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山本 五十六(やまもと いそろく、1884年4月4日 - 1943年4月18日)は、新潟県出身の大日本帝国海軍の軍人。第26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将・正三位・大勲位・功一級。
ソロモン戦線で米軍の攻撃によって戦死するまで、太平洋戦争(大東亜戦争)前半の日本海軍の攻勢作戦、中でも真珠湾攻撃とミッドウェー海戦での総指揮に当たったことから、海外でも太平洋戦争の日本を代表する提督として広く知られる。
生涯
明治
1905年撮影
4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市東坂之上町3丁目付近)山本五十六人物紹介(山本五十六記念館HP)で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる#人物叢書山本(新装)1頁、#半藤、2011(平凡社)13頁。その時の父親の年齢から「五十六」と名付けられた(母親も45歳と高齢だった。これより山本姓に改名するまで「五十六」と表記する)#海燃ゆ15頁。当時は高野五十六。長岡町立阪之上尋常小学校、旧制新潟県立長岡中学校卒業。中学生時代に10歳年長の甥である高野力が病死、両親は「五十六が高野力に代わってくれれば」と発言し、五十六のトラウマとなったとされる#海燃ゆ34-36頁。既に軍人を目指し、「武士の家の子は武士になる」と語っていた#人間・山本121頁。五十六の兵学校志望は、父の妹の嫁いだ野村貞海軍少将から海軍の話をたびたび聞いていたのと、兵学校を目指したものの病弱では無理と諦めた高野力の影響が指摘される#人物叢書山本(新装)8-9頁。に海軍兵学校に200名中2番で入校(兵32期。兵32期の入校者は200名であったが、留年した生徒が15名加わり、215名で教育開始された)#人間・山本127頁、#人物叢書山本(新装)15頁。同級生に塩沢幸一、吉田善吾、嶋田繁太郎、堀悌吉など#人間・山本127頁、#海燃ゆ41頁。在学中に堀と親友になった#人物叢書山本(新装)21頁。日露戦争中の11月、海軍兵学校を192名中11番で卒業(兵32期)。#人物叢書山本(新装)22頁、少尉候補生として練習艦「韓崎丸」に乗船する#人間・山本140頁、#人物叢書山本(新装)23頁。1月に少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」配属となり、5月27日の日本海海戦に参加する#人物叢書山本(新装)25頁。この海戦において、公式記録や五十六本人の手紙によれば「敵砲弾の炸裂」により左手の人差指と中指を欠損、左大腿部に重傷を負う傷痍軍人徽章第一号である(水交会編『回想の日本海軍』原書房P330)、#海燃ゆ51頁、#人間・山本145-149頁。なお旧海軍関係者の間で負傷の原因は、「日進」の前部砲塔における砲身内早発である可能性が指摘されている#世界史・山本五十六211頁、野村實『山本五十六再考』中公文庫159-167頁。負傷時に着用していた軍服は、太平洋戦争勃発直前に山本から故郷の博物館に寄贈された#人間・山本152-153頁。左腕切断の危機から回復した五十六は#人間・山本153-157頁、#海燃ゆ55-56頁、軍人として順調に出世。防護巡洋艦「須磨」に5ヶ月、戦艦「鹿島」に5ヶ月、海防艦「見島」に4ヶ月、駆逐艦「陽炎」に4ヶ月と、各艦に勤務する#人物叢書山本(新装)31頁。艦の勤務と並行して、海軍砲術学校普通科学生として16ヶ月間、海軍水雷学校普通科学生として4ヶ月の教育を受けた#人物叢書山本(新装)32頁。卒業後、駆逐艦「春雨」、装甲巡洋艦「阿蘇」乗組みを経て三等巡洋艦(練習艦)「宗谷」に配属となる#海軍兵学校物語105頁、#人物叢書山本(新装)33頁。鈴木貫太郎宗谷艦長(後、総理大臣)は、同艦分隊長時代の五十六について後年回想している#人間・山本186-188頁、#人物叢書山本(新装)34頁。「宗谷」では37期少尉候補生訓練を行い、井上成美、草鹿任一、小沢治三郎、鮫島具重を指導した#人間・山本188-189頁、#人物叢書山本(新装)33頁。にアメリカに駐在、に海軍大学校乙種学生を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政と盟友になる#人間・山本192頁、#海燃ゆ59頁。この時生徒として山本から教えを受けた井上成美によれば、兵器学講座担当であった#海軍兵学校物語109頁。
大正
、両親が死去。五十六は夏季休暇を利用して母を看病している#人物叢書山本(新装)36頁。同年12月、海軍大学校に入学する#人間・山本200頁、#海燃ゆ62頁。在学中の、牧野忠篤子爵の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続する(→「山本家の相続」の節を参照)#人間・山本205頁、#海燃ゆ68-70頁。以後山本五十六を名乗る。12月、海軍大学校を卒業。その後腸チフスにかかり、療養中に発症した虫垂炎のため生命の危険に陥る#人物叢書山本(新装)38頁。大手術の末に回復し、故郷長岡で翌年6月頃まで休養した#人間・山本209-211頁、#海燃ゆ70-73頁。7月、海軍省軍務局員を勤めたのち、海軍教育本部第一勤務となった。この頃、友人から紹介された三橋礼子に一目惚れし、見合いを経て#海燃ゆ83-84頁8月31日に結婚した#人物叢書山本(新装)40頁、#海燃ゆ86-87頁。山本と礼子が知り合った経過は、周囲の手記と長男山本義正の証言の間に若干の相違がある#人物叢書山本(新装)39頁。カーティス・ウィルバー/' title='カーティス・ウィルバー (政治家)/' title='File:H78628 Isoroku Yamamoto.jpg|thumb|180px|1920年代後半、米国滞在中の山本。右は[[カーティス・ウィルバー (政治家)'>カーティス・ウィルバー'>カーティス・ウィルバー (政治家)/' title='File:H78628 Isoroku Yamamoto.jpg|thumb|180px|1920年代後半、米国滞在中の山本。右は[[カーティス・ウィルバー (政治家)'>カーティス・ウィルバー
4月5日にアメリカに駐在、ハーバード大学に留学した(~1921年5月5日)。米国の油田や自動車産業、飛行機産業に強い印象を受けている#海燃ゆ102頁、#世界史・山本五十六25頁。駐米海軍武官上田良武大佐(海軍航空開発の第一人者)の指導と影響が、航空機に着目するきっかけになった可能性がある#人物叢書山本(新装)74頁。
7月19日に帰国後、軽巡洋艦「北上」副長、続いて海軍大学校教官(軍政学担当)に転じる#人物叢書山本(新装)77頁、#海軍兵学校物語110頁。1年後、海軍大学校教頭に山本英輔(後、初代航空本部長)が着任、山本五十六の航空機観に影響を与えた#人物叢書山本(新装)78頁。教官任期後半で井上成美が甲種学生として入校、再び山本の講義を受けている#海軍兵学校物語111頁。、井出謙治大将と共に欧州・米国を視察した#人物叢書山本(新装)80頁、#海燃ゆ110頁。ロンドン滞在中に関東大震災が発生すると、山本は動揺する周囲に対し「日本人は偉大な民族であり、前より立派に復興する」と励ましている#人間・山本248頁。9月、霞ヶ浦航空隊付、12月に副長兼教頭に補された#人間・山本251頁、#人物叢書山本(新装)84頁。海軍省副官あるいは元帥副官の話が持ち込まれていたが、山本五十六の自身の希望と、山本英輔海軍中将の推薦により、砲術から航空へ転科している#人物叢書山本(新装)85頁。山本は航空初体験であったが、三和義勇(山本長官時代、連合艦隊参謀)を副長として、日本海軍の航空発展に深く関与するようになった#人間・山本252-253頁、#人物叢書山本(新装)94-95頁。
12月、駐米大使館付武官となって、再び米国に滞在する#世界史・山本五十六26頁。山本の航空隊在任は1年3ヶ月であったが、「天洋丸」に乗船して米国に向う山本の頭上を、航空隊の部下達が編隊を組んで見送った#人物叢書山本(新装)102頁。
昭和
航空と軍政
3月に帰国後、8月から軽巡洋艦「五十鈴」艦長を務め#人物叢書山本(新装)108頁、水雷学校での講義で将来の海軍は航空主兵となること、対米作戦では積極作戦をとりハワイを攻めるべきと発言している#人物叢書山本(新装)188頁、#世界史・山本五十六27頁。4ヵ月後に多段式空母「赤城」艦長#人間・山本273頁、#人物叢書山本(新装)109頁。着艦に失敗しそうになった飛行機に山本艦長自ら飛びつき、山口多聞中佐らと共に飛行甲板から落ちるのを防いだほど、航空に全力を注いだ#人間・山本274頁。11月、海軍少将に進級すると共にロンドン軍縮会議に次席随員として参加した#人間・山本300頁、#人物叢書山本(新装)54.112頁、#海軍の昭和史49頁。海軍随員であった山本と山口多聞中佐は軍縮案に強硬に反対(エピソードは後述)、日本側代表は混乱している#人物叢書山本(新装)56頁。結局、外交団代表は山本の意に反して軍縮条約に調印。海軍士官学校同期生(第32期)クラス会では、適任ではなかったと予備交渉における苦悩を語っている#海軍兵学校物語87頁。失意の山本が海軍を辞めるという噂さえ流れたという#人間・山本303頁、#海燃ゆ150頁。だが山本は立ち直り、末次信正軍令部次長に対し「劣勢比率を押しつけられた帝国海軍としては、優秀なる米国海軍と戦う時、先ず空襲を以て敵に痛烈なる一撃を加え、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出ずべきである。」と進言した#人間・山本303-304頁(原文のまま)。この軍縮条約を巡って海軍内に艦隊派と条約派という派閥争いが生じ、山本を含めた海軍の人事に大きな影響を与えた#海軍の昭和史38頁、#半藤、2011(平凡社)65-68頁。12月、海軍航空本部技術部長につくと航空主兵を強力に推し進めると同時に、未熟だった日本海軍航空機の発展に尽力した#人間・山本307-309頁、#人物叢書山本(新装)112頁。外国機の輸入と研究に積極的であったが「外国機の輸入は我航空科学技術の恥辱と思わねばならぬぞ。それは日本科学の試験台なのだ。若し国産機が外国機の単なる模倣に終わったら、欧米科学に降伏したものと思え、その替わり、それを凌駕する優秀機が作られたら、勝利は日本科学の上に輝いたと思え」と技術者達を激励している#人間・山本310-311頁(原文のまま)。山本の高い見識と指導力は、日本海軍の航空発展に大きく貢献した#海軍兵学校物語114頁、#人物叢書山本(新装)125頁。10月に第一航空戦隊司令官となり、空母「赤城」(塚原二四三艦長)に座乗した#人物叢書山本(新装)126頁。故郷長岡の希望者22名を「赤城」に招き、山本自ら艦内を案内したこともある#人間・山本329頁。
9月20日、山本は第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表として日本を離れた#人間・山本331頁、#海軍人事失敗研究174頁。対米強硬派の加藤寛治軍事参議官は「…見送盛也、但シ山本少シク上ボセ気味、大ニ托スルニ不足…」と日記に書いている#海軍人事失敗研究174頁。山本は政府の意を受けて「戦艦・空母の全廃、兵力量の各国共通制限設定」を主張し#海軍人事失敗研究166頁、列強交渉団と互角に渡り合う#海燃ゆ166,173頁。ただし、「戦艦・空母の全廃」は会議の決裂を日本政府が意図したものであり、山本が出発する直前の9月7日にワシントン海軍軍縮条約の破棄が決定している#人物叢書山本(新装)68頁。このような状況の元で欧米と交渉中、盟友の堀悌吉中将が予備役に編入される大角人事があって山本は気力を失い#海軍人事失敗研究175頁、また米国も条約締結について冷淡であり、結局予備交渉は中断した#海燃ゆ181-183頁。堀への手紙で山本は日本の対外強硬論への不満と苛立ちを語り#人間・山本337頁、#人物叢書山本(新装)69頁、また愛人への手紙にも「自分がただ道具に使はれたに過ぎぬやうな気がして」と述べ、「誠に不愉快である」と心境を明かしている#海燃ゆ201頁、#半藤、2011(平凡社)442-443頁。2月、シベリア経由で日本に帰国、東京駅に降りた山本を大角岑生海軍大臣、広田弘毅外務大臣、一般人多数が出迎えた#海燃ゆ185頁。山本は海軍を辞める意思を持ったが、堀に慰留された#人間・山本338頁、#半藤、2011(平凡社)85頁。山本はしばしば故郷長岡で休養し、母校の学生達と交流する。第二次ロンドン海軍軍縮会議に赴く永野修身軍事参議官から随行するよう要請されたが、先の予備交渉で懲りた山本は固辞した#人物叢書山本(新装)70頁。
同年12月、海軍航空本部長に任命される#人間・山本381頁。横山大観から絵の呈上の申し出があった際には、全力で勤務にあたるため芸術にひたる余裕なしと述べて断っている #人間・山本385-386頁、#海燃ゆ203-204頁。折りしも戦闘機無用論と空軍独立論が盛んとなっていた#人物叢書山本(新装)129頁。特に空軍独立論について、山本は日本陸軍が主導権を握ることを懸念して強硬に反対した#人物叢書山本(新装)131頁。のちに太平洋戦争の島嶼戦において、陸海軍航空隊の指揮権を統一する提案が出た際も、一貫して反対している#人物叢書山本(新装)132頁。
この頃、欧米列強は新世代戦艦(ポスト条約型戦艦)の開発・建艦を一斉に開始しておりキング・ジョージ5世級戦艦(英国)、ノースカロライナ級戦艦(米国)、ビスマルク級戦艦(ドイツ)、ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦(伊国)、リシュリュー級戦艦(仏国)、日本も大和型戦艦の建造計画をたてる。山本は大西瀧治郎航空本部教育部長と共に反対論を唱え、艦政本部と対立した。山本の航空主兵論と中村良三(大将/艦政本部長)の大艦巨砲主義論の対立は結論が出ず、伏見宮博恭王軍令部総長の仲裁で7月に高等技術会議で大和型2隻の建造が決定された#人間・山本383頁。なお大和型と同時にマル3計画において3万トン級正規空母翔鶴型航空母艦2隻の建造も決定している。
同年2月の二・二六事件では、反乱に賛同する海軍青年士官を一喝して追い返し、重傷を負った鈴木貫太郎侍従長のために医者を手配している#人間・山本524頁、#海燃ゆ209頁。岡田啓介総理大臣の救出にも米内光政横須賀鎮守府長官と共に関わったとされる#人間・山本391-392頁。二・二六事件における米内の対応を山本は高く評価し、後日永野修身海軍大臣が辞任する際、山本(海軍次官)は米内を後任海軍大臣として推薦している#海軍人事失敗研究203-204頁。
山本と三国同盟
1930年代末、米内光政と山本
