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東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦中にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模爆撃の総称。

東京は、1944年昭和19年)11月14日以降に106回の空爆を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日4月13日4月15日5月25日の空襲は大規模であった。通常「東京大空襲」と言った場合、特に規模が大きかった1945年(昭和20年)3月10日に行われた空襲を指すことが多い。民間人にも大きな被害を与えた。

空襲の経緯

1945年3月9日以前の空襲


1942年(昭和17年)4月18日にアメリカ軍によるドーリットル空襲が行われ、東京にも初の空襲があった。1944年(昭和19年)7月サイパン島などマリアナ諸島をアメリカ軍が制圧し、ここが日本本土空襲の基地となった。同年11月24日軍需工場である北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲が行われた。それ以降、空襲が続き、1945年(昭和20年)1月27日には有楽町銀座地区が標的になり、有楽町駅は民間人の死体であふれた。この頃の爆撃はレーダー照準を用いた高度精密爆撃であったが、爆撃失敗も多かったため、後に夜間低空爆撃へと変化していった。

3月10日の空襲


それまでの爆撃とは異なり、3月10日の大空襲は日本軍機による大した迎撃もなく、超低高度・夜間・焼夷弾攻撃であった。その目的は、市民の生活の場である木造家屋が多数密集する下町市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団であった。

1945年(昭和20年)3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来した。22時30分(日本時間)にはラジオ放送が中断され警戒警報が発令された。ところが、その警戒警報は一旦解除される。同編隊が房総半島沖に退去して行ったためである。これにより生じた軍民双方の油断を突くかのように、3月9日から3月10日へと日付が変わった直後の0時7分、爆撃が開始された。爆撃は325機ものB-29爆撃機(うち爆弾投下機279機)によるもので、0時7分に深川地区へ初弾が投下されたのを皮切りにその後城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区芝地区(現・港区)に対する爆撃も開始された。爆撃による火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速100m以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れた。

アメリカ軍が東京大空襲の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日であることと、3月10日が日本の陸軍記念日である事に因んでいるという説が有力である。ただしこのことがアメリカ側の資料で確認されているわけではない。

東京大空襲の爆撃のために各B-29には通常の約2倍の搭載量である6tもの高性能焼夷弾が搭載されていた。ほぼ全ての機銃および弾薬を爆弾投下機の多くから降ろしてまで、焼夷弾の搭載量が最優先されたのである。その背景には、その時点で日本には貧弱な防空能力しか残されていないことが見抜かれていたことが挙げられる。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783tにものぼった。
午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除された。

当夜の被害が拡大した原因は、以下の各要因が複合したものであった。とりわけ強い冬型の気圧配置という気象条件による強い季節風空っ風)は直接・間接に大きな影響を及ぼした。

  • もともと精度に劣る防空警戒用レーダーの精度がますます低下していた。強い季節風によってレーダーのアンテナが揺さぶられたためである。これにより、編隊の確実な捕捉、編隊の企図の把握に支障が生じ、空襲警報の発令が極端に遅れた(発令されたのは初弾投下8分後の3月10日午前0時15分)。なお、アメリカ軍機はウインドウを大量に散布するなどしてレーダーによる捕捉に対抗した。
  • 「低空進入」と呼ばれる飛行法が初めて大規模に実戦導入された。この飛行法ではまず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)によって超低空からエレクトロン焼夷弾が投弾された。その閃光は、攻撃区域を後続する本隊に伝える役割を果たした。その本隊の爆撃機編隊も通常より低空で侵入した上、発火点によって囲まれた領域に向けて集束焼夷弾E46を集中的に投弾した。この爆撃の着弾精度は、高空からの爆撃にくらべて高いものであった。
  • さらに後続する編隊が爆撃範囲を非炎上地域にまで徐々に広げた。当初の投下予定地域ではなかった荒川(当時は荒川放水路)周辺やその外側の足立区葛飾区江戸川区の一部にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられたことにより、被害が一層拡大した。これは、早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では、火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。
  • 投下された爆弾(焼夷弾)が当時の日本家屋を焼き払うために最適化されたものであった。
  • 折からの強い北西の季節風によって火勢が煽られ延焼が助長された。規模の大きい飛び火も多発し、特に城東地区や江戸川区で焼失区域が拡大する要因となった。

