法的解釈の問題点)。
刑法における慣習法解釈
犯罪と[[刑罰の均衡を説くベッカリーア、ベンサム、J.S.ミルらの潮流を受け藤木(1975)13頁、カントの影響の下罪刑法定主義の理論的基礎を構築したアンゼルム・フォイエルバッハ裁判所職員総合研修所(2007)12頁。バイエルン刑法典の起草者であり、法典論争ではサヴィニーに対抗する論陣を張ったラートブルフ(1964)49、296-297頁。近代刑法においては、「法律なければ犯罪なく、法律なければ刑罰なし」という法格言に表されるように裁判所職員総合研修所(2007)15頁、どのような行為が犯罪となり、どのような刑罰が科されるのか、あらかじめ成文法で定められていなければならないという罪刑法定主義の原則があるため大塚(2008)11頁、藤木(1975)34頁、世界人権宣言第11条参照、慣習法や条理を独立の法源とすることは許されないラートブルフ(1964)162頁、長谷川(2008)49頁、藤木(1975)35頁(→#条理)。もっとも、成文法規の解釈に当たって慣習や条理を考慮することまで排除されるわけではない裁判所職員総合研修所(2007)18頁、藤木(1975)36頁、日本刑法35、123条等参照(→#論理解釈)。
行政法における慣習法解釈
行政法分野においても、法的安定性の確保及び三権分立による国家権力の恣意的行使の抑制という見地から藤田(2007)38、40頁、現に存在している法律による行政の原理に依拠した国家権力のコントロールが重要になる団藤(2007)109頁、藤田(2007)48-60頁「法律による行政の原理」とは、「行政の諸活動は、法律の定めるところにより、法律にしたがっておこなわれなければならない」という法原則ないし法思想のことをいう。藤田(2007)37頁(→#成文法解釈)。したがって、慣習法の成立する余地は本来少ない藤田(2007)37-71頁。したがって、この観点からは日本において広く行われている行政指導には批判がある団藤(2007)109頁行政指導という概念は、必ずしも一致したものがあるわけではないが、例えば「私人を直接相手として行われる、行政主体(行政機関)の行為であって、私人の法的利益に直接の変動を及ぼさないという意味において事実的な行為であるが、現実には、経済的・心理的その他法外的な影響力を持ち、私人の意思決定にとってしばしば重大な意味を持つようなもの一般」というように定義される。藤田(2005)325頁。例えば、行政機関が、ある建物が建築基準法や都市計画法に違反した違法建築物であると考えるとき、持主に改善を呼びかけるようなものがその一例である。藤田(2007)156頁。行政指導に従うべき法的な義務は無いが、これに抵抗することは実際上困難なことが多く、違背すると法令の根拠があるとは限らないにもかかわらず、しばしば事実上の不利益を受けるからである藤田(2007)158-159頁行政指導に違背した場合に受ける不利益の例として、実名の公表(国土利用計画法26条)、公共サービスの供給の拒否等がある。藤田(2007)159、178-179頁。もっとも、問題のある行為に対して、いきなり法令の適用という最終手段に訴えることを抑制しつつ藤田(2007)156、165頁、望ましい適法状態の具体的実現を図ることによって、具体的妥当性を実現しうるという積極的意義をも認めることができる村山・濱野(2003)161頁。
一方で、行政指導を信頼してした私人の行為に対し、行政機関が先の行政指導と矛盾した扱いをする場合、信義誠実の原則違反、禁反言の法理に対する違反を理由に、不利益を受けた私人の側からの行政訴訟を提起される場合が多々あり、行政法学上重要な解釈問題になっている藤田(2007)163頁。
また、税法分野は特に法的安定性への要請が強い領域であり、近代法の下では租税法律主義が妥当するから、法解釈において慣習法の入り込む余地は更に少なくなる長谷川(2008)49頁、伊藤(1995)475頁租税法律主義とは、「法律の根拠に基づくことなしには、国家は租税を賦課・徴収することはできず、国民は租税の納付を要求されることはない」とする原則のことをいう。金子宏『租税法 第十六版』(弘文堂〈法律学講座双書〉、2011年)69頁。租税は国民から強制的に財産権を奪うものであるから、近代法治主義の理念に基づき、立法機関の承認を受けたものでなければならないからであり伊藤(1995)475頁、金子・前掲租税法69頁、日本国憲法第84条、第30条、第41条参照、租税法律主義の趣旨を損なわない範囲で、規定の細部を政令などに委任することが許されるだけである伊藤(1995)476頁(→#立法的解釈の問題点)。
もっとも、行政庁における長年にわたる取扱例が、広く一般国民の間に社会的な法的確信を得るに至った場合、行政先例法と呼ぶ一種の慣習法として、解釈上一定の法的拘束力が認められる場合がある長谷川(2008)50頁(→#概要)。
私法における慣習法解釈
私法分野においても、国民の権利・利益に関するものである以上伊藤(1995)560頁、裁判はなるべく立法府の適法な手続によって制定された成文法によるべきではないのか、そもそも法とは何であるかの問題が横たわっている我妻(2005)135頁、石坂(1919)111-138頁(→#国際法における慣習法解釈)。特に、成文法を中心とする大陸法においては、成文法を正面から否定する態度は避けなければならない我妻(2005)124頁(→#成文法解釈)。そこで、刑法におけると同様(→#刑法における慣習法解釈)、成文法の解釈上慣習法を取り込むことによって両者を調和させる論理操作をすることになる我妻(2005)125頁。
例えば、慣習に則って結婚式をし、夫婦の実質を伴った共同生活をしていようとも、現代の複雑な法律関係を簡明に処理するためには、当事者にとっても第三者にとっても、婚姻成立を客観的に明確にしておくことが望ましいとの立法趣旨から、日本民法第739条(旧775条)は戸籍法上の届出という適法な手続を経ることを「婚姻」の成立要件として要求している中川善之助『新訂 親族法』(青林書院新社、1968年)257頁、仁井田益太郎・穂積重遠・平野義太郎「仁井田博士に民法典編纂事情を聞く座談会」『法律時報』10巻7号23頁、法典調査会『民法修正案理由書 第四編親族第五編相続』(博文館、1898年、信山社、1993年)53頁。すると、届出を経ない内縁については、739条の反対解釈によれば、一切の法律的効果は認められないはずである(→#反対解釈・類推解釈)我妻(2005)125頁。これに対し、世間一般では夫婦と認めるにもかかわらず、ただ法律が夫婦と認めないというような関係は民法の予想しないところであると解釈すると、内縁関係については法律の規定が無いということになり、慣習法による補充は法の許容するところであるとの結論を導くことができる我妻(2005)125頁、法の適用に関する通則法第3条参照。現在の判例・学説は、内縁を社会の習俗・道徳と法律の食い違いから生じた一種の準婚関係とみて、一定の範囲で婚姻に準じた取扱いをしようとして、本来の立法趣旨である法的安定性を尊重しつつ、具体的妥当性を発揮させようと努力している我妻栄・有泉亨・遠藤浩・川井健『民法3 親族法・相続法 第2版』(ダットサン民法)(勁草書房、2006年)116頁、最判昭和33年4月11日民集12巻5号789頁参照(→#立法者意思説と法律意思説)。
国際法における慣習法解釈
主に主権国家間の関係を規律する国際法においても、慣習法の存在を認めることができる杉原(2008)1、59頁、ラートブルフ(1964)256頁。これに対し、法の本質を主権者による命令であるとするオースティンらによって松波ほか(1896)3頁、石坂音四郎も参照、主権者による強制という要素を欠く国際法の法的性質を否定する見解もかつては主張されていたが杉原(2008)5頁、1921年に制定された常設国際司法裁判所規程は、国際条約のみならず、国際慣習法が裁判上の直接の基準となることを認めており杉原(2008)59頁、常設国際司法裁判所規定第38条前段、現国際司法裁判所規程第38条1項、国際慣習法は国際条約と並ぶ重要な法源として機能している団藤(2007)167頁。伝統的な通説は国家の明示的又は黙示的意思にその根拠を求め杉原(2008)7頁、ある事項に関する諸国家の一般的な慣行が認められることと、その慣行が全ての国によって遵守・履行されなければならないという法的ないし必要的信念という二要件を慣習法の形成要件として立ててその解釈基準としている杉原(2008)62頁。そのような意思的・主観的要件への批判もある(→#概念法学と自由法論)。
判例法
裁判によって明らかにされた規範が法源としての効力を持つに至ったとき、これを判例という我妻(2005)127頁。判例の解釈については、個々の具体的裁判例から一般的に妥当する射程を明らかにし、類似の事案から帰納的に、一定の抽象的法則を構成することが必要である。
判例法解釈の問題点
判例を法源としてどれだけ尊重し、判例法としての事実上又は法的な拘束力を認めるかは、法的安定性を脅かすことのないよう団藤(2007)232頁、ラートブルフ(1964)36頁、かつ個々の事案についての具体的妥当性を実現させるという、矛盾・対立する要請をいかに調和させるかの問題でもある中野(2002年)16頁(→#立法的解釈の問題点)。特にイギリスでは、法的安定性の確保のために上級審の判例遵守(英:stare decisis)の原則が立てられているラートブルフ(1964)188頁。もっとも、1966年には、厳格な先例拘束の原則が緩和され、判例の変更が可能になった伊藤・木下(2008)122頁、団藤(2007)167頁。
これに対し、アメリカ法においてはイギリスのような中世以来の判例法の伝統を欠いており、各州の法制度の独立性が高い制度的事情フランス法系のルイジアナ州は各州の法制度の独立性の高さを示す典型例である。アメリカ合衆国憲法修正第10条参照、伊藤・木下(2008)36頁、訴訟が頻発し判例の蓄積が極めて膨大という社会的事情などと相まって、判例の拘束力は相対的に弱いものとなっている伊藤・木下(2008)123-125頁。
英米法では、勝訴・敗訴や違憲・合憲といった判決の結論それ自体や、判決文が言及する一般論の全てが法源としての拘束力を持つものとは考えられておらず、一般に、判例とは判決の結論を導くうえで重要な意味のある法的理由付け、即ち判決理由(レイシオ・デシデンダイ)のことを言い芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法 第4版』(岩波書店、2007年)374頁、長谷川(2008)52頁、中野(2002年)29頁、そのような意味を持たない傍論との区別(英:distinguish)の手法が発達している伊藤(1993)47頁。
