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樺太(からふと)、樺太島(からふととう、)は、ユーラシア大陸の東方 、オホーツク海の南西部、北海道の北にある、南北に細長い島である。
樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割され、それぞれ異なる沿革を経たため、本項では、北緯50度以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。
概要
1945年までは北緯50度線を境にして、南半分(南樺太(南サハリン)を「樺太(カラフト)」として日本国、北半分(北サハリン(北樺太)を「サハリン()」としてソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された。現在はロシア連邦が北樺太の領有に加え、南樺太をも実効支配している阿部照哉・畑博行編『世界の憲法集 〔第二版〕』(有信堂、1998年8月発行)の「18 ロシア連邦」(宮地芳範が訳出及び解説を執筆)の「ロシア連邦憲法」第3章(連邦体制)第65条(ロシア連邦の主体)第1項によれば、サハリン州がロシア連邦を構成する主体となっている。サハリン州憲章(1996年施行)第3条第1項によれば、「サハリン州の領土には、サハリン島とそれに隣接する領土、小クリル列島を含む千島列島の領土、ならびにロシア連邦の国際的条約と連邦法によってその境界が定められる内水と領海が入る。」と規定されている。。南樺太については、日本はサンフランシスコ講和条約によって放棄させられた(しかし、一部の日本人が領有権を主張している)。一方で、ロシア(ソビエト連邦)は、日本との間に南樺太に関する条約は結んでおらず、サンフランシスコ講和条約にも調印していない。従って、国際法上は日本の土地ともロシアの土地とも認められていない(帰属未定地域)。この問題は北方領土問題との関係も深い。
ただし、日本政府はロシアの実効支配について「異議を唱える立場にはない」としている。南部のユジノサハリンスクには日本国の総領事館が置かれており、島全体(サハリン州)をその管轄とし、所在地も「ロシア・サハリン州・ユジノサハリンスク」としている。
第二次世界大戦における日本本土最後の地上戦が行われた地でもある。
名称
『日本書紀』に粛慎の住む島として記されている「弊賂弁嶋」を、この島に比定する説があるただし「弊賂弁嶋」については、北海道の西に位置する奥尻島に比定する説もある。。李氏朝鮮の歴史書『海東諸国紀』では、日本について「其の地は黒龍江の北に始まり」という記述があり、同書の「日本国本図」では「津軽大里」の北に「夷島」という一つの島を描いている。江戸時代になると「カラフト」(または「カラト」)という呼称が史料上で確認でき、北海道を指す「蝦夷地」に対して「北蝦夷」とも呼ばれた。明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり「樺太」という名称を定め、以降日本語においては樺太という漢字表記が定着した。
「サハリン」(または「サガレン」)の名称は、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じて清国版図測量中に黒竜江(満州語名:サハリヤン・ウラ)河口対岸に島があると聞き、満州語で、サハリヤン・ウラ・アンガ・ハタ(黒竜江の対岸の島)という名で呼んだことに由来する。1689年のロシア帝国と大清帝国との間で結ばれたネルチンスク条約は、樺太が清より東側の領土であることを明確にした。
なお、ポーツマス条約調印以降の日本では、単に「樺太」と言えば南樺太を指したため、区別の必要から北樺太を薩哈嗹(サガレン)と呼ぶ場合もあった。「サガレン州派遣軍」などは、その一例である。
地理
樺太と周辺の地形
樺太の白地図樺太は、ユーラシア大陸の東方、北海道の北方に位置しており、北緯45度54分から54度20分、東経141度38分から144度45分にかけて広がる島である。島は南北に細長く、東西の幅が最大で約160km(最狭部は約26km)であるのに対し、南北は約948kmにも及ぶ。島の面積は北海道よりやや小さく76,400km²である(北海道の面積は77,981.87km²)。その面積のうちの約70%は山岳地帯によって占められており、平地は北部に集中している。
樺太は、南の北海道とは宗谷海峡により、また、西のユーラシア大陸とは間宮海峡により隔てられている。島の北岸および東岸はオホーツク海に面している。なお、2万年ほど前には海水面が低下しており、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は互いに地続きだったと考えられている。