11月25日、日独防共協定が締結、翌月12月1日に海軍次官に就任#人物叢書山本(新装)133頁。次官就任は永野修身海軍大臣の熱望によるもので、山本は永野を評価しておらず、あくまで航空本部長職を望んでいた#人間・山本393頁、#海燃ゆ210-211頁。山本と永野の仲がしっくりいかない事は、新聞記者達の間では周知の事実だったという#海軍の昭和史19-20頁。2ヶ月後広田弘毅総理大臣が辞職して廣田内閣は崩壊、林銑十郎総理による林内閣が成立し、山本は米内光政海軍大臣のもとで林内閣・第1次近衛内閣、平沼内閣と留任する#海燃ゆ220-223頁。米内の海軍大臣就任は永野の最大の功績の一つとされ、艦隊派としてワシントン海軍軍縮条約に反対・統帥権でも問題を起こしていた末次信正軍事参議官の大臣就任阻止と加藤寛治海軍大将の影響力を抑えるという一面もあった#海軍の昭和史21-23頁。この間、盧溝橋事件が発生して支那事変(日中戦争)に拡大#人物叢書山本(新装)139頁、第二次上海事変が起きると海軍航空隊も本格的に投入され、戦果をあげると同時に損害も出した#人物叢書山本(新装)141頁。山本は外交問題の処理に携わり、8月にナッチボルー・ヒューゲッセン駐華大使が日本軍機の誤爆で負傷した事件、12月に海軍航空隊が米砲艦を誤爆したパナイ号事件の解決に奔走する#人物叢書山本(新装)142頁。山本はジョセフ・グルー駐日大使に謝罪、同時に綿密な検証によって米国の誤解を解き、事件の余波を最小限に抑えている#人物叢書山本(新装)145頁。だが11月25日、米内海軍大臣は南シナ海の海南島を占領する計画を五相会議で提案、閣議了承される。海軍軍令部(古賀峯一次長、宇垣纏第一部長、草鹿龍之介第一部第一(作戦)課長)も賛同し、2月に海南島を軍事占領した。山本は米英の反発を招く事を懸念して反対したが、伏見宮軍令部総長の賛成により制止できなかったとされる#海軍人事失敗研究240頁。草鹿によれば日本の南方進出を見込んだ布石であったが、東南アジアに多数の植民地を持つ欧米列強との関係は一挙に悪化することになった#海軍人事失敗研究241頁。3月、米国で客死した斎藤博駐米大使の遺骨が米巡洋艦「アストリア」 (USS Astoria, CA-34) で礼送され、横浜港にて山本が受け取ったという#海燃ゆ235頁。4月、航空本部長を兼務した。
山本は日独伊三国軍事同盟の締結に対し、米内海軍大臣、海軍省軍務局の井上成美らとともに最後まで反対した人物である#海燃ゆ262頁、#海軍の昭和史143頁。この事から海軍条約派三羽鴉(海軍左派)とも言われているが#海軍人事失敗研究216頁、#日本海軍のこころ274頁、日本陸軍や外務省の提案に対して海軍の方針を示していただけで、対案を出すなど積極的姿勢を見せることはなかったという指摘もある#人物叢書山本(新装)148-149頁。山本達の反対理由は主に「米英との関係が悪化して支那事変解決が難しくなる」「日ソ開戦の場合ドイツは距離が遠すぎて援助・支援が期待できない」「条約で日本が損をする項目があるのではないか」「軍事同盟締結によりドイツ・イタリアに中国大陸の権益を要求される懸念がある」であった#半藤、2011(平凡社)88頁、#海軍の昭和史138頁。
一方、三国同盟賛成派は山本のイメージを悪化させるプロパガンダを展開し、また暗殺の風評を流した#人間・山本414頁、#海軍人事失敗研究244頁。山本は表面的には鷹揚に行動したが#人間・山本415-417頁、ひそかに遺書も書いている#人間・山本419頁、#世界史・山本五十六190頁、#海軍の昭和史147頁。私服の憲兵が護衛についた他、自宅に機関銃が備えられたこともあった#人間・山本420頁、#海燃ゆ265-266頁。山本は、三国同盟賛成と反英国・米国世論の盛り上がりは日本陸軍と内務省の合議による組織的なものと報告した#海軍人事失敗研究246頁。政治も世論も同盟締結に傾き、山本達は孤立していく。ところがノモンハン事件が起きて日本とソ連が軍事衝突を起こす中、8月23日、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結#海軍人事失敗研究250頁、#海軍の昭和史139頁。平沼内閣は『欧州情勢は複雑怪奇なり』の言葉を残して総辞職、日独伊三国同盟第一次交渉は頓挫した#半藤、2011(平凡社)100-101頁、#海軍とコミンテルン23頁。山本達は「(同盟締結の)芽だけを摘んで根元を刈り取らなかった」という指摘もある#海軍の昭和史183頁。
8月20日、 阿部内閣の発足時に、山本(中将/海軍次官)は連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する#人間・山本425頁、#海燃ゆ273頁。米内海軍大臣の後任には吉田善吾(前連合艦隊司令長官)が内定#海軍人事失敗研究252頁。山本は引き続き次官として吉田を補佐することを米内に望んだが、米内は山本が暗殺されることを恐れ、安全な場所(連合艦隊司令長官。軍艦長門の中)へ避難させる人事を行った#人間・山本428頁、#人物叢書山本(新装)155-156頁。「結果からみれば、情に流れた甘い人事は、米内の失点であった」という意見もある#海燃ゆ283頁、#勝つ戦略負ける戦略26頁。山本の後任住山徳太郎海軍次官と井上の後任阿部勝雄軍務局長は平凡な人物で、住山の後任豊田貞次郎海軍次官は次官在任後7ヶ月で商工大臣に転じ古賀峯一(第二艦隊長官)に「海軍を踏み台にして出世した」と嘆かれるなど、米内海相時代に比べ明らかに政治力が低下していた#海軍の昭和史155-158頁。温厚だけが取り柄で吉田海相を補佐できない住山に対し、山本は「海軍がだれが大臣、次官になろうと、根本政策、方針に変わりなく微動だにしない。住山が来たって同じで、その見本を示すためだ」と周囲に語っていたが、完全な見込み違いであった#海軍の昭和史185頁。石原莞爾は日中戦争の終結について山本海軍次官と協議すべく上京したが、数日の差で山本は連合艦隊司令長官に転出していたという#人間・山本425-426頁。
連合艦隊司令長官
連合艦隊司令長官は山本の本望ではなく、後の兵学校同期生会で「仮に手柄をたてて賞められるようなことがあっても、それは次官当時、油をためた手柄に勝ることはなかろう」と話している。だが、自宅で新聞記者を前に普段飲まない酒を飲み、最善の御奉公をするつもりだと決意と覚悟を語った#人間・山本428頁、#海燃ゆ284頁。幾度かの駐在経験からアメリカとの国力の違いも認識しており、4月11日の故郷・長岡中学校の講演で「伸びきったゴムは役に立たない。今の日本は上から下まで、全国の老人から子供までが、余りにも緊張し伸びきって、それで良いのか」と語りかけ、日本がアジアの真のリーダーとなるには20-30年かかると述べている#人間・山本407-408頁、#海燃ゆ275-277頁。だがアメリカとの戦争は無謀と知りつつ海軍軍人・連合艦隊司令官としてアメリカを仮想敵とした戦略を練り、福留繁聨合艦隊参謀長にハワイ奇襲作戦について語ったこともある#海燃ゆ288-289頁。、第二次世界大戦緒戦でナチスドイツはフランスを含めヨーロッパ全域を掌握する。同年2月下旬の手紙で山本は三国同盟について「唯あんな同盟を作って有頂天になった連中がいざと云う時自主的に何処迄頑張り得るものか問題と存じ候。当方重要人事異動の匂いあり唯中央改善と艦隊強化も得失に迷いあり候」と懸念していた#人間・山本443頁、#海燃ゆ298頁。山本の憂慮とは裏腹に日本はドイツへの接近を強め、日本海軍も親独傾向を強めていた#海軍の昭和史181頁、#半藤、2011(平凡社)112-113頁。7月22日、米内光政首相の米内内閣は総辞職して第2次近衛内閣が成立する#海軍とコミンテルン25頁。9月5日、山本や米内以上に三国同盟に反対し、陸軍参謀本部の「機密戦争日誌」に『対独交渉進マズ、海軍大臣ニテ研究中ナリト、嗚呼』とまで孤軍奮闘した吉田善吾海軍大臣が、極度の疲労と神経衰弱により辞任#人物叢書山本(新装)153頁、#半藤、2011(平凡社)114頁。海軍省と軍令部の省部合同会議では、総論として三国同盟締結に傾き、9月15日の海軍首脳会議にて伏見宮博恭王軍令部総長の「ここまで来たら仕方ないね」発言により調印に賛成の方針が決定した#半藤、2011(平凡社)125頁、#海軍とコミンテルン28頁。会議直前、山本は及川古志郎海軍大臣から機先を制されて賛成するよう説得され、会議では殆ど発言しなかったので、司会役の豊田貞次郎海軍次官により『海軍は三国同盟賛成に決定する』が正式な結論となる#海軍の昭和史197頁。山本は条約成立が米国との戦争に発展する可能性を指摘して、陸上攻撃機の配備数を2倍にすることを求めたのみだった#海軍とコミンテルン29頁、#海軍人事失敗研究282頁。山本は堀に「内乱では国は滅びない。が、戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客顛倒もはなはだしい」と言い残して東京を去った#半藤、2011(平凡社)127-128頁。2ヶ月後の9月27日、日本は日独伊三国同盟に調印した#海燃ゆ300頁。
三国同盟の締結、日本海軍の海南島占領や北部仏印進駐などにより、日本と米国・英国の関係は急速に悪化していった#半藤、2011(平凡社)130頁、#海軍とコミンテルン314頁。当時の総理大臣であった近衛文麿の『近衛日記』によると「余は日米戦争の場合、(山本)大将の見込みの如何を問ふた処、それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」(原文のまま)と発言している世界文化社『ビッグマンスペシャル・連合艦隊上巻・勃興編』より抜粋。1997年刊。#人間・山本445頁。井上成美は戦後この時の山本の発言について「優柔不断な近衛さんに、海軍は取りあえず1年だけでも戦えると間違った判断をさせてしまった。はっきりと、『海軍は(戦争を)やれません。戦えば必ず負けます』と言った方が、戦争を回避出来たかも知れない」と批判的な意見を述べている#海軍の昭和史198頁、#米内と山本は愚将だった120頁、#吉田指揮官68頁。後に嶋田繁太郎海軍大将に宛てた山本の手紙には近衛との面会について
「随分と人を馬鹿にしたる如き口吻にて現海軍の大臣と次官とに対し不平を言はれたり 是等の言分は近衛公の常習にて驚くに足らず。要するに近衛公や松岡外相等に信頼して海軍が足を地からはなす事は危険千万にして誠に 陛下に対し奉り申訳なき事なりとの感を深く致候御参考迄」
と酷評している#人間・山本447頁、#海燃ゆ307-308頁(原文のまま)。
同時期、山本を訪問した反町英一に、秋には引退して故郷に戻りたいと語っている#人間・山本449-450頁。11月10日の宮城で行われた紀元二千六百年記念行事には、蒋介石率いる中国軍から宮城を空爆されるのを防ぐとの理由で参加しなかった#人間・山本448-449頁、#海燃ゆ305-306頁。
1月7日、及川古志郎海軍大臣への書簡「戦備ニ関スル意見」には『(真珠湾攻撃構想は)既に昨年11月下旬、一応口頭にて進言せる所と概ね重複す』とあり、1940-1941年初頭にかけて山本が真珠湾攻撃を検討していたことが窺える#世界史・山本五十六22頁、#海軍人事失敗研究291-292頁。及川への書簡では、山本自身が航空艦隊司令長官として攻撃部隊を直率、連合艦隊司令長官には米内光政を期待している#人物叢書山本(新装)191頁、#世界史・山本五十六23-24頁。書状には「大臣一人限御含迄」とあり、伏見宮軍令部総長には伏せていた#太平洋戦争の提督たち58頁。堀への手紙によれば及川は米内連合艦隊長官人事に同意したが、井上成美の反対で潰されたという#人物叢書山本(新装)191頁。一方、真珠湾攻撃の作戦立案は大西瀧治郎第十一航空艦隊参謀長と源田実第一航空戦隊参謀に一任された#人物叢書山本(新装)193頁、#太平洋戦争の提督たち59頁。1月24日、笹川良一衆議院議員に『日米開戦に至らば己が目ざすところ、素よりグアム・フィリピンに非ず、はたまたハワイ・サンフランシスコに非ず、実にワシントン・ホワイトハウスの思ならざるべからず。当路の為政家果たして此本腰の覚悟と自信ありや』と語った#人物叢書山本(新装)130頁、#海軍人事失敗研究293頁。
4月、地方長官会議で東京に集まった全国道府県長官・知事を旗艦「長門」に招き、「イザ戦う時には水平線の彼方に敵艦隊の煙が見える前に、撃滅してしまう決心である」「私はつねに艦隊の最先頭の旗艦の艦橋にあって指揮する。これは日本海軍の伝統なのです」と演説し、国民に向けた最後の言葉となった#海軍の昭和史373頁。6月、自らを「昭和の相模太郎(北条時宗)」になぞらえ、「雄大なるドイツの大作戦、ああ壮なる哉」と賞賛する#山本と黒島91.96頁。9月12日、再び近衛首相に日米戦の見通しについて語り、前年9月の会見と同様内容を答申しつつ、戦争になった場合は山本自らが飛行機や潜水艦に乗って1年から1年半は存分に暴れてみせると述べた#勝つ司令部負ける司令部31-32頁。
山本は米国と戦う準備を進めた。勝利のためには航空機増産しかないとの信念に従って、当時最新鋭の零式艦上戦闘機と一式陸上攻撃機各1000機増産を求めるが、軍令部第一部長宇垣纏少将に拒否された#世界史・山本五十六31頁。当時連合艦隊参謀長だった福留繁少将によれば、大和型戦艦3・4番艦(信濃と111号艦)の建造を中止させて航空機優先の生産体制をつくるため、連合艦隊参謀長に伊藤整一少将を、福留を軍令部第一部長にする人事を行った#勝つ戦略負ける戦略36頁、#生出・源田169頁。宇垣は8月になって連合艦隊参謀長に補せられ、山本直属の部下として勤務することになる(山本、宇垣、黒島を巡る対立は後述)。
10月12日、近衛首相私邸で荻外荘会談が行われ、及川と海軍首脳は優柔不断な応答に終始、山本は「乃公が当局者であったら、海軍は正直に米国に対し最後の勝利はないというネ」と批判した#海軍とコミンテルン316頁。
10月19日、軍令部に黒島亀人連合艦隊先任参謀を派遣し「真珠湾攻撃が認可されなければ、連合艦隊長官を辞任する」と主張し、作戦を認可させた#勝つ戦略負ける戦略33頁、#太平洋戦争の提督たち60頁。嶋田繁太郎海軍大臣に対する10月24日の書簡でも「開戦劈頭有力な航空兵力によって敵本営に斬り込み、米海軍をして物心ともに当分起ち難いまでの痛撃を加えるほかなしと考えることに立ち入った次第です」と述べ、山本の決意を知った嶋田はハワイ奇襲攻撃作戦に許可を出している#ニミッツと山本11-13頁、#世界史・山本五十六22-23頁。しかし、南方での持久作戦を推奨する軍令部や、伝統的な洋上艦隊決戦を重視する多くの海軍軍人と山本の間には溝があった#人物叢書山本(新装)201-202頁。また山本の心中は、故郷長岡で余生を過ごしたいという思いと、戦争になれば活躍して『さすがは五十サダテガンニ』と言われる事はしたいという思いに揺れていた#海燃ゆ313頁、#勝つ戦略負ける戦略30頁。11月下旬から12月上旬にかけて、家族や親しい人々にそれとなく別れを告げた#人間・山本457-458頁、#半藤、2011(平凡社)26-27頁。11月3日に嶋田海軍大臣と面会、「長門」に戻ったあと宇垣らを連れて7日から11日まで再び東京へ出張し、軍令部や陸軍と作戦の打ち合わせを行う#乾坤一擲193-194頁。13日、呉にて各艦隊指揮官に大海令第一号を伝え、X時が12月8日であることを明かす#乾坤一擲195頁。