これに対し、大陸法においては直接の法源とはならないが伊藤(1993)43頁、成文法を補充するものとして、事実上の法源としての一定の拘束力を認めることができる伊藤(1993)44頁。この範囲については、英米法の国々との比較においてさえ最高裁判所の判例をより強く重視する傾向の強い日本法においても伊藤(1993)49頁、裁判所法10条3号参照、英米法と同様判例はレイシオ・デシデンダイのみに限られると解するのが通説であるが長谷川(2008)52頁、中野(2002)31頁、芦部・前掲憲法374頁、田宮裕『新版 刑事訴訟法』(有斐閣、1996年)492頁、『最高裁判所判例解説刑事篇昭和二十九年』(法曹会、1954年)94頁(青柳文雄執筆)、実際には厳密に区別されて運用されているわけではなく、最高裁判所の傍論もまた下級審の裁判実務に指導的な役割を果たし、事実上の法源として機能する事が少なくない伊藤(1993)44頁、田中(1994)64頁、『最高裁判所判例解説民事篇平成七年』(法曹会、1995年)912頁(田中豊執筆)。
民事及び手続法における判例法解釈
民事法の領域では判例法による新たな法規範の生成は顕著にみられる中野(2002年)28頁。民事事件では、刑事事件と異なり裁判所は該当する法律が存在しない(法の欠缺)という理由で紛争当事者が求める裁判を拒否することは許されないから中野(2002)28頁、伊藤(1995)400頁、市民的及び政治的権利に関する国際規約14条1項、日本国憲法第32条参照、事案に適合する規範を発見もしくは創造して裁判しなければならないためである。民事訴訟法や刑事訴訟法等の手続法の分野についても同様で、たとえ詳細な成文法令が整備されていても、なお法の予定しなかった問題が生ずることは避けられないから、やはり判例法が重要な役割を果たす。
刑法における判例法解釈
罪刑法定主義の下では、一般に判例の法源性は否定されている団藤(2007)167-168頁。しかし、法律の規定を超えて犯罪や刑罰をみとめるのではなく、抽象的に規定された成文法の内容を解釈によって具体化してその内容を明らかにする、という意味での二次的な判例法を認めるのであれば罪刑法定主義に反しないばかりか、法的安定性の確保に役立つという意味で、罪刑法定主義の要請するところであるとも指摘されている団藤(2007)168頁(→#刑法における慣習法解釈)。
国際法における判例法解釈
国際法においても、前述の国際司法裁判所規程により(→#国際法における慣習法解釈)、判例法を二次的な法源とすることが認められている杉原(2008)59、74頁、国際司法裁判所規程38条1項(d)。しかし、判決におけるレイシオ・デシデンダイと傍論とを区別しないで引用するという慣行が裁判上定着しており、解釈上の問題点となっている杉原(2008)74頁(→#判例法解釈の問題点)。
条理
条理とは、物事の筋道であり、人間の理性に基づいて考えられるところのものをいう我妻(2005)133頁。ある事件について適用すべき制定法の不備・欠缺があり、適当な慣習法も判例法も無い場合に、この条理に基づく裁判をすることができるかの問題が生じる長谷川(2008)52頁、我妻(2005)134頁(→#成文法解釈)。英米法においても、ローマ法はしばしば条理として採用されたが穂積(1932)93頁、成文法がある程度完備されている場合には、単独で条理を法源とすべきではなく、成文法の枠内で条理を取り込む解釈によって(→#論理解釈)、法的安定性と具体的妥当性の調和をはかることができると主張される石坂(1919)82頁法的安定性を重んじる近代法学の立場からは、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』や大岡忠相の大岡政談などに対しては、狡猾な脱法行為であるとして批判的な目が向けられる。ラートブルフ(1964)198頁(→#概念法学と自由法論)。
なお、スイス民法1条等、明文で条理の法源性を認めている場合もある石坂(1919)82頁、我妻(2005)135頁、団藤(2007)169頁(→#概念法学と自由法論)。日本でも、明治8年には、民法典が制定されておらず、統一的・近代的な法慣習も無かったことから、明治八年太政官布告百三号裁判事務心得第三条において、「民事ノ裁判二成文ノ法律ナキモノハ習慣二依リ習慣ナキモノハ条理ヲ推考シテ裁判スヘシ」とされ、これに基づく裁判が為されたが、何をもって条理とすべきか紛糾した梅謙次郎「法典二関スル話」国家学会雑誌12巻134号336-338頁、仁井田ほか・前掲法律時報10巻7号27頁。フランス法系の法律学校で学んだ者はフランス法を条理であるとし、イギリス法系の法律学校で学んだ者はイギリス法を条理として援用し、その不統一が問題となったのである(→#立法的解釈の問題点)。実際に施行されることのなかった旧民法が公布されたときにおいても、裁判官や学者がこれを事実上の法源として利用・研究したのはこのためであった杉山直治郎『洋才和魂の法学者・ボアソナード尽瘁半生の生涯』帝国大学新聞昭和11年11月26日号、潮見・利谷(1974)63頁。この裁判事務心得の規定は、21世紀に入ってもなお廃止されていない団藤(2007)169頁。
学説
学説も、歴史的には法源たりえてきた団藤(2007)170頁。特に、ローマ帝政時代には皇帝の勅許に基づいて法学者に法律問題を解答する権限が与えられ団藤(2007)170頁、前田(2003)3頁、ハドリアヌス帝の時代になると、解答権を有する法学者の意見が合致するときには、法律としての効力が認められた(→#立法的解釈)。その集大成が、ユスティニアヌス帝の命によって編纂され、後のパンデクテン法学で重要視されてドイツ民法典の基盤となった、ローマ法大全中の要部を占める『学説彙纂』である前田(2003)3、8頁(→#概念法学と自由法論)。近世においても、権威ある学者の学説はしばしば法源と同等の価値を認められ、例えば、17世紀のザクセンにおいては、ライプチィヒ大学の正教授であったの著書『プラクティカ・ノーヴァ』は、1世紀以上にもわたってほとんど刑法典と同等の効力を認められていた。
近代以降においても、学説は問題解決の手がかりを与え、新たな立法や判例法の形成(→#学理的解釈の問題点)、条理の探求等において(→#概念法学と自由法論)、成文法を補う二次的・補助的な法源としての性格を認めることは可能である団藤(2007)170頁、常設国際司法裁判所規定第38条、スイス民法1条参照例えば、19世紀の終わりの30年の間、ドイツの裁判所では、多くの事案がローマ法大全を体系化・抽象化したヴィントシャイトの主著『パンデクテン法教科書』に従って判断・処理された(→#概念法学と自由法論)。勝田・山内(2008)327頁。また、1900年に成立したドイツ民法典もヴィントシャイトの学説の影響が非常に強く、特にその第一草案は「小ヴィントシャイト」と呼ばれたほどであった。勝田・山内(2008)325頁、前田(2003)8頁、デルンブルヒ(1911)11頁(→#刑法における判例法解釈)。しかし、近代三権分立原則の下においては、学説は単独で法源となることはない(→#成文法解釈)。
一方、イスラム法系においては、第一次的な法源はコーラン及びムハンマドの言行録であるハディースであるが、イスラム法学者の著作群にも伝統的に一定の範囲で法源としての効力が認められてきた田中周友『世界法史概説』(有信堂、1950年)374頁。もっとも、その解釈手法においてはスンニ派の四学派と、これに対するシーア派とがあり、各派により解釈の手順・内容が異なっている団藤(2007)152頁。
成文法解釈
フランス民法典は、ローマ法に影響を受けながらも、慣習法の集大成にフランス革命の精神を加えて成立したものであった星野英一「民法の解釈のしかたとその背景(下)」『法学教室』97号(有斐閣、1988年)15頁。大陸法系において最も重要な任務は、文字によって明示され、一定の手続を経て制定された成文法(制定法)の解釈である我妻(2005)139頁、長谷川(2008)7頁。成文法規は、主権者の委任により、国会の立法権に基づき、判断の恣意性を排除し、客観性を保障する機能を持つべく制定されたものでありラートブルフ(1964)170頁、伊藤(1995)560頁、日本国憲法前文・憲法1条・43条・日本国憲法第14条・日本国憲法第41条・第76条3項参照、法規自体がひとつの利益衡量に基づく結果の集積ともいえるものであるから、客観的な条文を離れていたずらに理論学説に走り、あるいは法律の立場を離れた生の価値判断、いわゆる裸の利益衡量のみによって法律を議論することは厳に慎まなくてはならないとしばしば警告される裁判所職員総合研修所『新訂民法概説 三訂版』(司法協会、2005年)12頁、我妻・前掲ジュリスト563号180頁、我妻(2005)32-42頁、我妻(1953)536、560頁、星野英一「民法の解釈のしかたとその背景(上)」『法学教室』95号(有斐閣、1988年)54頁、加藤雅信『新民法大系I民法総則 第2版』(有斐閣、2005年)53頁、石坂(1919)70-82頁、富井(1922)92、101頁、香城利麿「利用者から見た法解釈学説」『ジュリスト』655号(有斐閣、1978年)299頁、森島(1987)5頁。
もっとも、立法府が制定した法律を補充するものとして、政令・規則等の命令や条例等があるから、これらを含めた法令全体が法解釈の対象になる長谷川(2008)7頁。
なお、行政機関が統一的取り扱いの確立のために内部的に発する訓令・通達などは、前述のとおり慣習法となりうるものの(→#行政法における慣習法解釈)、直接には裁判官を拘束する法令には含まれない長谷川(2008)60-62頁。
一般法と特別法
ある事柄につき一般的に規定した法令がある場合に、同じ事柄について、ある特定の事物に限って、異なる内容を定めた法令が制定されているときには、この二つの法令は、一般法(羅:ius generale; 独:gemeines Recht; 仏:droit général; 英:general law)と特別法(羅:ius speciale; 独:Spezialrecht, Partikularrecht; 仏:droit spécial, droit particulier; 英:special law, particular law)の関係に立つといわれ、特別法が優先して適用される長谷川(2008)324-327頁、竹内ほか(1989)40頁(→#概念法学と自由法論)。例えば、民法は私法の一般法であるが、商事については、商法が特別法となる長谷川(2008)325頁、日本商法1条。もっとも、商法の特別法もまた観念しうるのであって、この一般法・特別法の区分は相対的なものに過ぎない長谷川(2008)325頁、竹内ほか(1989)40頁。法令によっては明文の定めを置く場合もあるが、そういう明文の定めが無い場合においても、当該法令全体の趣旨から判断する必要がある長谷川(2008)325頁(→#論理解釈)。また、同一の法令の各規定同士の関係においても、同様な判断が必要である。
上位法と下位法