樺太の最北端は、シュミット半島の先端に位置しているガオト岬(エリザベート岬)である。シュミット半島から西方の樺太北岸から、対岸の大陸側であるアムール川河口地域の北岸までの海岸線を一続きとみると南に湾曲した湾状の海岸線となっている。この湾はサハリン湾と呼ばれている。
南の宗谷海峡に対しては、西側から能登呂半島が、また東側から中知床半島が突き出ており、これら2つの半島の間には南に開く亜庭湾がある。能登呂半島の先端は樺太の最南端となる西能登呂岬である。中知床半島の先端は中知床岬である。
樺太の西方はユーラシア大陸との間に間宮海峡が横たわっている。間宮海峡の最狭部はネヴェリスコイ海峡と呼ばれ、その幅は約7.3kmである。冬場には海峡が凍結し大陸と地続きになる。なお江戸時代の地図の中には、樺太を離島ではなく大陸の半島として描いているものもある。
東方のオホーツク海に対しては、島の中南部から北知床半島が突き出ている。先端の北知床岬から西方は北へ向かって海岸線が湾曲し、その湾は多来加湾と呼ばれている。
樺太の気候は亜寒帯モンスーン気候に属する。夏季は湿度が高く、霧が多く発生する。また、夏と冬の寒暖の差が大きい。
樺太の先住民には、アイヌ、ウィルタ、ニヴフといった北方少数民族がいる。このうちアイヌに関しては、南樺太に居住し日本国籍を与えられていたために、ソ連による樺太占領後は残留意思を持った者を除き北海道に送還されている(現在の樺太住民の中にはアイヌを名乗る者が若干名存在するものの、統計が取られていないために詳細は不明)。
主な山岳
主な湖沼
主な河川
島嶼
南樺太
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南樺太は、日本施政下においては樺太と呼ばれる行政区画であった。地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争中の1942年に、外地から内地へと編入された。人口は1945年当時、約40万人であった。当時の主要な産業は漁業、農業、林業と製紙・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業などであった。南樺太の中心都市は、樺太庁の置かれた豊原市であった。
北樺太(北サハリン)
北樺太は、樺太・千島交換条約以来のロシア領であり、ロシア帝国時代は沿海州、ソビエト連邦時代は当初は日本のシベリア出兵によって日本国の実効支配下にあったが、1925年に日ソ国交樹立で日本軍が撤退するとハバロフスク地方として置かれ、その後はサハリン州に属し、ロシア連邦となった現在も引き続きサハリン州に属している。主な都市はオハやアレクサンドロフスク・サハリンスキー(日本名:オッチシ・落石)である。オハ油田、サハリンプロジェクト(サハリン1、サハリン2)が代表的な石油産業である。
歴史
氷河期には大陸と陸続きだった。日本(間宮林蔵など)やロシア帝国の到達以前は南部にアイヌ民族、中部にウィルタ民族(アイヌ民族は「オロッコ」と呼んだ)、北部にニヴフ民族(ニヴヒとも)などの北方少数民族が先住していた。
先住民自治期
- 640年 - 「流鬼」(樺太アイヌ)が唐に入貢。
- 1264年 - 蒙古帝国(のちの元)が3000人の軍勢を樺太に派兵し、住民の「骨嵬」(樺太アイヌ)を朝貢させる。
- 1284年 - 「骨嵬」が元に反乱を起こす。
- 1295年 - 日持上人が日蓮宗の布教活動の為に樺太へ渡り、本斗町阿幸に上陸し、布教活動を行ったとされる。
- 1297年 - 「骨嵬」がシベリアの黒竜江(アムール川)流域に侵攻する。
- 1308年 - 「骨嵬」、元に降伏。毎年の貢物を約束。
- 1368年 - 元が中国大陸の支配権を失い北走、満洲方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続き、樺太への干渉は霧消する。
- 1411年 - 明は、黒竜江(アムール川)下流域まで進出。衛(役所)を樺太など3箇所に設置し、アイヌ民族と交易する。
- 1485年 - 樺太アイヌの首長が武田信広(松前家の祖)に銅雀台を献ずる。
- 1593年 - 豊臣秀吉は松前慶広に先住民であるアイヌの保護を行うとともに、諸国から集まる人々を取り締まり、従来どおりこれらから税を取り立てる権利を認めた 『熊石町史』熊石町発行(1987年9月)。
- 1635年 - 松前藩の松前公広が村上掃部左衛門を樺太巡察に派遣し、ウッシャムに至る。
- 1644年 - 江戸幕府が松前藩から提出の所領地図を基に作成した「正保御国絵図」に、樺太が北海道の北の大きな島として記載されている。
- 1679年 - 松前藩の穴陣屋が久春古丹(大泊町楠渓)に設けられ、日本の開拓が始まる。