これら複数の要因が重なり被害が拡大した。

なお、この爆撃において投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した新型の集束焼夷弾E46(M69)を中心とする油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾エレクトロン焼夷弾などである。有名なのはゼリー状のガソリンを長さ約50cmの筒状の容器に詰めたナパーム弾である。この焼夷弾は、投下時には各容器が一つの束にまとめられており、投下後に空中で散弾のように各容器が分散するようにされていたため、「束ねる」という意味を込めて「クラスター焼夷弾」と呼ばれた。

使用された焼夷弾は当時の平均的な爆弾とは異なる構造のものであった。つまり、通常の航空爆弾では、瞬発または0.02 - 0.05秒の遅発信管が取り付けられており、破壊力は主に爆発のエネルギーによって得られる。しかし木造の日本家屋を標的にそのような爆弾を用いても、破壊できる家屋が爆風が及ぶ範囲のものに限られ、それを免れた家屋は破壊されず散発的な被害にとどまってしまう。そこでアメリカ軍は、市街地を火災により壊滅させるため、爆発力の代わりに燃焼力を主体とした焼夷弾を用いることとし、その焼夷弾も日本家屋に火災を発生させるために新たに開発した。

より詳細には、まず、投下時に確実に日本家屋の瓦屋根を貫通させるため、上述した形状が選ばれるとともに、空中での向きを制御する吹流し状のものも個々の容器に取り付けられた。これにより、各容器が家屋の内部に到達して内部から火災を発生させる確率が高められた。なお、都内では当時すでに燃えにくい素材で建物を補強するなどの対策がなされていた(関東大震災を教訓にしたものであった)。しかし、防火性のある瓦屋根を貫いて建物の内部で着火剤を飛散させる仕組みのこれらの焼夷弾の前ではその対策は無意味であった。この焼夷弾の開発の参考にされたのは、奇しくも同盟国ドイツによるロンドン空襲において回収された不発弾であった。

爆撃の際には火炎から逃れようとして、隅田川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も多かった。しかし、火災の規模が常識を遥かに超えるものであったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだ。そのため、避難をしながらもこれらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息によって命を奪われた人々も多かった。また、川に逃げ込んだものの冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川荒川放水路等は凍死・溺死者で川面が溢れていたという。これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道東武伊勢崎線沿いに春日部古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。

この爆撃に先だってアメリカ軍は関東大震災1923年)における被害実態を事前に徹底的に検証しており、木造住宅の密集する東京の下町が火災被害に遭いやすいことをつきとめていた。この成果を上述の爆弾の選定や攻撃目標の決定に反映させたため、東京大空襲の被害地域・規模は関東大震災の延焼地域とほぼ一致し、そして大震災時を大幅に上回っている。

被害規模


犠牲者の遺体を調べる警察官
当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。

  • 死亡:8万3793人
  • 負傷者:4万918人
  • 被災者:100万8005人
  • 被災家屋:26万8358戸

なお人的被害の実数はこれよりも多い。上記の被害数の死者数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在するためである。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われる。

この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積(約41km²)が焼失した。

ちなみにアメリカ側の損害は、撃墜・墜落が12機、撃破が42機であった。

その後の空襲


・日赤医療センター付近、画面下から画面右上に伸びるのは渋谷川、画面下に山手線東横線の交差と思しきものが見えることから広尾上空と推定される。なお、北方向は写真左側となる)]]その後も東京への空襲は続けられた。4月13日には王子・赤羽地区を中心とした城北地域が、翌15日には大森・蒲田地区を中心とした城南地域が空襲・機銃掃射を受け死傷者4004人、約22万戸もの家屋が焼失した。さらに5月25日には、それまで空襲を受けていなかった山の手に470機ものB29が来襲した。皇居も被災し宮殿が焼失した。これにより死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸と3月10日に次ぐ被害となった。
また当時、東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死している(東京陸軍刑務所飛行士焼死事件)。