各種の法形式相互間で、競合する所管事項について内容に矛盾衝突が生じることがある長谷川(2008)313頁。この場合、異論もあるが、例えば国会の制定した法律の方が各種の命令・規則よりも上位の法であるとして優先される田中(1994)58頁。つまり、上位法は常に下位法よりも強い効力をもつため、下位法は上位法に反する解釈を採ることができない。憲法は上位法の典型例である長谷川(2008)313頁、伊藤(1995)10頁、田中(1994)58頁、日本国憲法第98条1項参照。憲法と条約とが矛盾するとき、どちらが上位法として優先されるかについては議論がある伊藤(1995)687頁、田中(1994)58頁。
前法と後法
上記と異なり(→#上位法と下位法)、ある法律と別の法律というように、同等の効力を持つ同位の制定法の内容が矛盾する場合、時間的に後に出来た方が優先する長谷川(2008)320頁、藤田(2007)40頁、田中(1994)58頁。立法者の意思を推定・仮定すれば、前法に矛盾する後法をあえて制定するのは、前法を改める趣旨であると考えられるからである長谷川(2008)321頁、藤田(2007)40頁(→#立法者意思説と法律意思説)。したがって、例えば甲法が制定・公布された後、それが施行される前に乙法が制定・公布され施行された場合でも、甲法を改めるのが乙法の立法趣旨であると考えられるから、先に施行された乙法の方が後法であるとして優先することになる長谷川(2008)321頁(→#立法的解釈)。もっとも、いかなる法体系の下にも当然にこのように考えられるわけではない藤田(2007)40頁。例えば、イスラム法系においては(→#学説)、法源たるコーランは神が創ったものであるから、人為的な後法によってこれを改変することは許されない藤田(2007)39、40頁。社会主義国家における法体系も、マルクス主義に代表される一定の思想ないし世界観を基盤としたものであるし、イギリスのコモン・ロー法体系における古来の不文の慣習法についても同様に、人為的な後法による改変には限界があると考えられる。そのような法体系を採らない国々においても、国家の最高法規である憲法典については、憲法の基礎にある人類普遍の原理と考えられるものまでは改正によって排除することはできないと考えられることが多い伊藤(1995)675頁、フランス憲法89条、イタリア憲法139条、ドイツ連邦共和国基本法73条3項、日本国憲法第11条、97条参照。法治主義の本質の理解に関わる問題である藤田(2007)39、40頁(→#論理解釈の問題点)。
法解釈の主体
法令の最終的な解釈は司法権を有する裁判所が行うものであるが、このことは、裁判所以外が法令の解釈をすることを禁ずることを意味しない長谷川(2008)395頁。国、地方公共団体の立法機関や(→#立法的解釈)、行政機関、学者、弁護士、その他の一般私人も、学問的探求のため、或いは紛争の解決・予防のために、法令の解釈を行うことが必要になる。その解釈によって裁判所を拘束することができるかは別問題であるというだけである長谷川(2008)395頁、富井(1922)91頁、松波ほか(1896)47頁(→#立法的解釈の問題点)。そこで、後述のように多様な解釈が成立しうる中で(→#法解釈の手法)、個々の学者や弁護士などの一般私人による解釈すなわち学理的解釈(私解釈富井(1922)92頁、神谷義郎・服部秀一・神谷力『現代の法学』(有信堂、1966年)42-43頁、無権的解釈松波ほか(1896)47頁)に対比して(→#学理的解釈)、権威を持つ公的機関(立法府のみならず裁判所、行政機関等)による解釈という意味で有権解釈(公解釈、公定解釈、公権的解釈、英:authentic interpretation)と呼ぶことがある長谷川(2008)397頁、竹内ほか(1989)1301頁、富井(1922)92頁行政機関の有権解釈を特に行政解釈と呼ぶことがある。長谷川(2008)397頁。
これは、有権解釈が事実上法律と同一の拘束力を生ずることを理由とするが、この区別は解釈の主体及び効力に関する形式上の区別に過ぎず、解釈手法に関係に直接の関係がないため(→#法解釈の手法)、その原理を説明するに付き特別の価値あるものではないとの指摘もある富井(1922)92頁。もっとも、公的機関による有権解釈は広く一般国民に影響を及ぼしやすいものであるために(→#概要)、その解釈にあたっては法的安定性への要請が強く要求されることになる長谷川(2008)398頁。
そこで、有権解釈においては、当該機関がその解釈を覆すまでは、他の下位諸機関を法的又は事実上拘束し(→#判例法)、それによって法的安定性が保たれることになる(→#立法的解釈)。
これに対し、立法的解釈により、ある特定の行政機関や職員個人に一定の範囲で法令の解釈権限が委任されている場合もある長谷川(2008)399頁、裁判所総合研修所『民事訴訟法講義案(再訂版)』(司法協会、2009年)10頁、裁判所総合研修所『民事実務講義案I(四訂版)』(司法協会、2008年)8頁。この場合の有権解釈は一般国民をも広く拘束することになる長谷川(2008)400頁、会計検査院法第37条2項、公正取引委員会参照。
法解釈の手法
近現代における法解釈学という学問そのものが、イルネリウスをはじめとする註釈学派がスコラ神学における聖書解釈技法を取り入れて、成文のローマ法大全の解釈方法としたものに由来する田中(1994)310頁、金山(2003)168頁(→#概念法学と自由法論)。このために、日本語で法解釈というと通常は成文の法令解釈を意味するから、以下では成文法の解釈を中心に記述する長谷川(2008)4頁、我妻(2005)140頁、竹内ほか(1989)1281頁、末川博創始・杉村敏正・天野和夫編集代表『新法学辞典』(日本評論社、1991年)978頁。法令解釈の方法については、論者によりバリエーションがあり用語法も一定しないが、概ね以下のように分類することができる我妻(1965)27-29頁を中心に、石坂(1919)33頁、富井(1922)91頁、デルンブルヒ(1911)30頁、長谷川(2008)404頁、鳩山(1923)14頁、松波ほか(1896)47頁。
立法的解釈
立法的解釈富井(1922)91頁、松波ほか(1896)47頁、民法改正研究会・加藤(2009)10頁、有権的解釈デルンブルヒ(1911)30頁、石坂(1919)85頁、鳩山(1923)14頁、法規的解釈とは、立法者自らある法律の意義を確定することをいう長谷川(2008)404頁。いわば解釈の立法的解決である。ドイツの民法典大改正はその典型例である内田(2009)32頁EUによるヨーロッパ統合を背景としており、内田貴らの推進する日本民法典の改正とは事情が同じでない。加藤雅信『民法(債権法)改正――民法典はどこにいくのか』(日本評論社、2011年)83頁。民法施行法による場合など、当該法律制定後になされることが多いがデルンブルヒ(1911)32頁、一般人が迷ったり、誤ったりすることを予防する目的から、立法時に定義規定を置く場合もある民法改正研究会・加藤(2009)10頁。
その目的は規定の法律がその後付加した意義を最初から有していたものとして裁判官を拘束することにあり、実際に最初からそのような意味を有していたかどうかは問題ではないため、訴訟の未確定の場合においても遡及すると考えられているデルンブルヒ(1911)32頁、富井(1922)91頁。法律は、その時々の国民の代表である議会の意思を表すものであると考えられるから(→#立法者意思説と法律意思説)、議会の意思が変われば、過去の議会意思である旧法に優先して効力を持つためである(→#前法と後法)。
ただし、罪刑法定主義の下においては、遡及処罰禁止の原則が妥当するラートブルフ(1964)162頁、大塚(2008)11頁、裁判所職員総合研修所(2007)21頁、藤木(1975)35頁、日本国憲法第39条参照(→#刑法における慣習法解釈)。
立法的解釈の問題点
「朕は法典を手にして後世に望むべし」との言を残すなど穂積(1890)第五編第六章、ナポレオンは自ら編纂に関与した法典の法源としての完結性に絶対の自信を持っており、最初の註釈書が世に出たとき、「我が法典は失われた!(Mon code est perdu!)」と嘆いたという碧海(2000)149頁、団藤(2007)168頁。
立法的解釈を重視するか、後述する学理的解釈に多くを委ねるべきかは、法律における根本問題の一つである穂積(1890)第五編第六章、伊藤・木下(91-94頁)(→#学理的解釈)。なぜなら、立法的解釈は、法的安定性の確保に資する一方大谷實・前田雅英「形式的犯罪論と実質的犯罪論」『法学教室』193号(有斐閣、1996年)70頁、過度にこれを多用すると裁判実務における柔軟な解釈・運用が阻害されて具体的妥当性を害し内田(2009)72頁、勝田・山内(2008)303頁、また法令が複雑化し、一般国民はおろか法律の専門家にさえ理解困難なものになって、制定法と一般国民の法意識との乖離を招き(→#法解釈の現代的展開)、かえって法的安定性を害することになるからである竹内ほか(1989)1298頁、民法改正研究会・加藤(2009)12頁(→#概要)。ドイツの法典論争、日本の民法典論争において、ティボー、梅謙次郎らが法的安定性の確保のために早急な統一的成文法典の制定を主張したのに対し、サヴィニーや穂積陳重、富井政章らが法的安定性の目的そのものには同調しつつも、拙速な立法は無用に社会を混乱させるとして反対したのはこのような理由があった勝田・山内(2008)303頁、杉山(1936)166頁、穂積(1989)23頁、梅・前掲国家学会雑誌12巻134号336-338頁(→#慣習法解釈の問題点)。
特に、フランス民法典や日本の旧民法、会社法については、立法的解釈への過度の傾斜であるとの批判が強い金山(2003)151頁、富井(1922)69頁、杉山(1936)155-169頁、穂積(1890)23頁、梅・前掲国家学会雑誌12巻134号349頁、仁井田ほか・前掲法律時報10巻7号25頁、民法改正研究会・加藤(2009)10頁、龍田節『会社法大要』(有斐閣、2007年)はしがき2頁(→#論理解釈の問題点)。とりわけ、立法的解釈による無用かつ不正確な定義は学問を拘束し杉山(1936)162頁(富井発言)、富井政章の項参照、その発展の妨げとなるおそれがあるとも指摘されている金山(2003)151頁。
もっとも、商法などの先端的・技術的な法律については、ある程度までは迅速・複雑な立法的解釈を重視せざるをえない面もあることが指摘されている。特に税法の場合、前述のように租税法律主義が妥当するため、その規定は他の法律に比べ著しく詳細かつ具体的なものとならざるをえない(→#行政法における慣習法解釈)。
学理的解釈