- 1709年 - 清の康熙帝が3人のイエズス会修道士に命じた清国版図測量中に、黒竜江河口対岸の庫頁島(樺太)を確認した。
- 1742年頃 - 樺太アイヌが清商人から略奪をはたらき、清の役人が樺太アイヌを取り締まる。
- 1790年 - 樺太南端の白主に松前藩が商場を設置、幕府は勤番所を置く。
日露の領土競合時代
- 1798年 - 東蝦夷地が幕府の直轄地となり、場所請負制を通じて東蝦夷地のアイヌ人の宗門人別改帳が作成される。
- 1806年 - ロシア海軍士官らが久春古丹を焼き討ちにする。弁天社の鳥居に真鍮でできた板を取り付け「樺太の占領」「先住民はロシアに服従した」と意味する内容が記された。
- 1807年 - ロシア海軍士官らが択捉島、礼文島などとともに留多加を襲撃する。警備のため幕府が秋田藩・弘前藩・仙台藩・会津藩などに蝦夷地への出兵を命じる。樺太全土を含む西蝦夷地を幕府の直轄地とし、以降樺太アイヌを含む全蝦夷地のアイヌ人の宗門人別改帳が作成されるようになる。
- 以下に幕府が把握した北蝦夷(樺太)のアイヌ人の人口と、明治政府が把握した樺太人員の本籍人口をまとめる。
- {|class="wikitable" style="font-size:small"
|+ 北蝦夷(樺太)人員の変遷
! 西暦(元号) !! 人口
|-
| 1804年(文化元年) || 2,100
|-
| 1822年(文政5年) || 2,571
|-
| 1839年(天保10年) || 2,606
|-
| 1854年(安政元年) || 2,669
|-
| 1873年(明治6年)1月1日 || 2,358
|-
| 1875年(明治8年)1月1日 || 2,374
|}
- 1808年 - 江戸幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで派遣。松田伝十郎は樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。
- 1809年 - 間宮林蔵は樺太が島であることを確認し、呼称を北蝦夷と正式に定める。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献した。また、山丹貿易を幕府公認とした。
- 1821年 - 幕府、全蝦夷地を松前藩に返還する。
- 1848年 - ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフは海軍軍人ゲンナジー・ネヴェリスコイにアムール河口部およびサハリン沿岸の調査を依頼。間宮海峡を初めて船舶で通過した。
- 1853年
- 1854年 - 安政元年日露和親条約により、日露国境を樺太島上で定めず是までの仕来りによることを決定した。
- 1858年 - 幕府は大野藩主土井利忠に北蝦夷地警備と開拓を命じた。
- 1859年 - ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航。樺太全土は露領と威嚇したが、幕府はこれを拒否する。
- 1865年 - 岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。
- 1867年 - 樺太島仮規則調印。
- 1869年頃 - 北蝦夷地を樺太と改称
- 1870年2月13日 - 樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。
- 1871年8月7日 - 樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。
全島のロシア領期
- 1875年5月7日 - 樺太・千島交換条約締結により日本は樺太島の領有権を完全に放棄し、全島がロシア領となる。
- 1890年 - 作家のアントン・チェーホフが、流刑地となっていた樺太を現地調査。現地の日本人島民とも交流。日本への渡航も企てるが失敗。後に報告記「サハリン島」を執筆する。
- 1905年7月 - 日露戦争末期、日本軍が樺太島に侵攻、全域を占領(樺太の戦い)。
南部の日本領期
- 1905年9月5日 - 日露戦争後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)がロシアより日本へ割譲される。行政機関として樺太民政署が設置される。
- 1907年4月1日 - 樺太民政署の発展的解消により樺太庁発足。