真珠湾攻撃に対しては、宣戦布告を事前に行うことを軍令部に対し念押ししていた#半藤、2011(平凡社)194-195頁.234-236頁。12月2日に上京した際にも軍令部に何度も確認している#半藤、2011(平凡社)244-245頁。なお、南雲機動部隊がハワイに向けて航行中の11月30日、高松宮宣仁親王(海軍参謀)が兄の昭和天皇に米国との戦争を避けるよう直訴した#乾坤一擲12頁。親王の行動は山本の意向によるもので、山本が参内したうえで天皇の聖断による対米戦回避を仰ぐ計画だったという解釈もある#乾坤一擲218-219頁。親王の進言に驚愕した天皇は東条英機総理大臣、木戸幸一内大臣、永野軍令部総長、嶋田海軍大臣を呼んで相談したが、4人は真珠湾攻撃は予定通り実行すると返答、天皇も了承した#乾坤一擲227-230.276頁。12月3日、天皇に拝謁して勅語を賜る#乾坤一擲284-285頁。城英一郎侍従武官が山本の奉答文を届けると、天皇は三度読み返し「御満足の様子に拝す」だったとされる。
太平洋戦争
緒戦の快進撃
1941年頃
太平洋戦争開戦後、真珠湾攻撃やマレー沖海戦など、戦争初期における快進撃により、山本は英雄として扱われる。だが米太平洋艦隊の排除や南方資源確保を行う第一段作戦が完了した後、その後の展望(第二段階作戦~戦争終結)について、山本を含め日本海軍は確固たる方針を持っていなかった#半藤、2011(平凡社)269頁、#世界史・山本五十六126頁。艦隊決戦(機動部隊決戦)で勝利すれば、講和の機会が訪れる以上の考えはなかったとされる#人物叢書山本(新装)179頁。軍令部は米豪分断作戦を、山本の連合艦隊司令部は当初インド洋作戦を主張し、軍令部に却下されるとハワイ攻略作戦へと重点を移す#海燃ゆ357-358頁、#半藤、2011(平凡社)277-278頁。山本は桑原虎雄少将に対し日本大幅譲歩による講和への希望を語ったが「結局、斬り死にするほかなかろう」と政治への失望を語っている#吉田 大和と武蔵160頁、#千早インタビュー24頁。一方で藤井茂参謀によれば、山本に中央に戻って軍政で活躍して欲しいとの熱望が諸方面から寄せられており、藤井も山本の資質を軍政向きと見ていたが、実現することはなかった#人間・山本475-477頁、#海燃ゆ350頁。4月18日、米軍はドーリットル空襲により日本本土初空襲に成功、昭和天皇のいる東京を爆撃されたことで山本は動揺する#海燃ゆ355,359頁、#勝つ戦略負ける戦略113頁。5月8日、史上初の機動部隊決戦となった珊瑚海海戦で日本軍は辛勝、山本は「珊瑚海でもはじめは相当苦戦しましたが結局は実力に物を云はせて押切つたわけでした」と知人に語る#海燃ゆ371頁。珊瑚海海戦で日本艦隊を総指揮した井上成美(第四艦隊長官)については、部下が井上を罵倒するのを制することはなく#人物叢書山本(新装)220頁、堀への手紙でも「戦はあまりうまくない」と評した#勝つ戦略負ける戦略93頁。
山本は、米国が圧倒的国力で軍備を整える前に戦争の決着をつける必要に迫られていた#吉田 大和と武蔵161頁。5月下旬、日本海軍は総力をあげてミッドウェー作戦を発動。近藤信竹第二艦隊長官、井上成美第四艦隊長官、草鹿龍之介機動部隊参謀長、山口多聞第二航空戦隊司令官など多くの高級将校が作戦の再考や延期を求めていたが、山本や黒島亀人ら連合艦隊司令部が聞き入れることはなかった#海軍の昭和史342-343頁。
6月、ミッドウェー海戦において、日本軍は南雲機動部隊の主力空母4隻と重巡洋艦1隻、航空機285機を喪失する大敗北を喫する。かつて山本が艦長を勤めた空母「赤城」も沈没、周囲の期待も厚かった山口多聞少将も戦死した。山本は完成したばかりの戦艦「大和」に座乗して機動部隊後方を航海し、米軍とは全く交戦しなかった#人物叢書山本(新装)224-225頁。戦艦群(特に低速の伊勢型戦艦・扶桑型戦艦)が作戦に加わったことについて、山本は事前の作戦会議で「情だよ」と答えている#吉田 大和と武蔵166頁。この海戦における山本と連合艦隊司令部の作戦準備と指導には、後述のように批判が多い#世界史・山本五十六197頁、#太平洋戦争の提督たち47頁。
日本へ帰還後の作戦研究会では「屍に鞭打つ必要なし」として、大敗北の責任の追及や敗因研究が行われることはなかった#勝つ戦略負ける戦略139-140頁、#吉田 大和と武蔵102,176頁。海軍中央は敗戦の情報を隠蔽、昭和天皇すら当初は本当の損害を知らなかったとされる#半藤、2011(平凡社)358-360頁。7月12日、山本以下連合艦隊司令部参謀達(宇垣は参加せず)は料亭で宴会を行い、着任したばかりの土肥一夫少佐によれば一同何事もなかったかのように陽気だったという#勝つ戦略負ける戦略49-50頁。
ガダルカナル島の苦戦
8月、米軍はガダルカナル島に来襲して日本軍の飛行場を占領、ガダルカナル島の戦いがはじまる#海軍人事失敗研究32頁。8月17日、「大和」に座乗する山本は『あと百日の間に小生の余命は全部すりへらす覚悟に御座候』の覚悟で日本を出撃した#吉田 大和と武蔵177頁、#海燃ゆ396頁。故郷への手紙より。。8月28日、前線拠点トラック島に進出し、連合艦隊司令部にて作戦立案と指導を行う。山本は「大和」の甲板から最前線へ向う駆逐艦や潜水艦を見送り、乗組員達は山本の姿に感激したという#吉田 大和と武蔵179-180頁。だが、厳しい戦いの中でトラック泊地から動かない「大和」や「武蔵」は「大和ホテル」「武蔵屋御殿」と揶揄されるようになる#勝つ戦略負ける戦略119頁。山本と共に航空主兵を主張した大西瀧治郎少将も、この頃になると「大和」から動かない山本を痛烈に批判するようになっていた#勝つ戦略負ける戦略120-121、228頁。ガダルカナル島の戦い苦戦の一因となったガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を破壊すべく、山本は戦艦「大和」「陸奥」を率いて最前線に赴くことを検討し#吉田 大和と武蔵184頁、#半藤、2011(平凡社)380頁、辻政信陸軍大本営参謀にも同様の返答をしたが#勝つ戦略負ける戦略187-188頁、諸事情により取りやめとなった#海燃ゆ404頁、#怒りの海47頁。親友の堀には『当方一向面白からず。敵には困らぬが味方には困る』と訴えるなど、日本海軍と日本陸軍の対立、中央政府の楽観的な姿勢に悩んでいた#海燃ゆ405頁。
また新潟県出身兵で構成された第二師団新発田歩兵第十六連隊がガダルカナル島で全滅した時には『十六連隊の事は残念至極、連隊長大隊長の補充に行く者郷里より来信あり。会稽の恥を雪げと鞭撻し置きたるが恐らく生還はなし得まい。自分もガ島が奪還できなければ郷里へ帰れぬ。宜敷頼む』と宇垣纏に笑いながら語ったが、宇垣は山本の本心であろうと述べている#海燃ゆ410頁。だが11月中旬の第三次ソロモン海戦で連合艦隊は戦艦「比叡」「霧島」を喪失、山本は精神的に追い詰められていった#海燃ゆ413-416頁。この海戦直前に今田以武生(連合艦隊軍医長)が「大和」を退艦、いつ日本で会えるかと聞くと、山本は「来年五月」と明言したという#吉田 大和と武蔵192頁。
戦死(海軍甲事件)
1月、大本営はガダルカナル島からの撤退方針を決定する。山本は「動ける駆逐艦全てを投入、半数を失うかもしれぬ」という覚悟でガダルカナル撤退作戦(ケ号作戦)に臨み、駆逐艦1隻沈没、数隻損傷と引き換えに兵士1万600名余の救出に成功した#半藤、2011(平凡社)407頁。その後も、南方の島々を巡って米軍との激しい戦闘が続く。2月12日、山本は「大和」から姉妹艦「武蔵」に連合艦隊旗艦を変更し、将兵は「武蔵と山本がいれば戦争に勝てる」と信じていた#海燃ゆ423-425頁。この頃、ニューギニアやラバウルの戦線を縮小し、カロリン諸島からマーシャル諸島にかけて陸上基地を整備、ここで米軍を食い止めるという方針を決めた#半藤、2011(平凡社)422頁。
4月、い号作戦に関連して南方の前線視察に赴いた。前線視察は宇垣纏連合艦隊参謀長の発案で、小沢治三郎中将/第三艦隊司令官と草鹿任一中将/南東方面艦隊の統一指揮問題や、日本陸軍との面子や主導権争いが絡んでいたとされる#人物叢書山本(新装)259頁、#世界史・山本五十六289-291頁。山本はハワイで指揮をとるチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官を引き合いに出しニミッツは激戦が続くガダルカナル島に赴き、米軍将兵を激励している。、後方の戦艦「武蔵」で指揮をとることを望んだが、宇垣に説得された#人物叢書山本(新装)258頁、#世界史・山本五十六288頁。
山本の前線視察には様々な解釈があり、高松宮親王や司馬遼太郎は決死の覚悟で前線視察に赴いたのではないかと推測している#海燃ゆ415.448-449頁。半藤一利は、捨て石となるソロモン諸島の兵士達に別れを告げるための訪問と述べている#半藤、2011(平凡社)427頁。ラバウルに到着すると山本到着の噂はたちまち広がり、甥の高野五郎(陸軍少将、軍医)は海軍司令部を訪問して山本と面会した#海燃ゆ439-440頁。
一方、米軍は日本軍の暗号を分析・解読し、山本個人に目標を絞っていた#世界史・山本五十六292-295頁。特に4月13日の巡視計画電報について、城島高次第十一航空戦隊司令官は「前線に、長官の行動を、長文でこんなに詳しく打つ奴があるもんか」と憤慨している#海燃ゆ446頁。米軍が解読した暗号は、4月17日に「武蔵」から発信された電文とされる#海燃ゆ454頁。小沢第三艦隊長官は、山本機と宇垣機の護衛戦闘機が少ないことを危惧し、黒島亀人先任参謀に護衛機を50機増やす事を宇垣に伝えるよう託した#海燃ゆ447頁、#勝つ戦略負ける戦略232頁。黒島はデング熱で体調が悪かった宇垣参謀長に伝えなかった#山本と黒島312頁、#死に往く長官 上128頁。
4月18日午前6時、山本を含めた連合艦隊司令部は第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機2機に分乗してラバウル基地を発進した#海燃ゆ459頁。山本は1号機、宇垣は2号機に搭乗する。零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊P-38ライトニング16機に襲撃・撃墜され戦死した(海軍甲事件)。公式には機上で即死したと記録されているが、後述のように異論もある#海燃ゆ472-473頁。遺体はラバウルで火葬に臥され、木箱の底にパパイヤの葉を敷いた骨箱におさめられた#海燃ゆ482-483頁。遺骨はトラック諸島に一旦運ばれて、その後内地に帰還する戦艦「武蔵」によって日本本土に運ばれた。遺族には4月20日夕刻に嶋田繁太郎海軍大臣と秘書官麻生孝雄少佐が戦死を告げている#海軍の昭和史351頁。
山本の死は一ヶ月以上秘匿され、5月21日の大本営発表並びに内閣告示第8号官報号外 昭和18年5月21日付 国立国会図書館デジタルアーカイブ参照で公になった#太平洋戦争の提督たち75頁。新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けている#海燃ゆ491-493頁、#太平洋戦争の提督たち75-76頁。
同年6月5日、日比谷公園で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政が務めた。また、ナチスドイツより剣付柏葉騎士鉄十字章を授与(5月27日授与)される。この勲章の受章者は160名しかおらず、山本は唯一の外国人受章者である。朝日新聞社は『元帥山本五十六傳』を刊行、斉藤茂吉や佐藤春夫を始め多くの詩人が追悼の詩歌を寄せ、7万部を刷った#太平洋戦争の提督たち76頁。
なお、山本は歴代の連合艦隊司令長官で唯一の戦死者(山本の後任長官の古賀峯一大将は殉職扱い)である。
戒名は大義院殿誠忠長陵大居士。東京都府中市の多磨霊園7番特別区に埋葬された。墓石は茨城県産出の真壁小目で建立されている。右には東郷平八郎元帥の墓、左には古賀大将の墓が並び、墓石の文字は米内が書いた#人物叢書山本(新装)277頁。その後、遺骨は新潟県長岡市の長興寺に改葬されているが、山本を偲ぶ廟は多摩霊園に現存している。
年譜
- 11月14日 - 海軍兵学校を卒業。海軍少尉候補生。
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- 8月5日 - 海軍砲術学校普通科学生。
- 9月28日 - 任海軍中尉。
- 12月16日 - 海軍水雷学校普通科学生。
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- 10月1日 - 練習艦「宗谷」分隊長心得。
- 10月11日 - 任海軍大尉。「宗谷」分隊長。
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- 2月1日 - 37期少尉候補生訓練のため豪州へ遠洋航海に出発。7月2日、日本に戻る。
- 12月1日 - 海軍大学校乙種学生。
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- 5月22日 - 海軍大学校乙種学生教程卒業。海軍砲術学校高等科学生。
- 12月1日 - 海軍砲術学校高等科学生卒業。海軍砲術学校教官兼分隊長、海軍経理学校教官。
- 1912年(明治45年/大正元年)- 佐世保予備艦隊参謀→軍艦「新高」砲術長
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- 5月27日 - 横須賀鎮守府副官兼参謀
- 12月1日 - 海軍大学甲種学生。
- - 牧野忠篤子爵の口添えがあり山本家を相続(→「山本家の相続」の節を参照)。
- 12月13日 - 任海軍少佐。
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- 9月20日 - 山本と改姓の旨届出
- 12月1日 - 第二艦隊参謀。
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- 7月21日 - 海軍省軍務局々員
- 7月27日 - 海軍教育本部々員、海軍技術本部技術会議々員
- 8月 - 結婚願届出、認可。
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- 5月5日 - 帰国を命ず。7月19日、横浜着。