学理的解釈とは、学者をはじめとする学問上の努力によって、個々の解釈者が法令の意味を判断し、明らかにすることをいい(→#法解釈の主体)、普通に法令の解釈といえば成文法規の学理的解釈を意味する長谷川(2008)404頁、我妻(2005)140頁、竹内ほか(1989)1281頁、富井(1922)91頁、松波ほか(1896)47-48頁。ティボーによれば、文字解釈(独:sprachliche Auslegung)と論理解釈(独:logische Auslegung)とがあると分析される石坂(1919)33頁。
学理的解釈の問題点
司法権は一般に裁判所の専権であるから伊藤(1995)559頁、日本国憲法第76条1項参照、個々の解釈者も現実社会において実際に通用している判例を無視して議論することはできないが、これをどこまで尊重すべきかは実務家であると学者であるとを問わず、解釈者によって大きく異なる大谷=前田・前掲法学教室193号73-74頁、伊藤(1993)63-69頁、倉田卓次『続々裁判官の戦後史 老法曹の思い出話』(悠々社、2006年)86頁。判例・実務の立場とかけ離れた学理的解釈は机上の空論となりがちであるし、反面、判例を追認するだけでは、新しい問題に対応できず、また学問の進歩も望めないからである香城・前掲ジュリスト655号298-299頁、我妻(2005)133頁、田宮裕「クラスルーム刑事訴訟法〔2〕刑事訴訟法における判例と学説」『法学教室』75号(有斐閣、1986年)38-44頁。学問は必ずしも現実の具体的紛争を解決することだけを主たる目的とするわけではないので、実務と一致するとは限らないが香城・前掲ジュリスト655号299頁、藤田(2002)178頁、伊藤(1993)19頁、伊藤(1995)初版はしがき、潮見・利谷(1974)93頁、鈴木竹雄『幾山河―商法学者の思い出』(有斐閣、1993年)74頁、既存の法令・実務に拘束されない分だけ、立法的解釈への提言、即ち立法論や新たな学理的解釈論を提案して、その陳腐化を防ぐ意義を認めることができる竹内ほか(1989)1281頁、奥田昌道『紛争解決と規範創造』(有斐閣、2009年)221頁、末弘厳太郎「小知恵に択われた現代の法律学」『嘘の効用』(慧文社、2008年)110頁、山形道文『われ判事の職にあり』(文藝春秋、1982年)184頁(山口良忠遺文)(→#立法者意思説と法律意思説)。なお、学問の担い手は学者に限られるものではないから倉田・前掲続々裁判官の戦後史201頁、裁判官をはじめとする実務家による学理的解釈がしばしば判例・学説を動かすことがあるのは勿論である奥田・前掲紛争解決と規範創造174頁、伊藤眞・加藤新太郎・山本和彦『民事訴訟法の論争』(有斐閣、2007年)108、111、237頁。
文理解釈
文字解釈とは、文典解釈又は文理解釈(独:sprachwissenschaftliche Auslegung)ともいい文字解釈と文理解釈を区別する場合、難解な字句を辞典等を引いて解釈することを文字解釈といい、複雑な構文を文法に従って解釈することを文理解釈(英:gramatical interpretation)という。竹内ほか(1989)1301頁、当該条文の文字の普通の意味に従うものである。もとより条文の解釈に当たっては、国民の期待に反しないよう、その文言の素直な国語的意味を尊重すべきである我妻(2005)140頁、星野(1970)11頁、団藤(2007)346頁(→#論理解釈の問題点)。しかし、立法に当たっては法文に意味内容を慎重に凝縮したものであるから、一言一句に十分注意して解釈しなければならないのは勿論松波ほか(1896)48頁、フランス註釈学派や概念法学と異なり成文法の不完全(欠缺)、法源としての非完結性を認める以上富井(1922)71頁、富井政章『民法原論第三巻債権総論上』(有斐閣書房、1924年)85頁、石坂(1919)78頁、田中(1994)300-303頁(→#立法的解釈の問題点)、大陸法においては英米法と異なり(→#論理解釈の問題点)、他の条文との整合性及び制度の趣旨・目的等を考慮した、後述する論理解釈をも併用しなければ解釈は完成しないと考えられている石坂(1919)33-36頁、松波ほか(1896)49頁、富井(1922)94頁、我妻(2005)142頁、デルンブルヒ(1911)34頁、星野(1970)8頁、団藤(2007)346頁(→#論理解釈)。
文理解釈の問題点
文理解釈にも問題はある我妻(1965)29頁、富井(1922)93頁、松波ほか(1896)49頁、デルンブルヒ(1911)30頁。まず、もしもっぱら通俗的な語のみを法文に用いると、法令が漠然・冗長・不明瞭なものとなり余計な紛争を招きかねないために、法令の用語は日常用語とは異なり、特有の専門用語も少なくない団藤(2007)346頁、星野英一『民法概論I 改訂版』(良書普及会、1993年)51頁。そのため、文理解釈においてもしばしば歴史的沿革に遡って字義を確定しなければならず、言語の多義性・抽象性と相まって長谷川(2008)409頁、碧海(2000)98-132、163頁、国語的な文理解釈が必ずしも容易かつ明確であるとは言えない富井(1922)93頁。また、法令を字句のとおり厳格に解釈しようとする傾向は、特に新法実施に伴い発生しやすい現象であるが(→#慣習法)、かえって具体的妥当性を欠いて当事者の権利を不当に害し、法律の趣旨を損なうおそれがあると指摘されているデルンブルヒ(1911)30頁、我妻(1965)29頁、鳩山(1955)序文2頁(我妻栄執筆)、梅(1907)305頁。論理解釈が必要とされる所以である富井(1922)94頁。
論理解釈
論理解釈(英:logical interpretation)とは竹内ほか(1989)1301頁、法令の文字のみにとらわれることなく、色々な道理、理屈を取り入れて解釈することをいう長谷川(2008)412頁。ローマ帝政時代において、ローマ共和制時代における厳格な文理解釈に相対して認められ、かつ発達したものであるデルンブルヒ(1911)36頁。論理解釈の内容は論者により微妙な違いがあるが星野・前掲法学教室95号56、57頁、例えば、「法律を一つの論理体系に構成し、各条文をそれぞれしかるべき地位において、これと調和するような内容を与えようとするものである」と定義される。
すなわち、法令は、個別の法規が機械的に集合したものではなく、互いに有機的に結び付き、全体として一個の統一体を形成しているものとみるときは、その全体の関係より推理される原理は個別の成文法規を補完する書かれざる法にほかならず、この原理を取り入れて解釈することが論理解釈であるということになる富井(1922)99頁。
ここに、論理解釈の前提たる「論理体系」なるものは、法の体系的な整合性を重視して形式論理的に構成することもでき、また目的的な論理に従って構成することもできる我妻(1965)28頁。そこで後者を目的解釈(独:teleogische Auslegung)、目的論的解釈として前者の形式論的な論理解釈と区別することができる石坂(1919)43頁。また、前者のような、他の制度との比較・均衡等を考慮して解釈する論理解釈を特に体系的解釈(英:systematic interpetation)ということもある竹内ほか(1989)1301頁、長谷川(2008)445頁、田中(1994)311頁。
もっとも、法規相互の体系的関連性は、厳密な形式的論理のみによってなしうるものとは限らず、目的論的判断によってなされることが少なくないから、形式論的な論理解釈と目的論的な論理解釈(目的解釈)とは必ずしも矛盾・対立するものではないとも指摘されている田中(1994)311頁(→#概念法学と自由法論)。
論理解釈の問題点
文理解釈と論理解釈のいずれに重きをおくかは論者によって異なり、個別的な文理解釈を重視し、論理解釈と相対する独立別個の解釈方法と捉えるか、体系的な論理解釈を重視し、両者を不可分一体のものと考えるかという差異が生まれる。文理解釈を重視する立場からは、国語的な文理解釈と体系的・目的的な論理解釈の結果の乖離が進行すると、一般国民にとっては理解が困難となり法治主義の観点から問題であるから、解釈に疑義のある場合は、積極的な立法的解釈によって解決すべきと主張される内田(2009)15頁、星野英一「日本民法典の全面改正」『ジュリスト』1339号(有斐閣、2007年)90-102頁。なお、この立場からは、形式論的な論理解釈と目的解釈との共通性を重視する上述の立場と異なり、形式論と目的論の不可分性よりも対立性が強調されるため、目的解釈は論理解釈と区別され(→#論理解釈)、目的解釈は文理解釈・論理解釈とは対立するものであるとも主張される星野・前掲法学教室95号61頁。この立場にいう論理解釈とは、専ら論理的操作によって導かれる帰結を確定しようとする形式的論理解釈(体系的解釈)を意味している星野(1970)14頁この立場においては、実質的考慮をせざるを得ない拡張・縮小解釈は論理解釈のカテゴリーから除外され、論理解釈(体系的解釈)の軽視が説かれることになる。星野(1970)14頁。
この点、英米法は、法解釈(及び契約書の解釈)を文理解釈(英:interpretation, gramatical interpretation)と目的論的解釈(英:construction; teleogical interpretation)とに大別し、文理解釈を優先させる傾向が強い伊藤・木下(2008)99頁。文理解釈上の意味が明白な場合は、大陸法におけるような論理解釈は原則として許されないと考える「明白な意味の原則」(英:plain meaning rule)が伝統的に採用されており、特にイギリスでは21世紀に入ってからもこれが遵守されている伊藤・木下(2008)100-102頁。その結果、大陸法系諸国における場合と異なり、制定法(及び契約書)の文面は相互に重複した長大なものとなる傾向が強い伊藤・木下(2008)102-103頁(→#文理解釈)。
これに対し、いかに成文法が改正されても、その度に新しい判例法と慣習法が出現し、これらを無視することはできないのだから、むしろ成文法はより簡明にして理解を容易にしつつ穂積重遠『民法讀本』(日本評論社、1927年)16頁、民法改正研究会・加藤(2009)12頁、論理解釈を重視して条文解釈の枠内での広範な学理的解釈の発達に委ねるべきであり、それが法治主義の観点からも望ましいとの見解も主張されている法治主義の理解は一様でなく、第二次大戦後には、西ドイツを中心に、法律上の根拠さえあれば何でもできるという19世紀以来の形式的法治主義は妥当ではないのではないか、という実質的法治主義の観点から新たな議論がなされた。藤田(2005)123頁、村上・守矢・マルチュケ(2008)36頁。社会事情の変動に文理解釈の偏重を合わせようとすれば朝令暮改の弊害を招き、国民の意識と法律との乖離を招いて、かえって法的安定性が害されてしまうと考えられるからである穂積(1890)23頁、竹内ほか(1989)1298頁(→#概要)。日本の民法典はこの立場に立って起草されたものである穂積(1932)419頁、梅・前掲国家学会雑誌12巻134号348頁、馬場定二郎編『修正法典質疑要録』(1896年)4頁(梅発言)、梅謙次郎「法律ノ解釈」『太陽』9巻2号56-62頁(博文館、1903年)、梅(1907)304-309頁、梅謙次郎『法典質疑録』8号677頁以下、加藤(1993)130頁(→#立法的解釈の問題点)。