国境警察隊員。1913年から1939年まで南樺太に日本軍部隊は常駐せず、国境警察隊だけが警備を担当していた。/' title='国境警備隊/' title='ファイル:Border Security of the 50th parallel of north.JPG|thumb|250px|北緯50度の国境標識と、警備にあたる日本の[[国境警備隊'>国境警察隊員。1913年から1939年まで南樺太に日本軍部隊は常駐せず、国境警察隊だけが警備を担当していた。'>国境警備隊/' title='ファイル:Border Security of the 50th parallel of north.JPG|thumb|250px|北緯50度の国境標識と、警備にあたる日本の[[国境警備隊'>国境警察隊員。1913年から1939年まで南樺太に日本軍部隊は常駐せず、国境警察隊だけが警備を担当していた。
- 日本統治時代の樺太(南樺太)の人口変遷を以下にまとめる。
- {|class="wikitable" style="font-size:small"
|+ 日本統治時代の樺太(南樺太)の人口変遷
!調査年月日
!人口
!出典
|-
|1908年(明治41年)12月31日||style="text-align:right"|26,393||樺太庁統計書
|-
|1913年(大正2年)12月31日||style="text-align:right"|44,356||樺太庁統計書
|-
|1918年(大正7年)12月31日||style="text-align:right"|79,795||樺太庁統計書
|-
|1920年(大正9年)10月1日||style="text-align:right"|105,899||国勢調査
|-
|1925年(大正14年)10月1日||style="text-align:right"|203,754||国勢調査
|-
|1930年(昭和5年)10月1日||style="text-align:right"|295,196||国勢調査
|-
|1935年(昭和10年)10月1日||style="text-align:right"|331,943||国勢調査
|-
|1940年(昭和15年)10月1日||style="text-align:right"|414,891||国勢調査
|-
|1944年(昭和19年)2月22日||style="text-align:right"|391,825||人口調査
|-
|}
- 1908年3月31日 - 内務省告示にて、地名を日本語式漢字表記に変更。
- 1915年6月26日 - 勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置される。
- 1918年 - シベリア出兵の際に日本は北部も占領するが、1925年に北部から撤兵する。
- 1923年8月2日 - 7日 - 詩人・作家の宮沢賢治が、樺太を訪れる。大泊に上陸し、栄浜に向かう。帰路、豊原に立ち寄る。
内地時代
1930年代(内地編入前)の豊原の風景。
戦後の樺太
- 1945年9月17日 - 南サハリン・クリル列島住民管理局の設置により、樺太庁が事実上廃止される。
- 1946年1月 - 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)より日本政府に対しSCAPIN-677が通達され、日本の政治的・行政的権限の行使の中止が指令される。
- 1949年6月1日 - 国家行政組織法が施行される。これをもって国内法的に樺太庁が廃止される。
帰属の歴史
ロシアにおける樺太の位置
http://www.welcome.wakkanai.hokkaido.jp/topics/2010/03/post-62.html 稚内観光協会 1月16日閲覧。。/' title='宗谷岬から樺太を望む。この写真ではぼんやりしているが、天候によってははっきり見えることもあるhttp://www.welcome.wakkanai.hokkaido.jp/topics/2010/03/post-62.html 稚内観光協会 1月16日閲覧。。'>宗谷岬から樺太を望む。この写真ではぼんやりしているが、天候によってははっきり見えることもあるhttp://www.welcome.wakkanai.hokkaido.jp/topics/2010/03/post-62.html 稚内観光協会 1月16日閲覧。。
幕末以来、日本とロシアの間で領有者がたびたび変遷した。
- 1855年 - 日露和親条約が締結され、樺太は「界を分たす 是まて仕来の通たるへし」と、日露混住の地と決められた日本政府外務省は日露和親条約では、樺太は日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』6ページ)。
- 1867年 - 日露間樺太島仮規則が締結され、「カラフト島は是迄の通り両国の所領」とされた『北方領土問題資料集』南方同胞援護会発行(1966年6月)4ページ。
- 1875年 - 樺太・千島交換条約により、樺太全島はロシアの領土となった。