- 8月10日 - 軍艦「北上」副長。
- 12月1日 - 海軍大学校教官。
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- 6月20日 - 欧米各国へ出張を命ず。30日、海軍軍令部出仕。
- 12月1日 - 任海軍大佐。
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- 3月31日 - 横浜帰着。
- 6月17日 - 特務艦「富士」勤務反町著では艦長。実際は運用研究。。
- 9月1日 - 霞ヶ浦海軍航空隊附。
- 12月1日 - 霞ヶ浦海軍航空隊副長。
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- 1月7日 - 霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭。
- 12月1日 - 米国在勤帝国大使館附武官となる。翌年1月7日出発。
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- 7月28日 - ワシントン国際無線電信会議に参加。
- 11月15日 - 帰国を命ぜられ、翌年3月5日帰朝。
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- 9月1日 - 海軍航空本部出仕。
- 12月1日 - 海軍航空本部技術部長、兼海軍技術会議々員
- 10月3日 - 第一航空戦隊司令官。
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- 9月7日 - ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表に任ぜらる。
- 11月15日 - 任海軍中将。
- 12月1日 - 永野修身海相に引き抜かれ海軍次官に抜擢される。
- - 米内光政海相のもとで次官留任。
- 4月25日 - 11月15日 海軍航空本部長(海軍次官兼任)。
- 8月30日 - 連合艦隊司令長官(第一艦隊司令長官兼任)に親補される。
- 11月15日 - 任海軍大将。
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- 4月4日 - 勲一等加綬旭日大綬章、功二級金鵄勲章
山本五十六の評価
肯定的な評価
- 兵学校卒業時に教官より「もっと喋れ」と注意され、自身に対しても「温にして直」と戒めている。しかし、知己には明るく冗談好きで、上の人とはしっかり付き合い、下の者に対しては人情味があり礼儀正しく、面倒見もよかったので同僚や部下からの信頼が非常に高かった。
- 当時の欧米事情に詳しく、日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対していた。
- 大艦巨砲主義が趨勢の中、いち早く航空機に着目し、陸上機爆撃機を加えた海軍航空隊の育成に尽力した。
- 日米開戦が開始されると「短期決戦・早期和平」という日米間に於ける国力の差を冷静に分析した現実的な作戦計画を実施しようとした。
等、太平洋戦争当時の旧日本海軍軍人の中では数少ない、傑出した名将としての評価は今日でも高く、戦後になっても評価は変わらない。特に海軍航空技術部長・本部長時代の航空隊育成、当時の潮流だった対米英強硬論・親ドイツ論と日独伊三国軍事同盟への反対(海軍次官時代)は、山本の先見性の高さを示している#半藤、2011(平凡社)430-431頁。山本に結婚式の仲人をして貰った奥宮正武(中佐、第二航空戦隊参謀等)は「任務に忠実、自らに厳しく他人には寛大、エチケット、表現しづらい多くの要素」が一体となって山本の人格を形成し、太平洋戦争当時の日本海軍の中では最高の指揮官と評価し#世界史・山本五十六322頁、駆逐艦「舞風」艦長としてミッドウェー海戦に参加した中杉清治は「我々のような凡庸な人間が考えつかない遠くを見ていた、底のしれない人だった」と述べている#亀井戦記17頁。亀井の取材に。。角田求人(連合艦隊司令部付参謀、戦史叢書執筆者)は「山本は傑出した人物」と述べ、山本の研究に長岡藩はかかせないと語った#亀井戦記55頁。亀井の取材に。。源田実(南雲機動部隊航空参謀)は、亀井宏が『ミッドウェー戦記』の執筆にあたって電話で取材を試みると「(山本の)偉さについて語るにも時間が要る」と電話取材を断り、直接取材をするよう求めている#亀井戦記59頁。亀井の取材に。。山本の盟友堀悌吉は山本戦死の報を受けて「一将一友を失いしを惜しむのときにあらず。ただ、この人去って、再びこの人なし」と高木惣吉海軍少将に答えた#吉田 大和と武蔵147頁。
また、敵であったアメリカ側からも山本五十六を賞賛する意見が多い。とりわけ、太平洋艦隊司令長官だったチェスター・ニミッツは、い号作戦での前線視察の予定を暗号解読で知ったとき「山本長官は、日本で最優秀の司令官である。どの海軍提督より頭一つ抜きん出ており、山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」と判断し、殺害計画を実行させたほどである「提督ニミッツ」E.B.ポッター著、南郷洋一郎訳、フジ出版社刊。
彼の教育者としての側面は現在でも高く評価され、彼の遺訓である「男の修行」は、警察予備隊、保安隊、そして自衛隊各教育隊の教育方針として引き継がれている。
否定的な評価
- 軍令部の作戦計画を退け、連合艦隊主導の攻勢作戦を立案し実施した。
- 機材・人材の補給継続の困難な航空機を主体とする独断専行の攻勢作戦の長期化は国力の限界を超えるものとなった#海軍砲戦史談269頁。吉田俊雄は防弾能力を軽視した日本軍航空機の設計(特に九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)を例に出し、山本を含めて航空要職の者が航空戦の本質を知らず、バランス感覚もなかったとしている#海軍の功罪43-44頁。
- 真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に見られる様にその作戦計画は、投機的な危険を伴う作戦であった。真珠湾攻撃では、浅い海だったため沈んだ米戦艦はすぐに浮揚修理され、また米空母の捕捉にも失敗した#海軍砲戦史談268頁。ミッドウェー海戦では、作戦準備にかけられる時間が不足していた上に、作戦指導と連携の失敗により正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失った。
- 淵田美津雄は、山本が戦艦「大和」を遊兵化させ、安全な戦線後方に温存したことを厳しく批判した#淵田自叙伝169頁、179-180頁。さらに、「い号作戦」で圧倒的物量を持つ米軍相手に航空消耗戦を挑み、再建したばかりの空母機動部隊搭乗員をさらに消耗させたことを「山本五十六凡将論」の根拠としている#淵田自叙伝210-211頁。ミッドウェー作戦で、連合艦隊旗艦「大和」が出撃して南雲機動部隊の後方を無為に航行したことを批判する海軍関係者は多い。例えば中島親孝(連合艦隊情報参謀)は、日本戦艦として比較的高速の「大和」と金剛型戦艦を先頭に立たせれば戦艦の価値を発揮できたとし「空母機動部隊の価値も、米軍のそれを見せつけられるまで、ほんとうには悟れなかったのではあるまいか」と述べた#良い参謀良くない参謀259頁。
- 日米の国力差を考えた時、政府が大戦前に計画した南方方面を主軸とした長期的な作戦(南方資源の確保と漸減邀撃を主軸とした防衛・持久戦の構え)では、国力に勝る米国には勝てないと考え、太平洋を主軸とした短期決戦型の作戦を立案し実行していったが、調整不足のため陸海軍間の共同作戦や海軍内部での意思統一にも歪みを生じさせ、政府が当初考えていた戦線を大幅に拡大させる事態を招いた。“真珠湾のだまし討ち”に対するアメリカ国民の反感は予想以上に大きく、戦争をどう終わらせるかという見通しを見出せぬまま、攻勢終末点を越える広大な太平洋でエンドレスに作戦を展開せざるを得ない事態を生んだ。これによって当初の目論見とは逆に国力(消耗戦・補給戦)による戦いに巻き込まれ、国力が小さい日本にとってより不利な条件で戦争を継続しなければならない状況を生んでしまった。
- 米軍の侵攻への防衛戦となってからは戦況推移に沿った指揮とは言えない。また真珠湾攻撃後の南雲機動部隊を西太平洋・インド洋方面に転用したことで、米軍に衝撃から立ち直る時間を与えてしまった#プランゲ下230頁。ニミッツはプランゲとのインタビューで、この時間が最大の助けになったと語っている。
1940年頃、作戦検討中の山本と幕僚(左から宇垣纏参謀長、山本、藤井茂、渡辺安次)
- 山本は情の厚い人物だったが、人物を己の好き嫌いで分ける傾向があった#吉田 大和と武蔵39頁、#太平洋戦争の提督たち67頁。好きな人物には肝胆相照らす親密さを見せるが、嫌いな人物には必要最低限の事しか喋らず、それが公務にも及んだ#吉田指揮官62頁。また人材の多様化に消極的であった。
- 山本の人の好き嫌いが極端に現れた例として、黒島亀人(連合艦隊先任参謀)と宇垣纏(連合艦隊参謀長)の関係を指摘する例は多い#吉田指揮官69-70頁。山本は他の参謀・幕僚とは違う観点から意見をのべる黒島を重用し、自身の戦死の寸前の頃まで4年間も黒島を手元に置いた#海軍の功罪35頁、#山本と黒島202頁。逆に宇垣は連合艦隊司令部の中で孤立していた#勝つ戦略負ける戦略37-38頁、#吉田 大和と武蔵154頁、#生出・源田171頁。着任挨拶に訪れた松田千秋大和艦長に宇垣は「おれは参謀長だけどね、ここではただぼんやりしているだけだ。戦は山本さんと黒島でやっているんだよ」とわびしげに答えている#生出・源田170頁。
- 山本の黒島重用を懸念する意見は当時からあった。「同じ参謀が作戦を練っていたのでは、手の内が見破られる」との忠告に山本は「黒島は独創的なアイデアを出すので手放せない」「黒島は俺の言ったことに反対する奴だ」と断り#山本と黒島68頁、#亀井戦記54頁、あるいは「黒島のような人物がいないと天下の大事は成し遂げられない」とかばった事がある#人間・山本485頁、#山本と黒島69-70頁、#海軍驕り409-410頁。三和義勇『山本元帥を憶ぶ』からの孫引き。。千早正隆は、山本が宇垣参謀長を経由せず直接黒島に指示することで司令部の命令系統が崩壊し、黒島と渡辺安次(もう一人の寵児)が専横することになったと指摘している#海軍の功罪256-257頁、#海軍驕り121頁。中沢佑海軍中将も、信頼すべき人物を誤ったと指摘している#吉田 大和と武蔵196頁。ただし、山本は戦死の直前、「黒島を他の者に代えようと思う。誰が良いと思うか」と小沢治三郎と草鹿任一に相談していた#山本と黒島295頁、#海軍の功罪261頁(千早正隆談)。小沢は宮崎俊男大佐を推薦したが#山本と黒島304頁、#吉田 大和と武蔵197頁、山本はあまり乗り気ではなかったという#吉田 大和と武蔵200頁。
- 山本は、山本の親友であり同期生である堀悌吉中将を予備役に追いやった南雲忠一中将(当時大佐、軍令部課長)に対しても好印象を持っておらず、南雲が第一航空艦隊司令長官に任命された時には「南雲の水雷屋が」と悪態をついている#従兵長41、79頁。真珠湾攻撃の際には「南雲は1回で引き返してくるだろう」と「長門」艦橋で独り言をつぶやいた#海燃ゆ382頁、#従兵長83頁。南雲機動部隊に軍事施設の破壊や空母の捕捉を徹底させなかった事について、山本の短期決戦構想とは矛盾するという指摘もある#半藤、2011(平凡社)230-231頁、#太平洋戦争の提督たち41-42頁。ミッドウェー海戦で日本軍主力空母4隻が撃沈された際にも「南雲は帰ってくるだろう」と述べた#海燃ゆ382頁、#従兵長111頁。海軍報道部部員として3年間山本海軍次官と接した松島慶三は、山本が私怨をさしはさむほどの小人物ではないとしている#悲劇の南雲中将131頁。
- 麾下の各艦隊司令長官、戦隊司令官に対して適材人事改革を行なわず、賞罰において、(兵学校出身者のハンモックナンバーに根ざしたエリート集団の団結ないし年功序列人事を重んじるがあまり)失敗した部下に対する責任を曖昧にした。これは後に作戦の分析・評価が機能しない土壌を生み出した。宇垣によれば、山本の内心は「全責任は自分にある」「下手の所ありたらば今一度使えば必ず立派に仕遂げるべし」だったという#戦藻録(九版)200頁。
- 適材人事改革の不備や賞罰の不徹底の例として、南雲忠一と草鹿龍之介に対しての対応が上げられる事がある#山本と黒島264頁、#海軍人事失敗研究26頁。連合艦隊の各艦隊長官の人事は海軍大臣と連合艦隊司令長官の意向が反映され、山本は第一航空艦隊の司令官として南雲(兵学校36期)と小沢治三郎(兵学校37期)を候補にかけ、小沢より扱いやすい南雲を選び、水雷戦術専門の南雲の補佐として航空専門家の草鹿龍之介や源田実を補佐としてつけたという#悲劇の南雲中将75-77頁。ミッドウェー海戦での大敗の後にも、南雲と草鹿の「雪辱の機会を与えて欲しい」との涙ながら言葉に流されて#草鹿回顧147頁、#従兵長112-113頁、#戦藻録(九版)147頁、二人に再編された空母機動部隊(第三艦隊)を指揮をとらせた#海燃ゆ389頁、#勝つ戦略負ける戦略137-138頁。山本は南雲に『今次の戦果に関しては同憂の次第なるも、貴隊既往赫々たる戦績に比すれば、なお失うところ大なりとはせず。幸に貴長官再起復讐の決意烈々たるを拝聞し、君国のため真に感激に堪えず、願わくば最善をつくして貴艦隊の再編成を完了し、過去の神技に加ふるに、今次の教訓を加え、一挙敵を覆滅するの大策に邁進せられんことを。切に貴官のご勇健を祈る』との手紙を送っている#海軍驕り384頁。ミッドウェー海戦の敗北は山本の責任も大きいため#太平洋戦争の提督たち73-74頁、南雲達の責任をあいまいにすることで自らの責任を回避したという厳しい批判も存在する#勝つ戦略負ける戦略140-141頁、#海軍人事失敗研究27-28頁。8月15日の玉音放送後、海軍兵学校監事長大西新蔵中将は、全校生徒を前に「ミッドウェー海戦で負けた時、Y元帥は当然腹を切るべきだった」と断言し、温情主義と情報の隠蔽が敗戦を招いたと指摘している#海軍人事失敗研究30-31頁。
これらの理由により、平均点以下の「凡将」あるいは「愚将」であったとする辛辣な評価を下す意見もあり、の段階でサミュエル・モリソンが真珠湾攻撃を「愚手」と斬って捨てているように、比較的早くから出てきた見方でもある。プランゲは「真珠湾を成功させたあらゆる条件がミッドウェーの時には適用できなくなっていた」と評した#プランゲ下222頁。
総括
山本五十六は実戦経験こそ少ないが、主に軍政で手腕を発揮した。