また、前述のように、論理解釈は形式論的な論理解釈(体系的解釈)と目的論的な論理解釈(目的解釈)に分けることができるが(→#論理解釈)、論理解釈が形式論理に偏するときは、実際生活に適合しない不当な結論を生み、個別の事案についての具体的妥当性を実現できない概念法学であるとの批判がある我妻(1965)29頁、石坂(1919)74頁、富井(1922)101頁。そのため、論理解釈に依るときは、体系的な形式論のみならず、社会的な目的論と不可分一体として解釈することが望まれる石坂(1919)76-78頁、伊藤(1995)87頁、我妻栄著、有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義II)』(岩波書店、1983年)序7頁(→#概念法学と自由法論)。
概念法学と自由法論
モンテスキューは、権力者たる裁判官を法律で拘束することによって国民の自由を保障すべきことを説いた。
19世紀の法律思想の総決算、ドイツ民法典ラートブルフ(1964)109頁、我妻(1954)432頁。法律関係の変動の基礎を身分関係ではなく個人の自由意思に求める法律行為理論を中核とする法体系は、近代[[個人主義思想の爛熟を示すものである我妻(1965)8頁、伊藤・木下(2008)24頁。リストは、19世紀後半からの資本主義の急速な発展に伴う犯罪の急増に対し勝田・山内(2008)367頁、フォイエルバッハらが想定した自由な意思によって自らを支配する理性的な個人という近代的な人間像の限界を指摘した勝田・山内(2008)374頁、裁判所総合研修所(2007)12頁。国際法の形成要件を定式化した先駆者でもある杉原(2008)62頁(→#国際法における慣習法解釈)。19世紀のドイツ法学が重視したのはこの論理解釈であった碧海(2000)155頁、石坂(1919)2頁。
ドイツでは、ローマ帝国の後継者を自認する神聖ローマ帝国によってローマ法大全が全面的に継受されていたが村上・守矢・マルチュケ(2008)13頁、田中周友・前掲世界法史概説248頁、神聖ローマ帝国の支配が有名無実化した後もローマ法の優秀性は否定し難く、16世紀頃からローマ法は当時のドイツの社会状況に合わせて再構成され(パンデクテンの現代的慣用)、各地のゲルマン法系の固有法を補充する普通法(ゲマイネス・レヒト)として利用されていた(ドイツ普通法学)前田(2003)7-8頁、勝田・山内(2008)7、326頁、竹内ほか(1989)1182頁、村上・守矢・マルチュケ(2008)14頁(→#一般法と特別法)。11世紀後半にボローニャ大学でローマ法を講じてヨーロッパ各国に影響を与えた、イルネリウスを祖とする註釈学派の流れを受けたものである「羅馬法を講ずるの必要」穂積(1932)91頁、勝田・山内(2008)2-7頁。
もっとも、前述のローマ法大全中の学説彙纂(羅:Digesta; 希:Pandectae; 独:Pandekten)は(→#学説)、その多くが個別具体的な問題への学者の回答集であったから、ドイツにおいては、時と場所を超えた法の普遍的性格を強調する自然法論の影響を受けつつ、幾何学の手法を導入して、原則を定めてそこから演繹的・体系的に思考を進めるというというパンデクテン法学が生み出されたのである前田(2003)8頁、団藤(2007)298頁。
特に19世紀においては、ローマ法の普遍性に着目してその無個性と中庸が賛美されラートブルフ(1964)300頁、サヴィニーの「概念による計算」(独:Das Rechmen mit Begriffen)の句が示すように碧海(2000)142頁、演繹法による形式論的論理解釈が排他的に尊重されて碧海(2000)155頁、あたかも数学者が数字や抽象的記号を操作するが如く、主観的・実践的な価値判断の混入を厳しく排除する建前を採っていた碧海(2000)150頁。とりわけ、個別具体的なものの中からその共通項を総則として取り出して抽象化・一般化するという手法は(民法総則等)、19世紀ドイツパンデクテン法学特有の産物として、具体的・個別的性格の強い英米法との対比で極めて大きな特徴を持っている前田(2003)8頁、村上・守矢・マルチュケ(2008)113頁、我妻栄著、幾代通・川井健補訂『民法案内2 民法総則』(勁草書房、2005年)11-12頁。
もっとも、サヴィニーにおいては、法的安定性の確保という観点から早期の成文法による統一法典の制定を主張したティボーに対して(→#立法的解釈の問題点)、論理解釈を重視しつつも歴史法学の立場から慣習法を重視することによって、具体的妥当性との調和を図ろうとするものであった竹内ほか(1989)1299頁(→#慣習法解釈の問題点)。
このパンデクテン法学はサヴィニーの後継者達によって歴史法学の要素を捨象して純化され団藤(2007)298頁、ヴィントシャイトによって完成されてドイツ民法典の制定に結実勝田・山内(2008)324-327頁、竹内ほか(1989)1182頁、前田(2003)8頁、その論理的・抽象的思考方法は大陸法をはじめ、世界の法学に一定の影響を与える川島武宜・平井宜雄編『新版注釈民法(3)総則(3)法律行為(1)――90条~98条』(有斐閣、2003年)27-29頁(平井執筆)、大村敦志『法典・教育・民法学』(有斐閣、1999年)162-164頁、伊藤・木下(2008)27頁、金山(2003)138、174-177頁。例えば、行政法学の父と呼ばれるオットー・マイヤーの行政行為理論はドイツ民法典の法律行為理論に対応したものであるし藤田(2005)184頁、藤田(2007)95頁、イギリスの分析法学や後述する純粋法学も、このようなドイツ法学の影響を受けている団藤(2007)301、306頁(→#法解釈の現代的展開)。
一方、フランスでは自然法を根拠にナポレオン法典が「書かれた理性」(仏:la raison écrite; ratio scripta)であるとして絶対視され、文理解釈と論理解釈が偏重された(註釈学派、古典学派)碧海(2000)149頁、潮見・利谷(1974)33頁、団藤(2007)299頁。モンテスキュー、ベッカリーア等の啓蒙思想家達の影響が背景にある碧海(2000)149頁、団藤(2008)306頁こうしたフランス法学の傾向は、特にナポレオン失脚後の王政復古期において極限に達する。金山(2003)144頁。法学教育への政治的干渉がなされたことから、法解釈は註釈の枠に閉じこもり、ひたすら平穏を願わなければならなくなったのである。金山(2003)144頁。
こうした独仏の成文法万能主義(法実証主義)のいずれもが、法的安定性を確保し、ヨーロッパの初期資本主義における市民の自由な経済活動を保証するという要請に応えるという機能を果たしていた団藤(2008)305頁、潮見・利谷(1974)33頁。
しかし、極度に形式論に傾斜した法律学は、潜在的には激しい反発を受けていたのであるラートブルフ(1964)294頁、金山(2003)138、143頁。
さらに、ドイツ民法典が生まれた19世紀末は、資本主義経済の発展による社会の変容によって、ドイツ民法典がその成立において基盤とした個人主義的・自由主義的な経済観が退潮し始めた時期であったラートブルフ(1964)108頁、アダム・スミス、見えざる手も参照。ドイツ民法典が20世紀への先駆ではなく19世紀の総決算と評価される所以であるラートブルフ(1964)109頁。もっとも、社会主義的観点から、サヴィニーとは逆に立法者の人為的努力によって社会を積極的に改善しようとするやラートブルフ(1963)109-110頁(→#慣習法解釈の問題点)、個人の自由意思の尊重と社会における取引安全の調和を説くデルンブルヒらの学説の影響によって、サヴィニー、ヴィントシャイトの影響により権利変動の根拠を個人意思に求める意思主義に傾斜したドイツ民法第一議会草案は一定の修正を受けていることに留意すべきであるハインリヒ・デルンブルヒ著、坂本一郎・池田龍一・津軽英麿訳 『獨逸新民法論下巻』(早稲田大学出版部、1911年)39、296頁、デルンブルヒ(1911)54頁、安達三季生「指名債権譲渡における異議を留めない承諾、再論――池田真朗教授および石田・西村両教授の批判に答えて――」法学志林89巻3・4号(法政大学法学志林協会、1992年)81-82頁。
ここにおいて、イェーリングは、自身及びサヴィニーを始めとする従前の法解釈学を概念法学と名づけてその没価値性・形式性を批判し、法の実践的・目的的・創造的性格を強調し、大陸法学は一大転機を迎える。イェーリングの主張は、をはじめとする後続の法学者達によって継承・推進・発展せられ(自由法運動)、法の文言のみからでは導かれえない国民ないし臣民の自由保障や権利の実現を進めようとする、実践的なものとして私法公法を問わず各国に大きな影響を与えた藤田(2002)135頁。ここでは、立法者が予定していなかった問題についてまで、既存の成文法における法的三段論法の形式に則った不自然な概念の論理操作のみに拘泥した処理をするのではなく碧海(2000)149頁法的三段論法とは、判決三段論法ともいい、法規範を当該事案における具体的事実にあてはめて判決の結論を出す論法のことを言う。団藤(2007)217頁、日本民事訴訟法253条、日本刑事訴訟法335条参照。モンテスキュー等の主張する、機械的・非実践的裁判観に由来するため、現代ではその意義を減じているが、なお判決の客観性を担保する機能を認めることができる。団藤(2007)218頁、法学方法論参照、裁判の具体的妥当性を確保するために、制定法の不完全(欠缺)を正面から認め、裁判官の自由な法創造によってこれを補うべきことが強調された田中(1994)302頁。そこで、これを自由法論という。成文法以外の法源性を正面から肯定する前述のスイス民法1条は、この自由法論(自由法運動)を受けたものであり(→#条理)、その集大成とみなされているラートブルフ(1964)184頁、田中(1994)303頁。
何よりも、自由法論最大の功績は、倫理的・政治的な主観的評価を厳しく排除して法解釈の客観性を保つことに腐心した従前の註釈学派や概念法学に対し、社会統制の技術としての法解釈の実践的側面を明らかにし、法社会学の出現を促したことにあると考えられている碧海(2000)149-151頁、石坂(1919)95頁。
もっとも、イェーリングによると、このような法の社会性の強調は、一般に概念法学の象徴とみなされがちなヴィントシャイトの内に既に見られるものであったという勝田・山内(2008)329頁。また、慣習法の重視による具体的妥当性の確保という面において、サヴィニーとの共通点をも認めることができる竹内ほか(1989)1299頁。すなわち、イェーリングの批判した「概念法学」は一種の理念型であり議論のためのフィクションにすぎず、イェーリングがそうであるように、時代の要請に応えようとして努力したサヴィニー、ヴィントシャイトらが単なる盲目的な概念法学者であったということはできないのである碧海(2000)160頁、勝田・山内(2008)306頁、耳野健二『サヴィニーの法思考――ドイツ近代法学における体系の概念』(未来社、1998年)213頁。