3月-5月にかけての空襲で東京市街の50%が焼失した。また、多摩地区立川八王子八王子空襲)なども空襲の被害を受けている。その後、空襲の矛先は各地方都市に向けられていく。

大規模な実験


アメリカ軍は日本家屋を再現した実験場を作り、大規模な延焼実験を行っている。実験用に立てられた日本家屋は、室内の日系人の多いハワイからわざわざ取り寄せるなどして精巧に作り上げられた。これらの実験によってクラスター焼夷弾開発の参考にされるなど、東京大空襲を初めとする日本本土への無差別爆撃の際、効果的被害を与えることに成功している。

日本軍による迎撃


八丈島のレーダーは機影を捉えていたが、日本列島では猛烈な風のために本土防空隊は迎撃に出撃することができずにいた。その後爆撃隊がサイパンへの帰還中に迎撃可能となり爆撃隊を迎撃した。その際の戦果と陸軍の高射砲部隊の戦果を合わせて12機を撃墜、42機を撃破する戦果を挙げた『本土防空戦』渡辺洋二・著。5月25日に464機のB-29が来襲した際は、26機撃墜、86機撃破と本土空襲の中で最も大きな損害を与えた第二時大戦に於けるアメリカ陸軍航空軍戦闘日誌。なお、この時墜落機の搭乗員の一人が逃亡途中で警防団員を射殺、逮捕された後に処刑されている(東京上野憲兵隊事件)。

米軍にとっての空襲


当初1944年(昭和19年)11月24日ヘイウッド・S・ハンセル准将の指揮により始められた日本本土空襲は、軍需工場、製油所などの目標地点のみを攻撃する計画であった。なぜならハンセルは非戦闘員である一般市民を巻き込む無差別爆撃に対して非人道的だという感情を抱いていたからであった。しかし、元々米軍による日本本土空襲は、戦闘員同士の通常の戦闘では米軍側の被害も多く出るので、それを回避しつつ日本の降伏を早めることが狙いであった。そのためには「軍需工場のみならず、軍需工場の労働者の家や使用する道路鉄道を破壊することが効果的だ」というヘンリー・H・アーノルド大将の意を受けて、翌年の1945年(昭和20年)1月21日カーチス・E・ルメイ少将と交代した。ルメイは大規模な無差別攻撃を立案、その手始めに東京を選んだ。
ただし、かなりのリスクを背負っていた。それは、

  1. 燃料節約のためB-29は編隊を組まないで、単独飛行にしたこと。コースを外れる危険性があった。
  2. 低高度(高度7000 - 8000ft,)からの焼夷弾を投下する。日本上空の強い風を避け、目標を絞りやすいが、対空砲火や日本の戦闘機の標的になりやすい。
  3. 爆撃の効果を上げるために搭乗員を減らしてまで、焼夷弾や燃料の搭載量を増やした。迎撃に遭遇しても反撃できなかった。

というものであった。

このルメイの立案の低空飛行に兵士が難色を示すと、ルメイは葉巻を噛み切って「なんでもいいから低く飛ぶんだ」と言ったという。空襲時の東京を空から一定の時間おきにスケッチするため高度1万mに留まっていた飛行機もあり、帰還後ルメイはそのスケッチを満足げに受け取ったという。

「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想できぬ」、「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのである」とルメイは証言している。一方で、「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」とも語っている読売新聞」平成18年3月10日号社説より