公刊戦史では、政治家的資質を持った先見性のある人物と評している#吉田指揮官196頁、公刊戦史より引用。。盟友の米内光政も小泉信三に「山本は政治に興味をもっていた」と語った#海軍の昭和史37頁。ダグラス・マッカーサーの回顧録にも山本に対する評価として「連合国との戦争に反対し、開戦となると真珠湾攻撃で大成功をおさめた。ソロモン群島での日本側の作戦を全般的に指揮し、日本海軍のおこなった戦争努力の戦略的頭脳と一般にみなされていた」と評している#海燃ゆ474頁。
連合艦隊司令長官就任も采配・指揮能力を買われたものではなく、三国同盟に強硬に反対する山本が、当時の軍部内に少なからず存在した三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を当時の米内海軍大臣が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざける為に連合艦隊司令長官に任命するという避難的人事を行ったという事情もあった#人間・山本428-429頁、#山本と黒島113-114頁。
このため、実戦指揮能力の低さを批判するのは酷であるとする意見も少なくない。実際、山本自身は連合艦隊司令長官に任官されることを拒み、吉田善吾海軍大将が海軍大臣に内定された際、吉田の下で日米開戦を回避出来るように補佐する事を要望していたようで、米内海軍大臣に人事の撤回を強く要求している#人間・山本428頁。また当時の連合艦隊司令部や各艦隊司令官の誰もが実戦経験が浅く、連合艦隊司令長官である山本でさえも駆け出し時代の日露戦争以来の戦争である事には疑いの余地はなかった。また、戦後発見された山本から友人に宛てた手紙等により、開戦の際には米内を連合艦隊司令長官にした上で、自身は海軍中央へ戻り軍政面で米内を支え、日米開戦の火消し役をしようと考えていたらしく、自らの実戦指揮能力に疑問を抱いていたとも言われている。
幕末長岡藩の河井継之助同様に、勝機の少ない戦いに反対しながら戦争を指揮主導した悲劇的な指揮官と位置づけられる由縁である#半藤、2011(平凡社)432.454頁。
山本が日米開戦前に実戦指揮官である連合艦隊司令長官ではなく、軍政方面の海軍大臣あるいは海軍次官等の政治に意見を述べられる立場にいたのであるなら、その先見性と判断力をいかんなく発揮し、日米開戦を上手く回避できたのではないかとする、山本五十六の軍政家としての能力を惜しむ意見も多い。
例えば、秦郁彦なども戦略家としての山本には否定的であるが、軍政家としてはそれなりの評価をしている。井上成美は、海軍大学校教官時代の山本が軍政と軍備の関係について着目・研究したことを航空重視の姿勢と合わせて「実に卓見と申すべく」と高く評価している#人間・山本240-243頁。
井上の格付けによれば、一等大将に山本権兵衛と加藤友三郎、山本と米内は条件付きの一等大将である#吉田 大和と武蔵28頁。草鹿龍之介は、直接の上司だった山本に対し「上司・人間として立派で情実があった」としつつ、「ゼスチュアが大きすぎる。戦術家よりも軍政家向きの資質だった」と評している#亀井戦記14頁。亀井の取材に。。松田千秋(戦艦大和艦長)によれば、山本自身も「連合艦隊司令長官より海軍大臣になりたい」と語ったという#ニミッツと山本310頁。松田は「情誼に厚い立派な人で、先見の明があって、航空をあれだけ開発発展させたことは非常な功績だ。しかし、作戦は感心できるようなものがほとんどなかった」と評している。亀井宏の取材にも「真珠湾攻撃はバクチがあたって上手くいったが、ミッドウェー海戦ではあの通りになってしまった」と答えた#亀井戦記36頁。ミッドウェー作戦を巡って山本と対立した三代は「今でも山本を尊敬している。だがあれだけの人物でも、やはり生身の人間で、盲点があった」と総括した#亀井戦記30頁。亀井の取材に。。
千早正隆は、山本が補佐役たる参謀を使い方を誤らなければ、戦争の展開は随分違っただろうと述べている#海軍の功罪268頁。小田切政徳(第四航空戦隊首席参謀)は、渡辺安次(連合艦隊参謀)が小田切に語った「僕はつくづく思うんだが、将軍は運のいい人と、そうでない人がいる」という言葉に強い印象を受けたという#亀井戦記51-52頁。亀井の取材に。。吉田俊雄(軍令部参謀)は横山一郎少将の『統率は申し分なく立派。作戦は落第』という山本への評価を引用しつつ#吉田指揮官54頁、「太平洋戦争は山本五十六自身の戦争だった」と表現している#吉田指揮官78頁。
航空本部に勤務していたときには、九六式陸上攻撃機の量産化を始めるなどの業績をあげている。だが信頼する部下の大西瀧治郎と共に「戦闘機無用論」を押し進め、後に戦闘機パイロットの不足を招いた碇義朗『鷹が征く 大空の死闘 源田実VS柴田武雄』(光人社、2000年)101-102頁。
艦隊勤務の経験が浅かった故に、海戦術のドグマに捉われず航空機の有効性に気が付き、航空戦を重視する主張を行い得たとする意見がある。だがその航空戦では搭乗員の消耗が祟り、存命中のい号作戦、戦死後のろ号作戦、ギルバート諸島沖航空戦、トラック島空襲、マリアナ沖海戦、台湾沖航空戦と日本海軍航空隊は大敗北もしくは惨敗続きであり、山本と日本海軍が航空機の運用を真に理解していたかについて、疑問を呈する者もいる#プランゲ上48頁、#海軍驕り296頁、#山本の大罪175頁、#吉田 大和と武蔵141-142頁。
「海軍の相次ぐ大敗北を見ずに戦死してかえって幸せだった」とする意見もある#大和最後の艦長224頁。中沢佑中将や河合千代子も、山本が戦死した事を「ある意味で幸せ」と表現し、もし健在ならば東京裁判で戦犯として裁かれていた可能性を指摘している#亀井戦記23頁、#死に往く長官 下201-202頁。
山本家の相続
山本氏は源満政を祖とする清和源氏の一流である。戦国時代には三河の小豪族として成長したが武田信玄の軍師・山本勘助もこの山本氏の出である。、桶狭間の戦い後に徳川家康が岡崎に自立して三河を平定していくなかで、永禄8年(1565年)牧野家と山本家は共に家康に臣従、直参旗本となった。天正年間、山本成行のときに、家康直参のまま上州大胡藩の藩主となっていた牧野康成に与力し、その後そのまま牧野家の家臣となった。元和4年(1616年)に牧野家が越後長岡藩主に加増移封されると、山本家は上席家老連綿(上席家老職を世襲する家)1100〜1300石の家格に定着したただし元は直参旗本の出自ということで、山本家は陪臣ながら将軍家御目通りが許された。。大政奉還後の越後長岡藩は、初め中立を模索したが新政府軍にこれが認められなかったため、奥羽越列藩同盟に加わって官軍と交戦した(戊辰戦争の北越戦争)が、近代化された兵力に勝る官軍に敗北。新政府から戦争責任を追及されると、藩主は新興の筆頭家老・河井継之助と譜代の上席家老・山本帯刀を反乱の首謀者として報告し恭順した。
河井は敗走中に傷死してすでに亡く、山本は捕われて処刑され、両家はともに家名断絶となる。しかし北越戦争の事実上の責任者は河井継之助である。河井家が初代長岡藩主牧野忠成以来の家臣であったとはいえ、微禄の抜擢家老であったので、高禄譜代の上席家老だった山本帯刀がこれに添えられるかたちで犠牲にされたことは否めなかった。このため維新後牧野家では、家祖の代から深いつながりがあった山本家の家名再興を使命として尽力することになる。
山本家は戸籍の上ではにいったん再興されたが、戸籍内に男子がない「女戸」とされたうえ、その女子も死亡すると廃家となった。
再興が実現したのは北越戦争から半世紀以上を経た、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男・五十六が海軍大学を修了して、海軍で佐官以上の地位が約束されたときのことだった。牧野忠篤子爵はこの31歳になる高野五十六の将来を見込んで、彼が山本家を相続するかたちで家名を再興することを提案したのである#人物叢書山本(新装)37頁。
高野家は元々信濃上田藩の家臣であったが、慶安元年(1648年)高野七左衛門のときに牧野家に再仕官し、40石の馬廻り衆(中級藩士)となった。その後延享年間に高野秀右衛門が家老・山本勘右衛門の補佐をしたことを機に、以後代々高野家は山本家と深い関係を持つようになり、100〜150石の大組(上級藩士)として郡奉行・勘定方支配・取次格などを務めるまでになった。
山本家が廃絶となった明治2年には、首脳部から大きく外れて8等官・計司として存続していた(出典、長岡士族総名順)。山本家の廃絶が影響したか否かは不明である。
逸話
人物像に関するもの
- 身長は1m60cm、体重65kgで、小肥の立派な体格だった#従兵長34頁。ロンドン海軍軍縮会議直後に山本と初体面した高木惣吉は『実物は五尺二寸ばかりの小男で、いかめしくもなければ、颯爽たる男振りというのでもない。舟乗りに似合わず低い声で、ひげのないやゝ長めの顔の特徴といえば眼が細く、口が大きくて意思的に締まっていること位であった』と述べている#海軍兵学校物語87-88頁。米内光政は山本の性格を「茶目」と表現している#ニミッツと山本233頁。愛人の河合千代子によれば「姿勢が良く、柔軟性があり、一旦決めると考えを変えない。社交にたけ、国際感覚に富んでいた」という#山本の恋文5-7頁。河合への取材より。。子供の頃から負けず嫌いで、小学生時代「何でも食べるが鉛筆は無理だろう」とからかわれると、その場で鉛筆を食べだしたという#人間・山本517頁。
- 連合艦隊司令長官就任直後、渓口康麿(海兵51期。山本とは礼子関係の親戚)に宛てた手紙の中で、5歳の長男に「56」と書いたことがある#海軍の昭和史154頁。その後も「長門」や「大和」の山本宛に大量の手紙が届いたが、「連合艦隊司令長官様」は公文書、「山本五十六様」は私信で、私信は山本自ら返信を書いた#従兵長87頁。1日30通の郵便を出したが、ほとんど私信への返信である#従兵長126頁。
- 山本は博打が好きだった。腕前もかなりのもので、特にポーカーやブリッジに強かった。山本曰く「博打は一ドルなら一ドル出して自分の言葉に責任をもつこと」「博打をしないような男はろくな者じゃない」「2年ほどヨーロッパで遊べば、戦艦1-2隻の金はつくれる」「私欲を挟まない。科学的数学的でなければならない。冷静に観察し、計測すれば必ず勝つ機会が判る」等#人間・山本246頁、井出謙治(軍事参議官)談。。ちなみに山本は「予備役になったらモナコに住み、ルーレットで世界の閑人の金を巻き上げてやる」と語ったと伝えられるが、そのモナコではカジノ協会からあまりに勝ちすぎるため出入り禁止令を受けたとされる#人間・山本247頁、反町が山本から直接聞いた話として。。に発行された「非常時国民全集・海軍篇」(中央公論社)でも第一航空戦隊司令官山本五十六少将について上記の話を紹介している#太平洋戦争の提督たち33頁。真珠湾攻撃を投機的と心配した昭和天皇に対して永野が「山本は博打につようございますから」と釈明したという。山本の博打好きは、山本の親友であった今村均によっても戦後、証言されている。山本と今村は中佐・少佐時代に友人の家でトランプ遊びをした時に知己となった#人間・山本498頁。毎週末に山本、今村、安達二十三らのどれかの家でポーカーが開かれていたと今村は語っている。
- 横山一郎(海軍少将)は山本が海軍次官当時の副官だった。山本と何度かブリッジを遊び「山本のブリッジはブラフ(はったり)が多い。堅実にやったら必ず勝てた。山本のブラフと僕の合理的な方法なら、僕が勝つ」と述べている#ニミッツと山本226頁。
- 非常に部下思いだった。空母「赤城」艦長時代、艦載機1機が行方不明となった時は食事も通らず涙をこぼし、搭乗員が漁船に救助されて戻ってくると涙を流して喜んでいる#人間・山本295-296頁、#海燃ゆ140頁。連合艦隊長官時代、真珠湾攻撃に赴く特殊潜航艇搭乗員10名と対面した際には、山本直筆の揮毫を渡している#従兵長72頁。戦死した部下にはその家族に自筆で手紙を書き、場合によっては自ら墓参に訪れることもあった。海軍次官当時、部下だった南郷茂章大尉が戦死したため山本は遺族の元を訪れた#人間・山本422頁、#海燃ゆ267頁。父親の話を聞くと、山本は卒倒するほど慟哭し、周囲から助け起こされるほどだったという#人間・山本423頁、#海燃ゆ268頁。折りしも三国同盟締結を巡って厳しい情勢が続いており、部下の戦死をきっかけに緊張の糸が切れてしまった可能性がある#海燃ゆ269頁。
- 戦死した部下の氏名を手帳に認め、その手帳を常に携行していた#海燃ゆ118-119頁、#死に往く長官 上171頁。この手帳は生前宇垣纏に見せたことがあり、山本戦死後、宇垣纏の秘書を務めた蝦名賢造少尉が整理した#蝦名 特攻機255-256頁、#死に往く長官 下19-20頁。蝦名によれば万葉集、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の詩歌や山本の自作詩がぎっしりと書き込まれており、戦死者への賛美と死への決意で満ちていたという#死に往く長官 上171-173頁。
- 美保関事件で事故を起こした軽巡洋艦「神通」の水城圭次艦長が自決した際水野は山本と兵学校同期。交流もあった。、駐米武官の伊藤整一が死んでは意味がないと述べたところ、上司の山本は「死を以て責に任ずるという事は、我が武士道の根本である。その考えが腹の底にあればこそ、人の長としても御勤めができる。そういう人が艦長に居ればこそ、日本海軍は大磐石なのだ。水城大佐の自決は立派とも言えるし、自分としては当然の事をやったとも考えて居る。君の様な唯物的考えは、今時流行るのかも知れぬが、それでは海軍の軍人として、マサカの時に役に立たぬぞ。」と叱りつけている#人間・山本289-290頁(原文のまま)。後に伊藤は、坊ノ岬沖海戦で戦艦「大和」と共に自決した。
- 第三次ソロモン海戦で戦艦「比叡」が沈没した際、生還した西田正雄艦長は予備役に編入された。山本は西田を将来の戦艦「大和」艦長にしようと考るほど西田を評価しており、嶋田繁太郎海軍大臣に人事撤回を求めたが拒絶されている#怒りの海292頁。
- 山本は特定の宗教こそ信仰していなかったがキリスト教に対する理解が深く、海軍兵学校時代は座右に聖書を置いていた#人間・山本132頁、#死に往く長官 下203頁。実子山本義正によれば、少年時代の山本は米国宣教師の元で聖書の勉強をしたことがあるという#死に往く長官 下204頁。米国駐在武官時代には、部下の伊藤整一に「エイブラハム・リンカーンが好きだ。米国人といわず人間として偉い男と思う」と語った#人間・山本286頁。
- 日頃から気配りを忘れなかった。山本が海軍航空本部総務部長を勤めていた時、直接の部下だった草鹿龍之介が山本のための機密費・接待費の捻出に苦労している事を知ると、山本は自ら海軍省と交渉に乗り出して金500円(当時価格)を獲得し、草鹿に渡している#草鹿半生記255頁。海軍次官当時、海軍担当新聞記者の家庭についても把握して話題にしていた#海軍の昭和史121頁。