イェーリングの主張は、ドイツ法学と同じような法実証主義的傾向を示していたフランスの法学会にも大きな影響を与える。ここでは、ナポレオン民法典の老朽化を背景に、客観的な条文と実際生活の実状との乖離が進行し、法令の改正(立法的解釈)もまた困難であるとき、論理解釈・類推解釈の形式によること無く、直ちに裁判官の自由探求・利益衡量によって法の不備を補うべきであるとの考えが主張され富井(1922)101頁、20世紀のフランス私法学で主流をなすに至る石坂(1919)2頁、梅(1907)305頁。
また、刑法においても、イェーリングの影響を受けたリストによって勝田・山内(2008)371頁、厳格な罪刑法定主義が緩和され、刑罰は犯罪への単なる懲罰(応報刑論)ではなく、個々の犯罪者に対する教育・是正と、それによる社会防衛という実践的側面を重視した目的刑論が導入されるという影響を及ぼしている(古典学派に対する近代学派)裁判所総合研修所(2007)12頁、藤木(1975)15頁。ただしリスト自身は、刑法は裁判官の恣意と誤謬から市民を守るマグナ・カルタたるべきであるとして犯罪論(犯罪の成立)における罪刑法定主義を強調しておりラートブルフ(1964)162頁、この意味で一定の限界がある勝田・山内(2008)374頁、潮見・利谷(1974)271頁、藤木(1975)22頁。罪刑法定主義の完全な撤廃を説く論者は世界的にも多くなく、民法解釈学を応用して被告人に不利な方向での刑法の類推解釈(類推適用)を認めた日本の牧野英一がその代表格であるが団藤重光『わが心の旅路』(有斐閣、1986年)292-296頁、藤木(1975)22頁、教育刑を基本とする刑罰論はともかく、犯罪論そのものは実務・学会の採用するところではなかった潮見・利谷(1974)257、272頁、藤木(1975)22頁(→#反対解釈・類推解釈)。
自由法論に対しては、その実践的・目的的性格の故に主観的・場当たり的なご都合主義に堕する危険があり、法的安定性を害するという批判がなされる富井(1922)101頁、石坂(1919)75頁、藤田(2002)178頁。このため、成文の制定法が良く整備されているならなるべく論理解釈を駆使して客観的な法文解釈の枠に収めるべきであり、あえてフランスにおけるような自由法論を採るべき必然性は無いとも主張されている富井(1922)100-101頁、梅・前掲太陽9巻2号56-62頁。
また、自由法論による法の社会性の強調は、当初こそ強い反発があったが、その後あまりにも多くの賛同者を得たため、あっけなく法律学上の常識として受け入れられ、陳腐化して盛りを過ぎてしまったとも言われ、ドイツ法系の国々では自由法学は概念法学との統合・止揚の方向へ向かうラートブルフ(1964)184頁。そこで、法文解釈の枠組みによる論理操作までは完全に否定せず碧海(2000)158頁、ラートブルフ(1964)289頁、概念法学において無意識的に行われていた目的解釈を正面から正当化し、社会的な裏付けを与える方向に進む者と、法的安定性の見地から「法律への忠誠」を説きながらも田中(1994)303頁、なお類推解釈の形式を否定して利益衡量によるべきことを説く利益法学との差を生じたのである碧海(2000)160頁、石坂(1919)93-110頁。
このようにして、英米法系やフランス法系と異なり、高度に抽象化されたパンデクテン方式を基礎とするドイツ法系においては、批判と修正を受けながらも論理解釈が大いに発達した(論理法学)石坂(1919)2-4頁。このようなドイツ法学の傾向は、一面において官僚主義の台頭に屈すると共に潮見・利谷(1974)292頁(鈴木禄弥執筆)演繹的・抽象的性格の強い法体系の下においては、法の形成と発展は、個々の具体的紛争の解決を主眼とする弁護士よりも、法学者や司法官僚(裁判官や検察官等)によって担われがちである。村山・濱野(2003)31頁、金山(2003)156頁、また一面において諸法典の論理的内容を明らかにし、法的安定性と国民の自由・利益という具体的妥当性を両立させようと努力し、市民社会における基本的ルールを確立するという歴史的遺産を後世に遺したのである。
論理解釈における沿革の考慮
参照これに対し、梅が「ドイツ法・ドイツ法学に対しても公正に臨んでいたことがわかる」にすぎない、との主張もある。星野(1987)182、223頁。しかし、普遍的な支持を得ていない。瀬川信久「梅・富井の民法解釈方法論と法思想」『北大法学論集』41巻5-6号(北海道大学、1991年)402、423頁、加藤(1993)122-131頁。なお、論理解釈においても歴史的沿革を考慮に入れた解釈をすることができ富井(1922)95頁、これを歴史的解釈(英:historical interpretation)と呼ぶことがあるが、その方法論を巡る問題がある加藤(1993)118頁。例えば、日本の民法典は、主にドイツ民法草案を母体としてフランス法系の旧民法を根本的に改修したものであることは起草当事者の一致した見解であり梅謙次郎「我新民法ト外国ノ民法」『法典質疑録』8号671頁以下、穂積陳重「獨逸民法論序」穂積(1932)421頁、富井(1922)序5頁、仁井田ほか・前掲法律時報10巻7号24頁、仁保亀松『国民教育法制通論』(金港堂書籍、1904年)19頁、仁保亀松講述『民法総則』(京都法政学校、1904年)5頁、松波ほか(1896)8頁、そこにドイツ法思想の民法解釈学ができる必然性がある梅・前掲太陽9巻2号56-62頁、梅(1907)304-309頁、瀬川信久「梅・富井の民法解釈方法論と法思想」『北大法学論集』41巻5-6号(北海道大学、1991年)402、423頁、穂積陳重「獨逸法学の日本に及ぼせる影響」『穂積陳重遺文集第三冊』621頁、仁井田ほか・前掲法律時報10巻7号24頁、仁井田益太郎参照。この点、イタリア民法学が、フランス民法典を継受して成立したイタリア民法典を、ドイツ民法学説を継受して解釈し直したのとは事情が異なる石坂(1919)94頁。
しかし、日本民法典においても部分的にはなおフランス法系の規定も残存しており梅謙次郎「我新民法ト外国ノ民法(続)」『法典質疑録』9号779頁以下(1896年)、仁井田ほか・前掲法律時報10巻7号23頁、井上正一「仏国民法ノ我国二及ボシタル影響」仏蘭西民法百年紀年論集60頁以下、ドイツ法系とフランス法系の異質な規定が混在したために両者の矛盾が問題となって解釈者をしばしば悩ませた杉山(1936)83頁。その故に、この不調和を解釈によって是正して、民法をして矛盾なき統一体たらしめることが学説・判例の一大目標となった杉山(1936)84頁(→#論理解釈)。ここにおいて、ドイツ法の学理を徹底してフランス法系を不純物として軽視する発想和仁陽「岡松参太郎――法比較と学理との未完の綜合――」『法学教室』183号79頁、これに対して立法者はあえてそのような規定を残したのだから部分的には尊重されるべきとする発想我妻栄『民法研究V』81頁(有斐閣、1968年)、或いはむしろ旧民法を通してフランス民法典の方が主要な母体(母法)であるとする発想星野(1970)71頁、内田貴『民法I総則物権総論 第4版』(東京大学出版会、2008年)25頁、潮見佳男『民法総則講義』(有斐閣、2005年)24頁、潮見・利谷(1974)63頁(大久保泰甫執筆)、ドイツ法流の体系的な論理解釈を重視しつつも石坂(1919)2-4、76-78頁、日本評論社編『日本の法学:回顧と展望』(1950年、日本評論社)71頁(末弘発言)、潮見・利谷(1974)295、336-337頁、社会の変遷を重視して、母法及び過去の歴史的沿革の極端な尊重に疑問を呈する発想石坂(1919)41頁、鳩山(1923)14頁、末弘厳太郎『物権法上巻』(有斐閣、1921年)序文、北川善太郎『日本法学の歴史と理論』(日本評論社、1968年)320頁、潮見・利谷(1974)295頁(鈴木禄弥執筆)脚注に示されるとおり、石坂・鳩山・末弘はいずれも著作において極端な母法及び沿革の重視に疑問を述べる点で共通するが、ドイツ法学の摂取のあり方には差異があり、石坂と鳩山の差異を強調するものとして、末弘厳太郎・穂積重遠・牧野英一・我妻栄「鳩山先生の思い出」鳩山(1955)462頁(牧野発言)、石坂・鳩山と末弘の差異を強調するものとして、星野(1986)227-232頁。もっとも、沿革の認識自体には大差ない。星野(1970)72頁。石坂音四郎、鳩山秀夫、末弘厳太郎参照、といった解釈態度の立場の違いが生み出されたのである(→#立法者意思説と法律意思説)。
なお、同様の問題は、ドイツ法系の法律に英米法流の思想を接木して根本的改修を図った日本刑事訴訟法にも存在する団藤重光「刑事訴訟法の40年」『ジュリスト』930号(有斐閣、1989年)5頁。またドイツ民法典についても、ローマ法系とゲルマン法系の調和の問題がある石坂(1919)95-97頁、ゲルマニステン参照。
以上をまとめれば次のようにいうことができる星野(1986)218頁。
反対解釈・類推解釈
類似した甲乙二つの事実のうち甲についてだけ規定のある場合に、乙については甲と反対の結果を認めるものが反対解釈(羅:argumentum e contrario)であり、乙についても甲と同様の結果を認めるものが類推解釈(独:Analogie;仏:analogie;英:analogy)である我妻(1965)28頁、鳩山(1923)15頁、竹内ほか(1989)1301頁。類推解釈は、自然法論に相対する19世紀の歴史法学派により、慣習法を一度立法化した限りは、社会生活は可能な限り成文法規の解釈の形式によって規律されるべきとする法実証主義から説かれたものである石坂(1919)2頁(→#慣習法)。刑法においては罪刑法定主義が妥当するため、被告人に不利な類推解釈は原則的に禁止されるからラートブルフ(1964)162頁、大塚(2008)11頁、我妻(2005)152頁、竹内ほか(1989)1301頁、日本国憲法第31条参照、反対解釈と後述する拡張解釈のいずれが妥当するかを巡ってしばしば対立が起きるが大塚(2008)12頁、民事事件においては、類推解釈と反対解釈は相反する関係に立つ我妻(2005)147頁。形式論を重視すれば反対解釈に結び付きやすいが文理解釈同様具体的妥当性を欠くおそれがあり長谷川(2008)418頁、目的論を重視すれば類推解釈に結び付きやすいが法的安定性を害するおそれがある我妻(1965)29頁。そこで、どちらの解釈によるべきかは、特に当該制度・法規の趣旨・目的を考慮しなければならない我妻(2005)148頁。甲についての制度趣旨(立法趣旨)が、乙についても妥当するもので、たまたま甲を典型的な場合として挙げたに過ぎないとすれば乙について類推解釈(類推適用)が導かれるし、あえて甲のみについて規定した趣旨だと理解すれば反対解釈が導かれる事になる(→#概要)。