- 1904年2月8日 - 日本は清国旅順港に展開中のロシア艦隊を奇襲攻撃、日露戦争が勃発した。
- 1905年6月 - アメリカ合衆国大統領・セオドア・ルーズベルトの講和勧告を日露両国が受諾表明した。後に日本は樺太作戦を決定し、
- 1907年 - 日本は樺太に樺太庁を設置。
- 1942年 - 「内地行政」への編入を行った。
- 1945年
- 1946年
- 1952年 - カイロ宣言やポツダム宣言に基づき作成されたサンフランシスコ講和条約第二条に「南樺太と付属島嶼の放棄」と記載されている。これに基づき、日本は南樺太の領有を放棄したが、その後の南樺太の領土帰属に対して、日本とロシアの主張に差異がある。
日本政府は、サンフランシスコ講和条約にソ連が調印しておらず、その後も南樺太の領有に関する条約や協定等が両国間において締結されていないため、「国際法上南樺太の帰属は未確定である」との立場を取っている。これに対するロシア側の立場は、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しなかったが日本は国際条約で領有権を放棄している、ロシアの南樺太領有は戦争の結果であり、また既にソ連国内法により編入されているというものである。
一方、日本国には南樺太の領有権問題を主張する人も存在し、上記の通り日本が領有権を放棄したことについては日本とロシアの主張に差異が存在しないため、一般的に議論の対象になることは少ないが、領土が未帰属であることから北方領土問題とともに取り上げられることも少なくない。架空戦記の話題にもなった『北方領土奪還作戦』。
なお冷戦下の1952年3月20日にアメリカ合衆国上院は、サンフランシスコ平和条約の解釈から南樺太及びこれに近接する島々、千島列島、色丹島、歯舞群島及びその他の領土、権利、権益をソビエト連邦の利益のために、これらの権利、権原及び権益をソビエト連邦に引き渡すことをこの条約は含んでいない、とする決議を行った。
領土問題
1945年8月9日、ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦、8月11日より南樺太に侵攻し、8月14日のポツダム宣言受諾後も、8月22日に日ソ停戦協定が成立するまで侵攻を続けた。このことから、ソビエト連邦による南樺太の占領は侵略による領土占拠であり、従って当該地域は日本に返還されるべきであるとする意見も存在する。しかしこのような議論は一般的なものではなく、日本政府も積極的な領土返還要求を行ってはいない。この点が、いわゆる北方領土とは異なっている。1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約締結により、南樺太の領有権を日本政府は放棄した。しかし、南樺太は1942年以降は内地である事から外地すなわち戦争によって獲得した地域には相当せず、従って放棄する地域に含まれた事は不当であるとする人々もいる。また、ソビエト連邦はサンフランシスコ講和条約締結国でないことも同時に問題とされる。また、日露戦争の結果締結されたポーツマス条約による当該地域の譲与は「返還」であるとし、戦争によって獲得した地域には当たらないとする主張も見られる。これらの主張はカイロ宣言を念頭に置いているものと考えられる。
ソビエト連邦崩壊後、それを継承したロシア連邦がいまなお南樺太全体を実効支配している。しかし、サンフランシスコ講和条約では、南樺太及び千島列島の最終的な帰属は将来の国際的解決手段に委ねられることとなっている。従って、南樺太及び千島列島の帰属は依然として未確定であると日本政府は主張している。しかしながら、日本政府が樺太(サハリン州)での邦人保護を目的とした在ユジノサハリンスク日本国総領事館を設置している事をもって、ロシア連邦による樺太の実効支配を事実上「追認」しているとの意見もある。これに対し、満洲国にソ連領事館が設置されていた例をあげ、領事館の設置を一概に追認とは言えないとする意見も存在する。
南樺太を巡る領土問題
現在、日本政府は南樺太について「国際法上は所属未定地」としながらも領有権を放棄しており、積極的な領土的主張を行っていない。このような日本政府の立場により、日本国内で発行されている世界地図における南樺太は「白色(どこの国の領土でもない、またはどこの国の領土か未定)」で表示されている。なお、他に「白色」で表示されている地域には南極や千島列島等がある。この問題について、日本政府は豊原(ユジノサハリンスク)での日本総領事館設置や航空協定等の締結によって、南樺太のロシア連邦への所属を事実上認めているという説がある。しかしながらこの説に対しては、領有を主張しているものの実効的支配を奪われている場所について国民保護のための措置として領事館を置く、ということは成り立つのであるから、総領事館があるということをもって直ちに領有権を追認しているとはいえない。これに類する例としては満州国へのソ連領事館設置があげられる。なお、日本政府自身は領事館の設置と領土の問題とは無関係であり、仮に将来において何らかの国際的解決手段により南樺太の帰属が決定される場合にはその内容に応じて必要な措置を取るとの見解を示している。