- 山本は人間的魅力に富んだ人物だった。連合艦隊機関参謀として勤務した森田貫一(機関科将校)は、「山本さんに半年仕えれば、一体感を持つようになる」と吉田俊雄に語り、仮に山本が危険に晒されたら反射的に命を捨てて守るだろうと語っている#良い参謀良くない参謀55頁。
- 4月に故郷長岡の阪之上小学校で演説を行い、日本人として重要な恩を「天皇の恩、親の恩、師の恩」を挙げ、「世の中に立って、国の為に尽くすことが、先生に対する生徒の、第一の恩返しになる」と語っている#人間・山本345-346頁、#海燃ゆ194-195頁。翌年11月の長岡での講演会では、海軍を辞めたのち長岡で青年の教育を行う夢を語っている#人間・山本377頁、#海燃ゆ199-200頁。
- の海軍次官時代、水から石油が採れると主張した科学者に海軍共済組合で実験させた#海軍生活放談422-423頁、#吉田指揮官55頁。一宮義之(海軍省先任副官)らは反対したが、山本は「君達のように浅薄な科学知識ではわからない。深遠な科学というものはそうではない」とたしなめた#ニミッツと山本232頁。実際は詐欺だった#山本の大罪160-161,336頁。
- 山本は逆立ちを得意としていた。逆立ちに関する逸話としては「アメリカ行きの船の中で催されたパーティーで、階段の手摺の上で逆立ちを披露した。続いて皿回しを披露して乗客を唸らせた」「妙義山頂の岩の上や加治川急流下りの舟の舳先などで逆立ちを行い、皆がハラハラする様を楽しんだ」といった話が伝えられている#人間・山本222-223頁、#ニミッツと山本216-217頁。
- 山本は酒を飲まず煙草も吸わなかったが甘いものが好物で#半藤、2011(平凡社)19頁、夜食に汁粉が出ると喜んだ#従兵長28頁。近江は副官から「虎屋の羊羹を切らさぬように」と注意されている #従兵長122頁。山本の同期生嶋田繁太郎大将も「長門」を訪れた際に大量の「虎屋の羊羹」を土産に持参し、山本だけでなく将校達も恩恵に与った#一海軍士官10頁。あめ最中も好物としており、新潟市白山駅の「渡辺あめや」には礼状が飾ってある。日本では柿、南方ではパパイヤを好物とし、「大和」の冷蔵庫にはパパイヤが山のように保存されていた#人間・山本頁、#従兵長122頁。
- 佐官時代は愛煙家だったが、「赤城」艦長時代に禁煙した(後述)。また海軍次官時代、松平恒雄英国大使が葉巻を山本に贈ろうとしたところ、支那事変(日中戦争)解決までは吸わないとして預けたままとなった#人間・山本528頁。海軍次官時代に次官官舎で新聞記者の個人取材に応じた時には、相手に煙草をすすめたものの、間をもたせるため中指と人差し指を失った左手で煙草をつまむのみで自分は吸うことはなかった#海軍の昭和史150頁。
- アメリカ留学時代、留学生の小熊信一郎と互いに意地を張った結果26時間連続で将棋を指した#人間・山本230頁、#海燃ゆ95-96頁。100番予定だったが双方疲労の末、75番で切り上げた#人間・山本232頁。海軍次官時代には連合艦隊司令長官になっても将棋をやめることはなく、浴衣に着替えると渡辺安次参謀、藤井茂参謀と日課のように将棋を指し、藤井には苦戦した#従兵長42、56頁。普段無口な山本だが、将棋を指す時には冗談を交えつつ参謀をからかっている#従兵長43頁。真珠湾攻撃の前日にも渡辺と指した#半藤、2011(平凡社)178-179頁。ミッドウェー海戦で空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の被弾炎上という急報を「大和」作戦室で渡辺と将棋を指している時に受け取った時には#従兵長108頁、「うむ」「ほう、またやられたか」の一言だけをつぶやき、将棋をやめなかった#海燃ゆ381頁、#従兵長109頁、#ニミッツと山本194頁。居合わせた近江従兵長は「山本と渡辺の気持ちを考えると思い出すだけで気の毒だ」と述べている#従兵長110頁、#勝つ戦略負ける戦略48頁。
- 山本は、米国駐在(ハーバード大学留学)の前年の当時、ナショナルジオグラフィックを購読していた。山本の長男の義正(生まれ、出典記事が掲載されたは77歳)は、米国から日本に戻った以降のこととして「(山本が米国から帰国してからまで住んだ)鎌倉・材木座の自宅には、ナショナルジオグラフィックが米国から毎月届きました。当時小学生だった私は、父より先に封筒から取り出して良く見たものです」「(山本の)本棚の半分は米国の歴史に関する本で、他に黄色い背表紙のナショナルジオグラフィックがたくさん並んでいました。付録地図もケースの中に大切にとってありました。父は米国を知るためのあらゆる勉強をしていました」と語った。「編集便り」『ナショナル・ジオグラフィック日本版』 4月号、187頁。
- 山本五十六の語録に見られる「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」や「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」の「男の修行」は格言として評価が高く、座右の銘としている経営者や指導者は多い。「やってみせて…」は上杉鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」から影響を受けているとされる。また「いまどきの若い者はとはばかるべきことは申すまじく候」と述べ、ステレオタイプの印象で若者を否定する年長者を諭す言葉も残している。
- 霞ヶ浦航空隊副長・教頭時代、三和義勇(副官)が夜の雨の中で脱営舎の見回りをしていると、同じく巡検していた山本副長と遭遇し、三和は山本戦死後の回顧録でこのエピソードを伝えている#人間・山本255-256頁。また山本が書くべき考課表を部下達自らに書かせ「大尉にもなって自分の長所短所が判然と分らぬようでどう修養するつもりか。真実なら自分のことは自分が一番よく知っているはずだ」と諭した#人間・山本263-264頁、#海燃ゆ117頁。空母「赤城」艦長時代、航空機搭乗員が禁煙を宣告されたが無視していると、山本艦長は「私も煙草は好きだが、日本の為だ。君ばかりに止めてはおかぬ」として禁煙を宣言した#人間・山本298頁。それ以来、山本は煙草を吸わなかったという#人間・山本299頁。
- アメリカ着任時、日本では専売指定されていた砂糖と塩がともにプラントで大量生産され市井で大量消費されていることをワシントンの喫茶店で身をもって知り、彼我の物量の圧倒的な差にショックを受ける。後に軍縮会議出席のため渡米中、山本がコーヒーに多量の砂糖を入れて飲むのを見た同席者が「ずいぶん甘党ですね」と声をかけると、「できるだけ(仮想敵である)アメリカの物資を使ってやるんだ」と冗談半分に答えたという。
- 海軍次官時代、執務室に「百戦百勝不如一忍 玄峰」の掛軸を飾っていた#海軍の昭和史287頁。他人に揮毫を頼まれた時は「常在戦場」と好んで書いている「写真週報 274号」p.10。この言葉は、自らの故郷旧長岡藩の藩是である。「号」は「兜城」(長岡城の別名)、のちに「長稜」(長岡の雅名)を使った#海燃ゆ160頁。
人間関係
- 大柄で重厚な米内光政とは容姿・性格双方で対照的だったが、親友となった#ニミッツと山本219頁。海軍砲術学校教官時代、同室の二人が退屈しのぎに短剣投げ競争を始めた頃から関係が深まったという#人間・山本192頁、#ニミッツと山本220頁。真珠湾攻撃直前、米内を連合艦隊司令長官にして山本は機動部隊長官になる人事を手紙で要請したことがあるが、一方で新聞記者に山本が海軍大臣だった場合の連合艦隊司令長官人事を問われ「米内さんだヨ。あのひと一人だネ」と答えたこともある#海軍の昭和史373-374頁。
- 1937年12月に高松宮宣仁親王(海軍少佐)が軍令部に着任する際、海軍省の正面玄関で職員全員が皇族を出迎える計画だったところ、山本は予定を取り消させ、高松宮は一少佐として到着した。すると山本は自ら親王の部屋に出向いて挨拶している#海燃ゆ243頁。伏見宮博恭王(軍令部総長)と将棋をさした時には一方的に勝ち、伏見宮の付き人に手加減するよう耳打ちされると「同僚や部下には戯れで負けることもあるが、大事な目上の方には誠心誠意相手をする」と答えた#人間・山本523頁、#海燃ゆ292-293頁。反町が山本から聞いた話。。
- 日独伊三国同盟締結に共に反対した井上成美について、山本(海軍次官)は朝日新聞海軍担当の杉本記者に「あの男は僕なんかとちがって、頭の構造が緻密にできている」と紹介した#海軍の昭和史107頁。その一方、榎本書記官に「世間ではオレを三国同盟反対の親玉のようにいうが、根源は井上なんだぞ」と不機嫌そうに語ったこともある#日本海軍のこころ277頁。珊瑚海海戦で第四艦隊司令官だった井上の作戦指導が各方面から批判された時も、井上をかばうことはせず「戦はあまりうまくない」と評している。
- 山本は1941年8月に連合艦隊参謀長に着任した宇垣纏を毛嫌いしていたが、その関係は次第に変化していった。ミッドウェー海戦敗北から4ヶ月がたった1942年10月1日、山本は初めて「大和」の宇垣私室を訪れ、雑談をかわした#海軍の功罪258頁、#海軍驕り128頁。宇垣は戦藻録に「夜長官来談、時余に及ぶ。打ち解けたる雑談共に楽し」と記述し、単純に喜んでいる#戦藻録(九版)198頁、#海軍驕り407-408頁、#太平洋戦争の提督たち72頁。
- 郷里長岡の反町栄一とは共に旅を楽しむほど家族ぐるみのつきあいだった#人間・山本389頁。新潟から名産品が届くと特に喜んでいる#従兵長38頁。
- 当時の海軍軍人の例に洩れず、山本も女性関係が派手だった。但し彼は玄人の女性を対象にしており、当時の倫理からは逸脱はしていない。女性に対して細やかな気配りを見せ、得意の逆立ちで宴席の場を盛り上げる等、花柳界ではかなりの人気者だったらしい。その一方で山本は下戸であり、一説によると彼の徳利には番茶が入っていた#ニミッツと山本227頁。連合艦隊旗艦「長門」艦長だった大西新蔵は、宴会で専用の徳利から酌をされる山本を目撃している#海軍生活放談458頁。海軍将校間の宴会では無口だった山本だが、拳骨の腹に徳利を吸いつけて酌をする隠し芸を披露した#人間・山本430頁、#海軍生活放談459頁。ただし酔った将校に「五十六」の由来を聞かれた時には、不機嫌そうな顔で黙った#海軍生活放談202頁。少佐時代にも島村大将に同じ事を聞かれ、無愛想に頷いている#人間・山本213頁、安保清種(海軍大将)談。。
- 海軍兵学校時代は、姪の高野京(山本より4歳年長。看護士)と交流が深く、多くの手紙を書いた#海燃ゆ44-46頁。海軍大学校卒業直後の大正6年1月、山本が盲腸炎で大手術になった時にも看病にあたっている#人間・山本209-211頁。
- 頃、少佐だった山本は佐世保で18歳の鶴島正子(鶴島ツルとも)と愛人関係になった#ニミッツと山本224頁、#山本の恋文21頁。後に関係が薄れても交流が途切れることはなく、鶴島は山本の手紙をスーツケースが一杯になるほど持つことになった#ニミッツと山本224頁。
- 新橋に愛人をかこっていた。梅龍と名乗っていた河合千代子で、のロンドン軍縮会議直前(山本は日本側代表)に深い関係になった#海軍驕り114頁、#山本の恋文15-16頁。河合によれば、宴会の席で威張っていて無口だった山本を誘惑しようとしたが、逆に彼女の方が参ってしまったという#山本の恋文15頁、#死に往く長官 上234-235頁。河合と山本は互いの事を「お兄さん」「妹」と呼んでいる#山本の恋文18頁。
- 山本は多くの手紙を河合に書き、1941年12月4日、山本はバラの花束を河合に与え翌日の手紙で「この花びらの散る頃を待つように」と伝えている#海軍驕り115頁、#山本の恋文12-13頁。真珠湾攻撃は4日後の12月8日だった。河合が肋膜炎を病むと頻繁に手紙を送り、12月28日には『方々から手紙などが山のごとく来ますが、私はたったひとりの千代子の手紙ばかりを朝夕恋しく待っております。写真はまだでしょうか』と書いている#海軍驕り246-247頁。寵児だった渡辺安次参謀を代理として見舞わせた程である。河合の家には、宇垣纏を始めとする連合艦隊参謀が度々訪れて世話になっていた事が、山本から河合への手紙で判明している#死に往く長官 上263-264頁。
- 「大和」の山本私室に、交流があった岩井尊人海軍主計大尉の娘、岩井照子が描いた軍艦のクレヨン画を飾っていた#山本と黒島266頁。岩井は1940年に逝去しており、山本は「大和」から照子を励ます手紙を送っている#山本と黒島267頁。
- 海軍少将石井敬之の孫で女優の石井苗子は、テレビ番組、徹子の部屋に出演した際、祖父は山本五十六をいつも「いそちゃん」と呼んで親しんでいたと聞かされたと語っている。
開戦前
- 海軍次官時代から新聞記者に人気があり、海軍省記者クラブ「黒潮会」に山本目当てで入会する者が多く、次官室会見で座れない記者が出るほどであった#海軍の昭和史137頁。会議のあと米内海軍大臣が会見を行わず山本次官の会見だけで終わることもあったという。
- 1938年当時戦艦「扶桑」の高角砲分隊長を務めていた千早正隆は、「長門」後甲板上の天幕の下で行われた対空射撃研究会で海軍次官だった山本五十六(海軍中将)と初対面した#海軍驕り30頁。高級将校は最前列のケンバス椅子に、一般士官は食卓用木製長椅子に座っていたが、研究発表中に入ってきた山本はオブザーバーという立場から後方の長椅子に座った#海軍驕り30頁、#千早インタビュー24頁。千早は公私のけじめを明確にする山本に驚き、特別の関心を払うようになる#海軍驕り36頁。
- 「長門」が旗艦だった戦争前、山本は「支那の夜」(渡辺はま子)という流行曲を気に入り、昼食時の軍楽隊に演奏させていた#従兵長27頁。
- 旗艦乗り組みの下士官兵の間では、艦内で出会った際に敬礼すると、ほとんど同時に正確な挙手の答礼を返してくる、と言われていた。「長門」で候補生から少尉に任官した新米士官の斉藤一好は、言葉をかわしたこともない山本から「任官おめでとう」と声をかけられている#一海軍士官72頁。戦艦「武蔵」で勤務した蝦名賢造(海軍少尉、連合艦隊司令部通信士官)は、山本の敬礼の美しさに感激している#蝦名 特攻機45頁。
- 日米開戦直前、南雲機動部隊参謀長の任についていた草鹿龍之介は真珠湾攻撃に反対の立場だった。そこで大西瀧治郎少将と相談の上、戦艦「長門」にいた山本長官を訪れて反対論を展開した#亀井戦記631頁。すると大西が「草鹿君、長官がああまで仰るなら、一つまかせてみようじゃないか」と前言を翻し、唖然とする草鹿を横目に、大西と山本はポーカーを始めてしまう#亀井戦記632ページ。山本は草鹿を「長門」の舷門まで見送り、「真珠湾攻撃は、最高指揮官たる私の信念だ。どうか私の信念を実現することに全力を尽くしてくれ」とを草鹿の背後から肩を叩いている#草鹿回想29頁。草鹿は回顧録でこそ「長官のために全知全能を尽くすと誓った」と述べているが、取材に対し「あのときは参った」と戦後になってもぼやいている。