これに対し、類推解釈を採るべきことが極めて明白な場合を勿論解釈(羅:argumentum a fortiori)ということがある長谷川(2008)424頁、碧海(2000)153頁、団藤(2007)347頁、竹内ほか(1989)1301頁。
例えば、日本民法第738条は、「成年被後見人が婚姻をするには、その成年後見人の同意を要しない」と規定しており、事理弁識能力を欠く成年被後見人についてのみ規定し、その能力が不十分である被保佐人については規定していないが、行為能力の欠ける程度の高い成年被後見人ですら成年後見人の同意が不要であることから、それより行為能力の欠ける程度が低いに過ぎない被保佐人については、論ずるまでもなく、保佐人の同意は必要ないと解釈されている長谷川(2008)424頁、裁判所職員総合研修所『親族法相続法講義案 六訂再訂版』(2007年、司法協会)4頁。
なお、類推解釈の体系的な位置付けについては諸説あり、その実質は新たな立法に等しく、もはや解釈とは言えないとする説も主張されている石坂(1919)58-62、102頁
(→#概念法学と自由法論)。この立場からは、類推解釈ではなく類推適用と呼ばれ、理論上区別されることになる石坂(1919)2頁サヴィニーは解釈と類推適用を峻別する立場である。金山(2003)45頁。
拡張解釈・縮小解釈
制度の趣旨に鑑みることで、文理解釈の場合に比べて個々の条文の文理を多少拡張的に解釈することを拡大解釈又は拡張解釈(羅:interpretatio extensiva; 英:extensive interpretation)、縮小して解釈することを縮小解釈(羅:interpretatio restrictiva; 英:restrictive interpretation)という我妻(2005)144頁、石坂(1919)52頁、竹内ほか(1989)1301頁。拡張解釈は類推解釈と似ているが、類推解釈は、文字の意味に含ませえないものに拡張する場合であるのに対し、拡張解釈は、文字の意味の枠内に含ませる場合である我妻(2005)148頁、竹内ほか(1989)1301頁。
例えば、鳥獣保護法において弓矢を使用する方法による「捕獲」が禁止されている場合に、鳥獣の保護という制度趣旨の論理的文脈に鑑みて、実際に「捕獲」することのみならず、「捕獲」しようとする行為をも含む意味に解釈する場合最判平成8年2月8日刑集50巻2号221頁、これを拡張解釈(拡大解釈)の一例と評価することができるが大塚(2008)12頁、罪刑法定主義及び刑法の自由保障機能を重視する立場からは、このような拡張解釈はできるだけ避けるべきであり、矢が全然当たらなくても「捕獲」だというのは、社会常識の範囲を逸脱しているとの批判がなされることになる大谷實・前田雅英『エキサイティング刑法総論』(有斐閣、1999年)18頁(大谷発言)。
これに対し、縮小解釈の例として、日本民法177条の「第三者」の解釈論が有名である最判昭和43年8月2日民集22巻8号1571頁、最判平成10年2月13日民集52巻1号65頁。合憲限定解釈もこの縮小解釈の一種と考えられる伊藤(1995)396頁。縮小解釈の例には、ほかにも、日本国憲法第9条のいう「戦力」には、自衛のための最低限の実力は含まれないという憲法解釈などがある伊藤(1995)177頁。
上記四つはいずれも論理解釈の一種であると考えられるデルンブルヒ(1911)36頁。拡張解釈・縮小解釈は、類推解釈同様目的的論理を重視した解釈であり、形式的な文理解釈とは乖離した結論を導くから、法的安定性を害することなく具体的妥当性を実現するためには、これらの解釈を正当化する体系的な許容性と、目的論の合理性とを厳密に検証しなければならない。さもなくばご都合主義に堕してしまうからでありラートブルフ(1964)182頁、これらの解釈方法によって便宜的に文理をねじ曲げるというものではなく、それが規定の本来の持つべき意味そのものであるにほかならないと論証することが望まれる団藤(2007)346頁、我妻(2005)126頁。
変更解釈
なお、論理解釈の内、文理解釈と明らかに異なる別の意味に解する場合、類推解釈と別にこれを変更解釈ということがある石坂(1919)53頁。例えば、条文が改正されたとき、単純な立法ミスによって関係法令相互の齟齬が生じ、改正後の制度を改正前の制度に当てはめて解釈せざるをえないような場合がその典型である長谷川(2008)415頁。
立法者意思説と法律意思説
ホームズは、法を絶対視する自然法思想を地に足のつかない願望にすぎないとして退け、固定された過去のものとしての法ではなく、現に流動する法の将来を予測すべきことを主張した伊藤・木下(2008)238頁。
前述のとおり(→#反対解釈・類推解釈)、いかなる解釈が妥当するかは、なぜ当該制度・条文が存在するかという制度趣旨・立法趣旨に遡った説明が必要になるが、その手法については、既に述べたように体系的な制度趣旨を重視するのか、個別の条文についての立法趣旨を重視するのかという論理解釈を巡っての立場の違いがある他(→#論理解釈の問題点)、制度趣旨・立法趣旨の確定方法についても、立法当時の立法者及び起草者の意思をどの程度考慮すべきかについて、ドイツやアメリカを中心に古くから議論がある石坂(1919)83-92頁、田中(1994)313頁。この点、20世紀以降のドイツ及び日本の通説は、論理解釈を重視しつつも、三権分立の原則からは、法の解釈は解釈時における価値判断をも含めた法律そのものの意義を明らかにすることであって社会情勢ないし社会的必要性を考慮して解釈することを社会学的解釈方法(英:sociological interpretation)ということがある。竹内ほか(1989)1301頁、過去の立法者の思想を明らかにすることに尽きるものではないとする法律意思説に立つ石坂(1919)83-92頁、藤田(2005)486-487頁、藤田(2007)40頁、長谷川(2008)396頁、棚瀬(1994)68頁、田中(1994)314頁、伊藤(1995)88頁。代表的論者として、イェーリング、石坂音四郎がいる。この立場からは、法律そのものではない起草委員の説明、議事録等のいわゆる立法資料は解釈に当たっての参考資料となりうるにすぎず、裁判官に対する法的拘束力は無いことになるデルンブルヒ(1911)48頁、石坂(1919)39、87頁、富井(1922)94頁、鳩山(1923)14頁、ラートブルフ(1964)286頁、長谷川(2008)396頁日本国憲法第76条3項の規定する、裁判官を拘束する「法律」は、形式的意味の「法律」(日本国憲法第59条)に限られず、政令・規則・条例・慣習法などを含む意味に解されているが、立法資料まで含まれるとは説かれない。伊藤(1995)578頁、佐藤幸治『憲法』第3版(青林書院〈現代法律学講座〉、1995年)328頁、長谷部恭男『憲法』第4版(新世社〈新法学ライブラリー〉、2008年)327頁。
ところが、19世紀のフランス・ドイツにおいては、これと相反する立法者意思説が通説であり、ヴィントシャイトが強調したように、立法者たる議会の尊重によって裁判官の不当な自由裁量を防ぎ、社会的弱者が害されることを防ぐべきことが主張されていた勝田・山内(2008)331頁(→#概念法学と自由法論)。またサヴィニーにおいては、フランス註釈法学における以上に論理解釈を重視しつつも(→#論理解釈)、法の解釈・研究は専ら古典文学を研究するのと同様の文献学的方法によるべしと主張されていた石坂(1919)35、85頁(→#慣習法)。
しかし、19世紀末から20世紀にかけて、資本主義の進展に伴う社会の変動・複雑化が立法者意思説の維持を困難にした潮見・利谷(1974)33、294頁。「立法者が如何なる意思を有したるかの歴史的事実に膠着するは社会をして法律の犠牲たらしむるもの」であると指摘されたのである鳩山(1923)14頁(原文カタカナ書き旧字体)(→#論理解釈における沿革の考慮)。
ここにおいて、註釈学派や概念法学の硬直を打破しようとするイェーリングや、らの自由法論が台頭したこともあって法律意思説が通説化し、更に法律意思説も結局は解釈者個人の主観的価値判断を盛り込まざるをえないことから、立法過程及び制定当時の社会状況を踏まえ、現在の状況と比較することによって、法解釈に客観的な歴史的裏付けを与えようとするやエールリッヒらの見解が有力化した広中俊雄『新版 民法綱要第一巻総論』(創文社、2006年)64頁。自由法論により提起された問題意識を受け止め、法解釈の実践的・主観的性格を認めるなら、立法当初とは異なる価値判断を法解釈に盛り込まざるをえないから石坂(1919)24、48、76頁、藤田(2002)138頁、棚瀬(1994)68頁、いかなる形で法解釈の客観性が保たれるかが法律家を長年にわたって悩ませたのである碧海(2000)134頁、田中(1994)356頁、団藤(2007)353頁、来栖三郎「法の解釈と法律家」『私法』11号(日本私法学会、1954年)22頁、平井宜雄「戦後日本における法解釈論の再検討(2)――法律学基礎論覚書(2)――」『ジュリスト』918号(有斐閣、1988年)102頁。これに対し、法解釈学の使命は裁判所によって将来実現されるであろう判断を予測・予言することにあるとして、法解釈における真理は相対的なものに過ぎないと主張したのがホームズを中心とするリアリズム法学であった伊藤・木下(2008)238頁、碧海(2000)142頁。
20世紀後半から21世紀にかけては、幾度かの論争を経て、他の解釈学等の諸科学におけると同様藤田(2002)156頁、棚瀬(1994)68頁、唯一絶対の正しい法解釈を具体的に観念することは不可能ないしは極めて困難であるとしてラートブルフ(1964)21頁、勝田・山内(2008)413頁、石坂(1919)110頁、星野(1970)4、26頁、川島武宜『科學としての法律學』(弘文堂、1955年)20頁、山田卓生「法解釈の主観性」加藤一郎編『民法学の歴史と課題』(東京大学出版会、1982年)97頁、日本での法解釈論争については来栖三郎 (法学者)、星野英一、甲斐道太郎、平井宜雄参照抽象的に正しい解釈を観念することは可能であるとの主張もある。渡辺洋三『法社会学と法解釈学』(岩波書店、1959年)148頁、星野(1970)42頁、前者はマルクス主義、後者は自然法論を前提とする。田中(1994)357-358頁、法律意思説を基本に各説の長所を採り入れようとする傾向が有力である広中・前掲新版民法綱要第一巻総論64頁、石坂(1919)1-110頁立法資料研究の必要を説くものにも様々なニュアンスがある。我妻栄『民法研究V』(有斐閣、1968年)81頁、デルンブルヒ(1911)48頁、星野英一「民法の解釈のしかたとその背景(上)」『法学教室』95号(有斐閣、1988年)57頁、池田真朗「論文批評における方法論の問題――道垣内助教授の批判に応えて――」『法律時報』62巻12号(日本評論社、1990年)118頁。