その後

戦争犯罪


これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また戦意を挫くため、全国各地で空襲が行なわれ、その結果多くの一般市民が犠牲となった。建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃であるが、東京大空襲は東京そのものを焼滅させるのが目的の無差別爆撃で多数の民間人(非戦闘員)が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強い。しかし、日本国政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄している。1964年(昭和39年)12月4日に日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイに対し勲一等旭日章の叙勲を佐藤栄作内閣が閣議決定した朝日新聞夕刊昭和39年12月4日。(授与は7日、理由は航空自衛隊育成の協力朝日新聞夕刊昭和39年12月7日

当時非難の声があり国会で追及されたが、佐藤栄作首相は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答える。小泉純也長官も「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。」と答えている。昭和39年12月07日47回 衆議院 予算委員会 8号
勲一等の授与は天皇親授が通例であるが、昭和天皇はルメイと面会することはなかったとされる。東京大空襲は昭和天皇の初孫の東久邇信彦が災難の中で防空壕で誕生した日であり、さらに皇居も空襲を受け、赤坂御苑内にある各宮邸が災害を受け、大宮御所や明治宮殿までもが全焼した。
後年『NHK特集 東京大空襲』でのNHKの取材で戦争責任についての問いにルメイは勲章を示して見せている。
「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁かれていた」とも述べたという。ルメイの前任者であったハンセル少将は、高高度からの軍事目標への精密爆撃に拘った故に解任されている。無差別戦略爆撃は、原爆投下も含めてアメリカ合衆国大統領たちの選択であったと言ってよい。

記録


3月10日の空襲の惨状は、警視総監より撮影の任務を受けた、警視庁石川光陽によって、33枚の写真が残された(上の画像参照)。それらは戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から引き渡すよう命令が下るが、石川はこれを拒否し自宅の庭に埋めて保管したという。この33枚の写真は、東京大空襲の悲惨さを伝える貴重な資料となっている(石川自身、本当はこのような写真は撮りたくないと言っていた)。なお、石川はほかにも1942年(昭和17年)のドーリットル空襲から1945年(昭和20年)5月25日の空襲まで記録写真を撮影しており、東京の空襲全体では撮影枚数は600枚を越える。

慰霊


浅草七丁目一番身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者を祀った「震災記念堂」に合わせて納められた。このため1951年(昭和26年)には、震災記念堂から東京都慰霊堂に名称が改められた。慰霊堂では毎年3月10日に追悼行事が行われているほか、隣接する東京都復興記念館に関東大震災及び東京大空襲についての展示がある。東京都1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めた。一連の空襲による正確な犠牲者数は不明である。東京都では墨田区横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、遺族などからの申し出により判明した分の犠牲者名簿(1942年 - 1945年の空襲犠牲者)を納めている。

空襲を免れた地区


東京の市街地でも空襲を免れた区域がある。

  • 丸の内付近では東京府庁(東京都庁)と東京駅が空襲を受け全半壊したが、空襲を免れた区域も多い。これは占領後の軍施設に使用する予定の第一生命館明治生命館などがあったためと言う。
  • 築地付近が空襲を受けなかったのは、アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院があったからだとも言われる。
  • 中央区佃島月島地区も戦火を免れ、現在も戦前からの古い木造長屋が残っている。3月10日の下町空襲で壊滅状態となった旧・深川区(現在の江東区)とは晴海運河を挟んで明暗が分かれた形となった。
  • 墨田区京島地区も甚大な被害を受けた墨田区中央部の中で奇跡的に延焼を免れた一帯。東武亀戸線が防火線となったうえに当時東武亀戸線沿いに小川があり、住民が川の泥を掬っての懸命な防火活動により被害を免れた。空襲以前にも関東大震災の際にも延焼を免れ、ほぼ大正初期の路地構成や建物の面影を今に残す、下町一帯の中では希有な地域である。但し「生き残った」ことにより、自動車も通れない明治大正期の極狭路地が迷路のように走る同地帯は、現在では防災面で深刻な問題のある地域として懸念されている。
  • ロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館のある東京帝国大学付近も空襲は受けていない。
  • 神田には救世軍本営があるため被害を受けなかったとも言われるが定かではない。また神保町古書店街の蔵書の消失を恐れた為という俗説もあるが、アメリカ軍は名古屋大空襲(5月14日の空襲で国宝であった名古屋城が焼失)やドイツでのドレスデン爆撃など文化財の破壊を容赦なく行っていることから信憑性は低い。なお日本正教会ニコライ堂(東京復活大聖堂)およびその関連施設も空襲を免れ現代に残っている。遺体の収容場所が足りなくなった事による本郷の町会の要請により、大聖堂には一時的に遺体が収容された高井寿雄『ギリシア正教入門』教文館(1980)
  • 皇居(宮城)は対象から外されていたが、5月25日の空襲では類焼により明治宮殿明治憲法の発布式が行われた建物)が炎上した。このため、松平恒雄宮内大臣が責任を取って辞任している。