- 1941年9月に海軍大学校で行われた真珠湾攻撃図上演習では、南雲機動部隊は大戦果をあげると同時に空母3隻が沈没・1隻が大破、山本は南雲の肩を叩いて「ああいうことは人によっていろいろ意見があるからね、かならず起るということはないよ」と慰めている#生出・源田38-39頁。宇垣連合艦隊参謀長は撃沈判定を取り消して演習を続けた#半藤、2011(平凡社)167頁。
開戦後
- 真珠湾攻撃が宣戦布告なしで行われ、米国民が激昂したことに山本は心を痛め「僕が死んだら、陛下と日本国民には、連合艦隊には決して初めからそういう計画をしておりませんと、そうはっきりと伝えて欲しい」と周囲に語っている#半藤、2011(平凡社)261頁。12月10日夜、戦艦「長門」の艦橋にいた山本の元に天皇からマレー沖海戦の勝利を褒賞する艦上が届いた#乾坤一擲291-292頁。『水交』昭和50年1月号。。坂田涓三航海長は、帽子を取って皇居の方向に最敬礼した山本が、椅子に座るなり艦橋の柵の上にうつぶせになり号泣したと証言している。
- 山本は1942年1月18-19日にかけて旗艦を臨時に 大和型戦艦「大和」に移したあと#戦藻録(九版)69-70頁、2月12日正式に旗艦を「大和」に変更した#戦藻録(九版)80頁。千早は『何か偉大なものがあった』という強烈な存在感を持つ「大和」に山本が影響を受け、大艦巨砲主義に引きずられた可能性を指摘している#海軍驕り190頁、#千早インタビュー44頁。近江従兵長は、山本が「大和」について語ったことはなかったと述べている#従兵長102頁、#海燃ゆ348頁。
- 「大和」を旗艦としていた頃、機関科の乗員に依頼して、軍用の小銃の実包を自分の猟銃に使用できるよう違法改造させた、というエピソードが伝わっている辺見じゅん著『男たちの大和』。実際はスラバヤ攻略部隊から献上された英国製連装猟銃で、宇垣纏参謀長が参謀長室に飾っていた#従兵長96頁。1942年2月3日、宇垣は近江と共に広島湾で鴨20羽を撃ち落とし、夜、山本や幕僚と共に水鳥鍋を楽しんでいる#従兵長97頁、#戦藻録(九版)77頁。就任直後は上手くかみ合っていなかった山本と宇垣だが、この時だけは双方心から楽しんでいたという#従兵長97頁。宇垣はこの後も木更津(3月13日)やトラック島でも鳥撃ちを行い、獲物を持ち帰って山本を喜ばせている#戦藻録(九版)94頁。焼鳥会では山本もビールを片手に上機嫌だった#従兵長124頁。
- 1942年3月30日、戦艦「大和」の射撃訓練に立ち合った際、46cm主砲が目標を大きく外れて着弾した#戦藻録(九版)97頁。山本は大和砲術長を厳しく叱責したが、すぐ「射撃の失敗を喜んでいる。今回命中したら大和の射撃はそれまでだ。しかしこの失敗あって日本海軍砲術の明日がある」と諭した戸高『戦艦大和に捧ぐ』144-145頁、石田直儀(大和主砲測距手)談。。
- 1942年4月4日の誕生日に、勲一等功二の勲章が送られた。山本は「こんなもの貰って良いのかな」「自分は米砲艦を南京近くで沈めた場合の外何もしてはおらん。軍令部総長功一級の関係からか」と恥ずかしがっていたという#戦藻録(九版)98頁。米砲艦を沈めたとは、日米関係悪化に拍車をかけたパネイ号事件のこと。
- 1942年4月18日のドーリットル空襲当日は、軽い腹痛のため粥食をとり「大和」の一室で休んでいた#従兵長104頁。山本に直接非難の投書があったという説もあるが、山本宛の手紙を分類していた近江従兵長は記憶していない#従兵長103頁、#海燃ゆ355頁。
ミッドウェー海戦
- ミッドウェー海戦直前の5月14日、山本は眼鏡をかけマスクをして変装すると、呉駅で河合千代子と落ち合った#海軍驕り310頁、#山本の恋文31頁。山本は病み上がりだった河合を背負って人力車まで運んだ#ニミッツと山本137頁、#死に往く長官 上261-262頁。河合が呉を去る時は、列車の窓越しに強く握り合って別れを惜しんでいる。直後の手紙には『私の厄を引き受けて戦ってくれている千代子に対しても、国家のため、最後の御奉公に精魂を傾ける。終わったら世の中から逃れて二人きりになりたい。5月29日には私も出撃して三週間洋上に出るが、あまり面白いことはないと思う』という趣旨の手紙を送った#山本の恋文31-32頁、#海軍驕り311頁、#死に往く長官 上54頁。機密漏洩という指摘もあり#ニミッツと山本144頁、#死に往く長官 上55頁、また南雲機動部隊が最前線へ向かう最中に最高司令官が愛人へ逃避的な手紙を書くことを問題視する意見もある#山本の大罪110-111頁、#勝つ戦略負ける戦略126-127頁。山本贔屓を自認する半藤一利も、河合への手紙について「情けない思いが残る」と評している#半藤、2011(平凡社)448頁。また、真珠湾攻撃作戦立案時とミッドウェー作戦時の山本の熱意が全く違うという指摘もある#太平洋戦争の提督たち61頁。同日、米軍機動部隊は日本軍を迎撃するため真珠湾を出撃した。ミッドウェー海戦大敗北後、南雲機動部隊将兵に緘口令がしかれたが、山本は名刺に近況を書き河合に送っている#死に往く長官 上55-56頁。
- ミッドウェー作戦前の山本の「大和」航海中における生活は以下のようなものだった戦争前、停泊中の生活は、近江従兵長の著作に詳しい。。まず午前6時ごろ艦橋に姿を現すと、無言で長官専用椅子に座る#プランゲ上182頁。当時の大和艦長高柳儀八大佐、宇垣纏参謀長と言葉をかわすこともなく、広い大和艦橋は沈黙に包まれたという。朝食後の作戦会議では、幕僚全員が発言するよう促した#プランゲ上182頁、183頁。朝夕30分の入浴習慣は、平時、戦時、停泊中、航海中とも変わることがなかった#プランゲ上182頁、184頁、#従兵長29頁。午後8時になると艦橋作戦室で渡辺安次参謀と将棋に興じ、4時間以上指すこともあった#プランゲ上184頁。このため午後8時以降の先任参謀が宇垣や黒島ではなく、渡辺とみなされたほどである。
- ミッドウェー海戦後に当時軍令部総長であった永野修身に進退伺いを提出しているが慰留されている。千早正隆は石渡幸ニに、山本が躁鬱病であり、真珠湾攻撃時は躁、ミッドウェー海戦時は鬱状態だったと語った#太平洋戦争の提督たち56-57頁、#千早インタビュー23頁。
ガダルカナルの戦い
- 「大和」の姉妹艦「武蔵」に旗艦を移した後、休憩時間に甲板上で幕僚らとビールを賭けて輪投げに興じ、彼が一番強かった、というエピソードが『戦艦武蔵』(吉村昭著)に紹介されている。また下士官兵とも輪投げに興じ、負けて水兵にデコピンされたという逸話も伝えられる佐藤太郎『戦艦武蔵』(河出書房)。
- 非常にお洒落な人物であり、大切にしていた特製のサージの軍服は、逆光で青色に光ったという#千早インタビュー24頁。毎日5足以上の靴を磨かせて並べて履き替えていたが、靴の中が熱くなるのを嫌っていたからであった#千早インタビュー26頁。従兵長達が山本のために精一杯豪華な食事を用意し続けたため窮屈な軍艦内部の生活が原因で運動不足になり、高血圧か脚気になった可能性がある#日本海軍のこころ236頁。山本は1942年末-1943年にかけて手足のしびれ・むくみを訴えたため古賀峯一大将が心配しており、吉田俊雄は「まさに悲劇である」と評している#日本海軍のこころ237頁。
- 連合艦隊司令部の元旦は、鯛の尾頭付きを飾って祝うことが慣例だった#従兵長106頁。戦死する1943年元旦、山本の膳の鯛だけ頭が右・尾が左(正式は頭が左)になっており、山本は「年が変わると魚の向きもかわるのか」と述べた#従兵長107頁。同月、親しい料亭の女将(古川敏子)に、河合千代子と南洋で暮らしたいという希望を込めた手紙を送っている#死に往く長官 上96-97頁。
- 戦死時に着用していた第三種軍装(陸戦用服装)は、太平洋戦争に突入してから山本が初めて着用したものだった#従兵長132頁。山本は近江に微笑みながら「これで良いか」と尋ね、近江は「長官、お若くなりました」と答えている#従兵長133頁。
- 戦死後、藤井茂参謀と近江従兵長が遺品を整理するため「武蔵」長官室に入った。すると山本の机には封筒に入れた封印無しの遺書(永野修身軍令部総長、嶋田繁太郎海軍大臣、堀中将、玲子夫人、反町栄一宛)、さらに遺髪が一人分ずつ紙に包まれていた#従兵長138-139頁。
主張・意見に関するもの
- 山本はロンドン海軍軍縮会議の次席随員として派遣されたが、現地で山口多聞中佐と共に最も強硬に対米7割を主張して若槻禮次郎全権を困らせた。大蔵省から派遣された賀屋興宣が、財政面から軍備の大きい負担には堪えられないという旨の意見を言おうとした際に「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ!」などと怒鳴りつけ、青褪めた賀屋が慌てて言葉を飲み込んだという逸話がある#人間・山本302頁、#山本の大罪91頁、#人物叢書山本(新装)57頁。この一件が、山本が艦隊派から同志であると受け止められた一因となり、山本出世のきっかけにもなった#人物叢書山本(新装)54頁。なお賀屋は山本について「聞き上手で話やすい人。真に度胸のある、正しい素直な人。いつ論じ合っても後味の悪い事がない」と評している#人間・山本302頁。
- 佐藤賢了によると、大東亜戦争開戦直後に岡敬純が本来御前会議に提出する筈だった資料を佐藤の下に持ち込んだ事があり、その資料のデータからはとても戦争を遂行するのは不可能であると判断せざるを得ないようなものだった。会議に提出した資料のデータは山本が勝手に書き換えたもので、佐藤は岡に対して「どうして反対しなかったんだ!」と怒鳴りつけたが、岡は「海軍の中で誰も山本に楯突く事はできない」という旨の答えしか返せなかった。この事から、佐藤は生涯山本の事を許さなかった。
- 航空本部長時代、手相骨相鑑定家の水野義人を海軍航空本部嘱託に採用した#米内と山本は愚将だった336頁、#ニミッツと山本230頁。山本は航空搭乗員採用試験の際に応募者の手相・骨相を鑑定させ、採用・不採用の参考としている#ニミッツと山本231頁。
- ロンドン海軍軍縮会議で米:英:日の海軍力が5:5:3比に決定すると、航空兵器で差を埋めることを主張し、航空本技術部長として研究を重ねた#人間・山本307頁。航空本部長時代は、46cm砲を搭載した大和型戦艦の建造に「砲戦が行われる前に飛行機の攻撃により撃破せられるから、今後の戦闘には戦艦は無用の長物になる」と発言して反対した。大和型戦艦建造に携わった福田啓二によれば、山本は福田の肩に手を置き「どうも水を差すようですまんがね、君たちは一生建命やっているが、いずれ近いうちに失職するぜ。これからは海軍も空軍が大事で大艦巨砲はいらなくなると思う」と語った#人間・山本384頁。福田は不沈艦は無理でも沈みにくい船を作ると反論した#人間・山本385頁。また航空関係者に「戦艦の実用的価値は少ないが、現時点では海軍力の象徴として無形の効果がある。戦艦廃止論は我慢せよ」と諭した#世界史・山本五十六30頁。1941年9月、連合艦隊航空参謀佐々木影中佐に「戦艦は2隻あればいい。戦力としてではなく、連合艦隊の旗艦と、その予備艦としてだ。通信施設と居住施設はよくしなければいかん」と語ったこともある#生出・源田178頁。
- 山本の航空主兵論は、戦艦建艦競争となった場合、圧倒的工業力を持つ米国に対抗できないという事情も加味されている#世界史・山本五十六29.133頁、#半藤、2011(平凡社)161頁。山本の予想は的中し、日本海軍の「大和」「武蔵」戦艦2隻に対し、米国はノースカロライナ級戦艦を筆頭に新世代戦艦10隻(アラスカ級を含めると12隻)を完成させ、さらに真珠湾攻撃で沈没した戦艦を浮揚・再投入している。
- 山本や、航空本部長時代に直属の部下だった大西瀧治郎の唱えた航空主兵論は『戦闘機無用論』という極端な思想だったことが批判されることもある。主な批判者は戦闘機搭乗員だった柴田武雄(海兵52期)である。 柴田によれば、夏の航空戦技で、雷撃訓練に対空砲火や敵戦闘機の妨害の概念を取り入れるよう日高実保(大尉、海兵50期)が主張#源田実論19頁、#生出・源田333頁。遠距離での発射を見越した高々度高速発射砲や魚雷の改善を求めた#源田実論20-21頁、#生出・源田333頁。続いて柴田が戦闘機が機銃の射程延長と・照準器や兵器弾薬の発明必要を訴えると、山本(海軍航空本部技術部長)が立ち上がり2人の意見を言語道断と否定。「そもそも帝国海軍のこんにちあるは、肉迫必中の伝統的誠心にある。今後、1メートルたりとも射距離を延ばそうとすることは絶対に許さん」と叱責し、柴田は山本の精神偏重・権力をふりかざす姿勢に落胆している#源田実論22-23頁、#生出・源田335頁。
- 9月の段階から、ハワイ攻撃を口にしていた。「俺も軍人だからね。どうしてもアメリカとやれといわれれば、アメリカともやってごらんにいれたいね。……俺の夢なんだからね。空母10隻、航空機800機を準備する。それだけで真珠湾とマニラを空襲し、太平洋艦隊とアジア艦隊を潰すことは確実にできるんだよ」「少なくとも一年間は、太平洋にアメリカの船と飛行機が存在しないってわけさ。それだけの戦争はやって見せる」と斉藤博駐米大使に語った春山和典『ワシントンの桜の下』、田中英道『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』。
- 乃木希典陸軍大将を尊敬していたという#人間・山本402-403頁。山本も友人の歌人から「乃木将軍を 稍々口悪く 素気無く描けば そこに山本がいる」と冗談めかして評されている。
- ニュースで東条英機の名を聞くと、よく皮肉の対象にしていた。
- 東郷平八郎に対しては、自身の同志や友人を海軍から追放した経緯から否定的な感情を抱いていたとされる。東郷神社が建立された際、「面倒臭いことをやって貰って軍縮条約締結に際しての容喙を指すものといわれる。神様になったのだから、拝めば何か御利益があるだろうよ」と周囲に皮肉交じりに語ったと伝えられている。その為か、真珠湾攻撃の成功により海軍内で自らが軍神の如く神聖化されて扱われる事に対し、「俺は神様でも何でもないんだ」と述べ不満を持っていたと云う。昭和18年の自らの戦死後、周囲が“山本神社”を建立しようと動いた際(下記【山本に関する史跡の項】参照)には、山本の遺志を知る人々がその動きを封じ込めた#半藤、2011(平凡社)13頁。
戦死に関するもの
- 戦死時、偶然一式陸攻の墜落を目撃した日本陸軍第六師団第二十三連隊連隊長、浜之上俊秋大佐は、山本機とは知らず、蜷川親博軍医と中村常男(見習士官)に捜索と救助命令を出した#山本の最期42-43頁。墜落当日は発見に失敗した。