なお、注意すべきは、単に「立法者意思」の尊重と言っても、その内容は論者によって一様でないことである石坂(1919)88、91頁。例えば、デルンブルヒや梅謙次郎、川名兼四郎のように体系的な論理解釈を重視すれば、具体的・個別的な起草者意思から切り離された抽象的・包括的な立法者意思を観念することになりデルンブルヒ(1911)34頁、梅・前掲太陽9巻2号61頁、川名兼四郎『日本民法総論 訂正再版』(金刺芳流堂、1912年)12頁、川名兼四郎述『改訂増補民法総論 訂正再版』(金刺芳流堂、1904年27-28頁、その実質は法律意思説と同一になるデルンブルヒ(1911)48頁。一方、星野英一のように個別的な文理解釈を重視すれば、起草者の原案が委員総会及び議会での根本的修正を受けていない場合に、立法者意思を起草者意思に近づけて理解することになる星野(1970)74、80頁この立場からは、素朴な文理解釈及び立法者・起草者意思解釈の結果が現在の社会に適合しないときに、利益考量による修正が必要になると説かれる。星野(1970)3-67頁、星野英一参照。
もっとも、極端な起草者意思・歴史的沿革の尊重には批判が強く安達三季生「法解釈学(実定法学)方法論と債権譲渡の異議を留めない承諾――池田真朗教授の続稿に因んで――」『法学志林』91巻4号(法政大学、1994年)74頁、安達・前掲法学志林89巻3・4号133頁、道垣内弘人「(民法学のあゆみ)池田真朗「指名債権譲渡における異議を留めない承諾(一)~(三・完)」『法律時報』62巻10号(日本評論社、1990年)78頁、法律は起草者の著作物ではないから富井(1922)7頁、石坂(1919)86頁、法の解釈は特定の起草者の個人的な思想・見解を明らかにすることに尽きる(起草者意思説)ものではないという点において世界的にほぼ異論は無い星野・前掲法学教室95号59頁星野は、「外国にも「立法者意思説」はありますが、「起草者意思説」はないようです」と発言している。星野・前掲法学教室95号59頁。一方、「学者は通常立法者を立法権を有する者の意義に解す是固より正当なりと雖も或は法律の起草者を以て立法者と解する者あり」との指摘もある。石坂(1919)88頁。問題は、以上述べたような実践的・主観的判断の内、どこまでが客観的な法文の学理的解釈の枠組みの中で許容されるのか、どこから先を立法政策論と性格付けるかにあるということができる藤田(2005)487頁(→#学理的解釈の問題点)。
こうして、かつて19世紀の大陸法学を支配した、法解釈の任務は唯一の正解の確認にあるとの信念が否定され碧海(2000)149頁、法解釈学の実践的・創造的性格が認識されるようになると、その指針となるべき法哲学、比較法学、法政策学、法社会学等の関連諸科学の重要性が強調されるようになるラートブルフ(1964)185頁、石坂(1919)67頁(→#概念法学と自由法論)。そして、いかなる解釈をすべきか明らかにするためには、当該法文の文言を尊重しつつも、制度の趣旨・目的・社会の実態等を広く考慮しつつ石坂(1919)76頁、鳩山(1955)444頁(我妻栄執筆)、星野(1970)13頁、極端な杓子定規にもご都合主義にも陥らないよう、法的安定性と具体的妥当性の調和刑法においては、特に自由保障機能と法益保護機能の調和の問題となって現れる。大塚(2008)3頁、裁判所職員総合研修所(2007)7-8頁、日本国憲法第31条参照刑事訴訟法においては、特に適正手続と真実発見の調和の問題となって現れる。団藤重光『新刑事訴訟法綱要 七訂版』(創文社、1967年)27-29頁、日本刑事訴訟法第1条民事訴訟法においては、訴訟手続の適正公平と、訴訟経済・迅速な裁判実現の調和の問題となって現れる。兼子一『民事訴訟法体系 増訂版』(酒井書店、1965年)36頁、日本民事訴訟法2条参照、換言すれば、理屈と人情の調和を目指して解釈しなければならないと考えられている我妻栄『法律における理窟と人情』2版4頁(日本評論社、1987年)、我妻栄『民法研究X』(有斐閣、1971年)4頁、我妻(1965)28頁、我妻(2005)153頁、我妻(1953)534頁、我妻・前掲ジュリスト563号183頁(→#概要)。
法解釈の現代的展開
ポズナーシャベル(2010)5頁、碧海(2000)357頁。その功利主義的哲学には批判もある碧海(2000)357頁。/' title='リチャード・アレン・ポズナー/' title='ファイル:Richard posner harvardz.JPG|thumb|right|法と経済学の推進者の一人、[[リチャード・アレン・ポズナー'>ポズナーシャベル(2010)5頁、碧海(2000)357頁。その功利主義的哲学には批判もある碧海(2000)357頁。'>リチャード・アレン・ポズナー/' title='ファイル:Richard posner harvardz.JPG|thumb|right|法と経済学の推進者の一人、[[リチャード・アレン・ポズナー'>ポズナーシャベル(2010)5頁、碧海(2000)357頁。その功利主義的哲学には批判もある碧海(2000)357頁。
以上述べてきたような、法解釈における社会学的な考え方は、ベッカリーアやベンサムによる犯罪に関する著作に端を発するシャベル(2010)5頁。特にベンサムは、犯罪に対する法的制裁(英:sanction)によって悪い行動を抑止しうるということについて詳細に論じ、フォイエルバッハらに影響を与えた。また、マルクスは、唯物論の観点から法の歴史的必然性を強調してメンガーを批判し(→#概念法学と自由法論)、結果的にサヴィニーと同様、立法者の人為的努力による社会の変革という「立法への使命」を否定していたラートブルフ(1964)45-49頁、竹内ほか(1989)1299頁(→#慣習法解釈の問題点)。ところが、このような法の社会性を重視する傾向は、法解釈をして現実の政治的事情に追随する弊害を招いたとの観点からヒトラーのナチ党は法的安定性を軽視して民族共同体という目的を強調し、一方ムッソリーニのファシスト党は法の権威を誇示するために法的安定性を押し付けようとしたのであって、ファシズムのような権威主義が同じ法解釈の傾向を示すとは限らない。団藤(2007)234頁、第二次世界大戦の前後からケルゼンによって法実証主義が再評価され、これを徹底して法解釈から政治的・社会的事情を意図的に排除すべきとする純粋法学が主張される杉原(2008)6頁、竹内ほか(1989)699頁。現象学団藤(2007)303頁、物理学からの影響もあるといわれる勝田・山内(2008)415頁。戦時下の日本でも多くの追随者があり、その影響の下イデオロギー的に無色の法解釈論を展開する者が少なくなかったが団藤(2007)256頁、団藤・前掲わが心の旅路387頁、しかし、その理論の極端さゆえ、普遍的な支持を得るには至らなかった杉原(2008)6頁、竹内ほか(1989)1300頁(→#概念法学と自由法論)。
そこで、1960年代から70年代にかけて、ベンサム以来の経済学的アプローチを発展させて、市場メカニズムによる違法行為の抑制機能を強調し森島(1987)14、77-492頁、不法行為制度を始めとする法解釈全体に、ミクロ経済学の手法を取り入れた経済学的・数学的アプローチを展開しようとする動きがアメリカを中心に活発化する。コースの定理で知られるロナルド・コースが有名であるシャベル(2010)5頁、内田(2007)308頁。法制度を科学的に分析するための客観的論理を提供した点に功績がある内田(2007)309頁。
例えば、法社会学者の川島武宜は、日本における訴訟外での紛争解決の多さを、義理人情を尊び、法律や契約遵守の意識が弱い日本人の法意識の遅れに基づくものであると分析したが川島武宜『日本人の法意識』(岩波書店、1978年)139-142頁、欧米の一部の国のみを念頭においた不正確で主観的な印象論にすぎないものとして20世紀の末頃から批判され、支持を失った加藤・前掲新民法大系IV555-557頁、内田(2007)116頁ドイツでも、1924年の司法制度改革に際しては、裁判に依らない紛争解決に積極的な評価が与えられている。ラートブルフ(1964)196頁加藤雅信の調査によれば、アメリカと日本における契約意識ないし法律意識は、川島やルース・ベネディクトが考えていたような対照的なものではなく、共に世界の平均である(ドイツ・フランスよりも契約遵守度は高い)。加藤雅信『新民法大系IV 契約法』(有斐閣、2007年)557頁。そこで、アメリカの法学者の側からは、主に日米の交通事故における被害の賠償についての数理分析により、日本で訴訟件数が少ないのは裁判外における交渉による紛争解決(ADRなど)が良く機能しているためであるに過ぎず、全体としての法制度はうまくいっているとの主張が現れるなどしている村山・濱野(2003)92頁。このように、法の経済分析を中心とする法と経済学と呼ばれる学問はかなり急速に発展してきているシャベル(2010)6頁。
このいわゆる法と経済学派に対しては、その前提とする、富を最大化する制度に人々が暗黙の内に同意しているという人間観や、ベンサムのいう「最大多数の最大幸福」という功利主義の哲学それ自体に疑問が呈されており碧海(2000)357頁、内田(2007)309頁、伊藤・木下(2008)245-6頁、棚瀬(1994)276頁、田中(1994)409頁、森島(1987)14頁、1970年代から80年代にかけては、ドウォーキンらによる正義論の復権や、女権拡張運動、人種問題などを反映した法理論が主張されるなど、法解釈における社会的・哲学的議論は多様な進展を見せつつある伊藤・木下(2008)244-247頁。
以上本文をまとめれば次のようにいうことができる我妻・前掲ジュリスト563号187頁、我妻(1953)560頁。
脚注
註釈
出典
主要参考文献
三回以上参照したものの内、書籍化されているもの。
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- 村上淳一・守矢健一・ハンス・ペーター・マルチュケ『ドイツ法入門 改訂第7版』(有斐閣〈外国法入門双書〉、2008年)
- 村山眞維・濱野亮『法社会学』(有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2003年)
- 民法改正研究会・加藤雅信『民法改正と世界の民法典』(信山社、2009年)
- 森島昭夫『不法行為法講義』(有斐閣、1987年)
- 我妻栄『近代法における債權の優越的地位』(有斐閣、1953年)
- 我妻栄『新訂民法總則(民法講義I)』(岩波書店、1965年)
- 我妻栄著、遠藤浩・川井健補訂『民法案内1私法の道しるべ』(勁草書房、2005年)
関連項目