東京大空襲で落命した著名人


行方不明(死亡確定)

東京大空襲で被害を受けた建造物


東京大空襲で被害を受けた美術工芸



 浅草の浅草寺の本堂(観音堂、当時の国宝)、浅草寺五重の塔など。

東京大空襲訴訟


2007年平成19年)3月9日、「東京空襲犠牲者遺族会」の被災者・犠牲者の遺族112人(平均年齢74歳)は、日本政府に対して謝罪および総額12億3,200万円の損害賠償を求めて東京地方裁判所に集団提訴した。アメリカ軍の空襲による民間の被害者が集団となって日本国に責任を問うのは初めて。目的は、旧軍人・軍属が国家補償を受けているのに対して国家総動員法に寄って動員された民間人は補償が行なわれていないことを理由に、「東京空襲が国際法違反の無差別絨毯爆撃であったことを裁判所に認めさせ、誤った国策により戦争を開始した政府の責任を追及する」ことである。2009年12月の1審判決は請求棄却で、原告側は控訴している。また、2011年6月に「空襲被害者等援護法(仮称)を実現する議員連盟」が設立された。

毒ガス散布計画


連合国は東京に効果的に毒ガスを散布するための詳細な研究を行っており、散布する季節や気象条件を始めとして散布するガスの検討を行い、マスタードガスホスゲンなどが候補にあがっていたBritain considered chemical attack on Tokyo in 1944 Times June 26, 2009

脚注

参考文献


  • A・C・グレイリング『大空襲と原爆は本当に必要だったのか』鈴木主税/浅岡政子訳、河出書房新社、2007年2月、ISBN 978-4-309-22460-2
    • A. C. Grayling, "Among The Dead Cities: The History and Moral Legacy of the WWII Bombing of Civilians in Germany and Japan," Walker & Company, March 20, 2007 ISBN 0802715656
  • 早乙女勝元『図説 東京大空襲(ふくろうの本)』河出書房新社、2003年8月、ISBN 4-309-76033-3
  • 東京都編集『東京都戦災誌』明元社、2005年8月、ISBN 4-902622-04-1
  • : 東京大空襲の記録を網羅した唯一の公式資料。
  • 平塚柾緒編著『米軍が記録した日本空襲』草思社、1995年6月、ISBN 4-7942-0610-0
  • 村上義人『手拭いの旗 暁の風に翻る』福音館書店〈福音館日曜日文庫〉、1977年7月、ISBN 4-8340-0549-6
  • : 開成高校の学徒隊として遭遇した著者の被災状況を記録。開戦前夜から敗戦―講和までの日本の状況も記した自伝。
  • 山本茂男他著『B29対陸軍戦闘隊――陸軍防空戦闘隊の記録(新版)』今日の話題社、1985年11月、ISBN 4-87565-304-2
  • : 本土防空作戦に従事した旧陸軍の航空関係者による回想録集。

関連項目



外部リンク



太平洋戦争の戦略爆撃
第二次世界大戦終了以前の昭和時代
東京の歴史
大量虐殺
第二次世界大戦中のアメリカ合衆国の戦争犯罪
1945年の日本



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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