しかし日本国内の一部には南樺太の返還を要求している人々も存在する(八幡和郎など)。以下は南樺太の領有権に関する様々な主張である。なお、以下に記述する内容はあくまで一例であり、すべての主張を網羅した物ではないし、またその正当性を保証する物でもない。
日本への返還を要求する側の主張
- 江戸時代以来、日本の行政が部分的とはいえ及んでいたこと
- 日本固有の少数民族・アイヌ民族の古来からの樺太居住
- 日露最古の条約日露和親条約 の「これまでの仕来たり」概念(この場合得撫島以北の千島列島領有権はない)以来に遡れば、南樺太における日本権益の法的発生が日露戦争による併合で開始されたといえないこと
- ポーツマス条約が南樺太に関する最後の有効的条約との定義
- 日ソ基本条約によりソ連政府が承認した南樺太の日本領有権の有効性(南樺太に対する最後の有効的条約と定義)
- 日ソ中立条約によりソ連政府が認定した日ソ両国の領土権尊重規定の有効性
- 当事国を無視し秘密裏になされたヤルタ協定極東領土条項自体の無効性
- ソ連による日本領土侵攻(日ソ中立条約違反)ポツダム宣言受諾後なお領土拡張意図による継続侵攻を実行したこと
- ソ連によるポツダム宣言違反(捕虜の強制連行)(領土不拡大原則違反)による権利の毀損性
- ソビエト連邦による国際法を無視した一方的南樺太編入措置の無効性、領土編入措置と一体化した樺太庁管内住民のソ連による強制送還の違法性
- サンフランシスコ講和条約を理由とするソ連による南樺太、千島領土主権の取得ができないためソ連がサンフランシスコ講和条約調印を拒否したこと(日本は南樺太・千島を放棄させられたが、ソ連はこの条約に調印していないため、「日本は国境に関して、ロシアに対し従前の関係であり南樺太・千島を放棄していない」または「連合国は日本のロシアに対する南樺太・千島の放棄を認めていない」と定義)
- : 1952年3月20日 米国上院が「南樺太及びこれに近接する島々、千島列島、歯舞諸島、色丹島及びその他の領土、これら権利、権原及び権益をソビエト連邦に引き渡すことをこの条約は含んでいない」とする決議を行っている。
- サンフランシスコ平和条約で日本は南樺太の領有権を放棄しているが、最終的な領有権の決定はなされていない。日ロ間における講和条約は未成立であるが、サンフランシスコ平和条約の当事者である日本はロシアに割譲する権限を有しない。
ロシアによる領有を認める側の主張
- アイヌ人を引き合いに出すのは、正当性の根拠としては弱い。
- : 単にアイヌ人を交渉のツールとして使っているに過ぎない。そもそも、アイヌ人という日本人とは別の少数"民族"として認識するなら、かつてアイヌ人の都合を無視して併合した以上は、アイヌ人のための自治区として返還を申し入れるのが道理であるが、そのような主張は全く見られないという者もいるが、1855年までの領土交渉では大和民族とアイヌ民族を「日本人」とみなしていた。
- ヤルタ協定の有効性、連合国の要請による参戦、占領である
- サンフランシスコ講和条約による日本の南樺太放棄
- : サンフランシスコ講和条約にソ連が調印しておらずこの効力は及ばないが、「日本が世界に対して宣言を発することには何の関係もない。宣言すること自体は日本の都合だからである。さらに、あまり知られていないが、サンフランシスコ講和条約の原本を読めば、領土については、日露戦争以降に獲得した部分を放棄すること、となっている」との意見も一部にある
- 北方4島とそれ以外の千島列島、南樺太では、そもそも政府の立場は異なる。
- : 北方領土に関して、「(歯舞、色丹)は、北海道の一部であって、北方4島はサンフランシスコ講和条約で放棄した千島列島の一部ではない」というのが通説となっており、北方4島以外の千島列島および南樺太はこれらと扱いが異なっている。
- 国外では、この地域はロシアが実効支配中のため、樺太や千島列島が依然として日本領であるという意見が広く同意を得ているとは言い難く、日本以外の多くの国ではロシア領として扱われている。
- ソ連国内法による南樺太編入措置、ロシア連邦に至る実効支配の既成事実
- 日本の対ソ無条件降伏
- 日露戦争講和条約で割譲した領土の武力奪還
- 武力侵攻による領土掠奪の正当性
- : ※日本では、北方四島は日本固有の領土、それ以外の千島列島と南樺太は帰属未定というのが公式見解となっている。