- 歩兵砲中隊・浜砂少尉の部隊も、墜落機から煙草や食料を入手すべく、山本機とは知らずに捜索を開始した#山本の最期64頁。中村隊と同様に墜落当日は到達できず、翌日になって山本機と山本の遺体を発見した#山本の最期51、67頁。最初に現場に到着した浜砂によれば、無帽の山本は機体の傍に放り出されていた座席に座り、軍刀を右手で固く握りしめ、生きているかのように着座したまま死亡していた#山本の最期55頁、#蝦名 特攻機243頁。すぐ左によりそうように高田軍医長の遺体があった#山本の最期56頁。衣服を脱がせていないので断言できないが、右前頭部に擦過傷があったが、外見上さしたる傷はなかったという#山本の最期57頁。直後に中村隊も現場に到着した。渡辺安次連合艦隊参謀の証言では、遺体発見時に胸部と頭部に貫通銃創があったとしているが#人間・山本515頁、蛯名軍医の現場検死ノートや、浜砂の戦後の証言とは矛盾している。
- 熱帯地方では死体に猛烈な蛆がわく。浜砂や中村は19日午後の段階で山本に遺体にウジ虫を認めていない#山本の最期98頁。この事から、山本の死亡時刻を19日午前6時ごろと推測する見解もある#山本の最期99頁「機上戦死という伝説はくつがえされた」。20日午前8時に浜砂と海軍陸戦隊が再び現場に到着すると、山本の遺体顔面は形相が判別できないほど腫れ上がり、遺体全体にウジが猛烈に発生していたという#山本の最期100頁。
- 佐世保鎮守府第六特別陸戦隊、第一中隊長第一章隊長・吉田雅維少尉は、最初から山本機と知らされて捜索に赴いた#山本の最期104頁。墜落当日は発見できず、19日午前中に浜砂隊と遭遇、浜砂隊に遅れて現場に到着した#山本の最期119頁。浜砂隊が遺体を動かしていたが、吉田も山本は即死ではないと判断している#山本の最期121-122頁。山本の遺体を清めた安部茂元大尉をはじめ、顔面に銃創がなかったことを証言する将兵が多数存在する#山本の最期187頁。
- 連合艦隊司令部から現場に赴いた渡辺安次参謀と藤井上等水兵は、警備隊から同様の報告を受けている。それによれば、山本は墜落現場から4-5m離れた場所に一式陸上攻撃機の座席の布団に座って長剣を握ったまま倒れ、高田軍医長は山本と飛行機の間に倒れていた#従兵長141頁。
- 田渕義三郎軍医の遺体検死記録によると「死因は戦闘機機銃弾がこめかみから下アゴを貫通した事、背中を貫通した事」という結論が出され、ほぼ即死状態であったと結論づけている#山本の最期245-246頁「死体検案記録」。しかし山本が搭乗していた一式陸上攻撃機を銃撃したP-38ライトニング戦闘機の武装はイスパノ・スイザ HS.404(口径20 mm)と ブローニングM2重機関銃(口径12.7mm)であり、『小指頭大ノ射入口、右外眥ニ拇指圧痕大ノ射出口ヲ認ム』という検案記録通りであれば頭半分は吹き飛ぶはずである#山本の最期274-275頁。また田渕軍医は後方で検死を行っただけで現場を見ておらず、蜷川から引き継ぎも行っていない#山本の最期264、338頁。田渕自身も不審に思ったが深く追求できず、戦後、粗雑な書類で単なる形式処理であったことを認めている#山本の最期338-339頁。実際に、田渕が山本の軍服を記念に保管しようとしたところ、渡辺安次参謀が遺体から衣服を脱がすことを強い口調で禁止した#山本の最期267-268頁。こういった疑問点から山本の頭部を打ち抜いていたのは、拳銃弾などの小口径の銃弾であった可能性が否定できず、これが「山本自決説」「第三者による射殺説」が論じられる根拠になっている。
- 最初に山本の検死を行った蜷川親博陸軍軍医は、山本遺体に顎の外傷や口胞内出血を認めず、全身打撲か内臓破裂によるショック死という結論をメモに残した#山本の最期26-27頁、99頁。蜷川の実弟である蜷川親正医学博士は、山本の死体の傷は渡辺安次参謀と大久保信(南東方面艦隊軍医長)による死後損壊と述べ#山本の最期298頁、山本は当初生存していたものの、全身打撲もしくは内臓破裂により、19日夜明けごろ絶息したと結論づけている#山本の最期308頁。
- 渡辺安次参謀は、黒島亀人先任参謀、藤井茂渉外参謀、磯部太郎機関参謀、近江兵治郎従兵長だけが参加した戦艦「武蔵」での通夜で「同乗者達は長官を火災から守るため、機内で自ら盾になった。長官は無事脱出したが、捕虜になることを恐れて拳銃で自決した」と語っている#従兵長142頁。
- 山本の遺体を火葬した際の灰は、ブイン基地の滑走路隅に埋められ、パパイヤの木が植えられた#人間・山本532頁、#山本の誤算119頁。写真も残っている。。公式には、遺骨は郷里長岡と多摩墓地に分骨されているが、河合千代子の元にも分骨されて内輪だけの告別式を行っている#死に往く長官 上273頁。
- 河合千代子は海軍省から自決をせまられたが拒否、だが60通ほどの手紙を提出し、山本から与えられた恩賜の銀時計も没収された#山本の恋文22頁、#死に往く長官 上269-271頁。河合は平成元年に死去し、山本の遺髪と共に葬られた#山本の恋文34頁。
- 山本搭乗機を撃墜したP-38の搭乗者については戦後も長らく論争が続いた#検証・山本の戦死236頁「ちぐはぐな空戦記録」。トム・ランフィア陸軍大尉、もしくはレックス・バーバー陸軍中尉のどちらかであるとされる#検証・山本の戦死237頁。実際にP-38を飛行させて検証したの実験では、バーバー中尉が撃墜した可能性が高いという結果が出た#検証・山本の戦死320-327頁「飛行実験の結果が出る」。しかしアメリカ空軍省は実験結果を認めず、ランフィアとバーバーの共同撃墜という立場をとっている#検証・山本の戦死328頁「かみあわない議論」。
- 戦後のトム・ランフィアへのインタビューでは、「一式陸上攻撃機を射程内に捉えたとき、機銃がうまく働くかどうか試し撃ちをしたところ、それが偶然命中した。相手の後ろにくっつこうとしながら試し撃ちをしていたところ右のエンジンが火を噴き、ジャングルの中へ落ちていった。」と語っている。LD NHK 飛行機の時代 元パイロットインタビュー
その他
- 長岡士族出身の将官は、山本五十六がはじめてではなく、軍艦造船のプロフェッショナル、小山吉郎という先輩がいた。また山本の叔父(父の妹の夫)である野村貞はに海軍少将となっている。なお、野村は河井継之助の甥である『海軍兵学校物語』P10。
- 一説によると長岡空襲は、当地が彼の故郷であったというだけの理由で行われた。しかしこれを断定できるだけの史料は、米国公文書館には存在していない。山本五十六の故郷が新潟県長岡であるとの記録が残るのみである。しかしながら、米国マスコミの取材に、当時の軍関係者が、山本五十六の故郷だから国民の戦意喪失のために空襲をしたとエピソードを語っている映像がTVで報道されたことがある。
また長岡空襲を紹介した書籍・文献などに山本五十六の故郷だから、空襲が行われたともいうとの記述が散見される。長岡空襲は、市民を怯えさせるように大量の焼夷弾がB-29から落とされて、市内の約8割を焼き尽くしたが、軍施設・公共施設より市街地が中心に狙われるなど、一般の空襲と目的が違っていたことが窺える。但し、当時の長岡市には、理化学研究所(理研)の研究施設があり、長岡空襲は、この理研の施設を攻撃することが目的であったとも言われている。 - 山本の映像は戦死直前にラバウルで撮影されたものと、海軍病院船氷川丸を訪問した時のものが残っている。前者は日本ニュースで紹介され、後者は記録映画「海軍病院船」で見ることが出来る。
- 肉声はロンドン海軍軍縮会議(の第二次軍縮予備交渉)の代表を務めた際に、当時開設されたばかりの日英間無線電話(国際電話)を介して録音されたものだけである。国葬当日の夜に特別番組「在りし日の山本元帥」の一つとして放送された他、旧海軍軍楽隊メンバーが集まって録音した行進曲集のレコード・CDにも東郷平八郎のそれとともに収録されている。音質が非常に悪いが、大まかな内容としては、前半では交渉団が日本を出発した翌日(9月21日)に襲来した室戸台風の被害にあった人々への見舞いの言葉と復興を願うコメントを述べ、後半では山本自身や松平恒雄を含めた関係者が総力を集めて交渉成立に向けて全力を注いでいる、といったものである。なお、録音の中で山本は「海軍少将」と言っているが、渡英中に海軍中将に昇進している。
山本に関する史跡
- 山本の墓は多磨霊園と故郷・長岡の長興寺 にあるが、後者にある墓は10月23日の新潟県中越地震で倒壊し、4月に復旧した。また、山本が長岡に帰省するたびに立ち寄っていた曹洞宗の禅寺・堅正寺も倒壊。この寺はの新潟地震でも被害を受け、「もう一度地震が来たら倒れる」と言われていた。
- 山本の生家は長岡空襲で焼失し、現在は山本記念公園となっている。
- 山本が戦死した後、ここに“山本神社”を建立して元帥の遺徳を称えようという関係者の動きがあったが、米内光政や井上成美、堀悌吉などが「山本は自分が神様にされるのを一番嫌っていた。そんなこと(神社建立)をしても山本は喜びません」と言って猛烈に反対した為、山本神社建立話は沙汰止みになった阿川弘之『山本五十六』より。
- 公園には復元された生家や胸像が建っている。この胸像はもともと全身像で、かつては霞ヶ浦にあった海軍航空隊にあったものであったが、終戦後のに進駐軍による取り壊しを避けるために、密かに霞ヶ浦に投げ込んで湖底に隠され、後に引き上げた際胸部のみを長岡の山本元帥景仰会が貰い受け、ブロンズ像に鋳直したものである。
- 公園の向かい側には山本五十六記念館があり、家族や親友に宛てた手紙や軍服などの遺品、ブーゲンビル島上空で戦死した時に搭乗していた一式陸攻の左翼などが展示されている。
- 長男・義正が、府立一中を受験するに当たって、居宅を鎌倉材木座から青山南町に移している(後に一中父兄会の理事に就任した)。なお、青山南町の居宅は東京大空襲で焼失した。
系譜
高野貞通=高野貞吉―高野五十六源満政……山本帯刀=山本五十六
山本氏の出自については、越後長岡藩の家臣団及び、山本帯刀を参照。
家紋は「左三つ巴」である。
- 親
- 父: 高野貞吉(高野家の婿養子)
- 母: 高野峯子(貞通の実娘)
- 養父: 山本帯刀
- 兄弟
- 長兄: 高野譲(高野力)
- 次兄: 高野登
- 三兄: 高野大三
- 四兄: 高野留吉
- 五兄: 高野季八
- 姉妹
- 長姉: 高野加壽
- 義姉
- 山本初路
- 山本玉路
- 妻
- 正妻: 山本礼子
- 妾: 河合千代子
- 子
- 長男: 山本義正
- 次男: 山本忠夫
- 長女: 山本澄子
- 次女: 山本正子
回想・伝記(近年刊行)
- 山本義正 『父山本五十六 家族で囲んだ最後の夕餉』 恒文社、新版2007年
- 半藤一利 『山本五十六』 平凡社、2007年。新版・平凡社ライブラリー、2011年
- 『追悼山本五十六 「水交社記事」より』 新人物文庫:新人物往来社、2010年
- 田中宏巳 『山本五十六』 人物叢書:吉川弘文館、2010年
- J・D・ポッター 『太平洋の提督-山本五十六の生涯』児島襄訳、恒文社、新版2008年
山本五十六を描いた作品
文学
- 阿川弘之 - 『山本五十六』、(新潮社、新版1994年、同「全集第十一巻」、2006年)
- 大野芳 - 『山本五十六自決セリ』(新潮社、1996年) ISBN 4-10-390402-x
- 阿部牧郎 - 『遥かなり真珠湾 』(祥伝社、2005年) ISBN 4-396-63257-6
- 荒巻義雄 - 艦隊シリーズ:『紺碧の艦隊』(徳間書店、1990-1996年)・『旭日の艦隊』(中央公論新社、1992-1997年)
映画
- 太平洋の鷲(1953年公開、邦画)
- 軍神山本元帥と連合艦隊
- 太平洋紅に染まる時
- 連合艦隊司令長官 山本五十六(1968年公開、邦画)
- トラ・トラ・トラ!(1970年公開、日米合作)
- ミッドウェイ(1976年公開、アメリカ映画)
- 連合艦隊(1981年公開、邦画)
- 零戦燃ゆ(1984年公開、邦画)
- 聯合艦隊司令長官 山本五十六(2011年公開、邦画)
テレビドラマ
- 海にかける虹〜山本五十六と日本海軍(長時間テレビドラマ、1983年放映)
- 愛と哀しみの海・戦艦大和の悲劇(長時間テレビドラマ、1990年放映)
漫画
演じた俳優
- 大河内傳次郎 - 「太平洋の鷲」(、東宝)
- 佐分利信 - 「軍神山本元帥と連合艦隊」(、新東宝)
- 竜崎一郎 - 「大東亜戦争と国際裁判」(、新東宝)
- 後藤武一 - 「山本元帥対ハルゼイ提督 太平洋紅に染まる時」(、米・ユナイト)
- 藤田進 - 「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」 (1960年、東宝)
- 三船敏郎 - 「連合艦隊司令長官 山本五十六」 (、東宝)
「激動の昭和史 軍閥」(、東宝)
「ミッドウェイ」 (、ユニヴァーサル) - 島田正吾 - 「あゝ海軍」(、大映)
- 山村聰 - 「トラ・トラ・トラ!」 (1970年、20世紀フォックス)
- 小林桂樹 - 「連合艦隊」 (、東宝)
- 古谷一行 - 「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍(全6部)」 (、テレビ東京12時間ドラマ。東映との共同製作)
- 丹波哲郎 - 「零戦燃ゆ」 (、東宝)
- 二谷英明 - 「愛と哀しみの海・戦艦大和の悲劇」 (、TBS長時間ドラマ。東宝との共同製作)
- マコ岩松 - 「パール・ハーバー」 (、ブエナビスタ)
- 市川團十郎 - 「あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機」(、TBS)
- 役所広司 - 「聯合艦隊司令長官 山本五十六」 (、東映)
注釈
脚注
文献
主要参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)
- Ref.A06031086900「写真週報 274号」(1943年6月2日)「一億山本元帥の後に続かん」
- Ref.A06031050700「週報第345号」(昭和18年5月26日)「山本司令長官を悼む」
- Ref.A10110842000「故元帥海軍大将正一位、大勲位、功一級山本五十六国葬写真帖」
- Ref.C10100875800「8年5月8日 出発届の件」(アメリカ駐在海軍少佐山本五十六)
- Ref.C10100876700「10年3月1日 視察報告提出の件 米戦艦『テネシー』」(山本五十六海軍中佐提出)
著者は山本の検死を行った蜷川親博(軍医大尉)の弟。医学博士。- 近江は1940年、連合艦隊司令長官付。山本の戦死まで仕えた。
参考文献
外部リンク
- 山本五十六記念館
- [http://www.kakeiken.com/report006.html#山本帯刀・五十六略系図 山本家系図]
- 山本五十六.net
- WW2DB: 山本五十六
- アジ歴トピックス 山本五十六 - 国立公文書館 アジア歴史資料センター
- 「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実」のレビューと時代背景
大日本帝国海軍将官
日露戦争の人物
騎士鉄十字章受章者
太平洋戦争で戦死した人物
新潟県出身の人物
切断障害を持つ人物
いそろく
1884年生
1943年没
日中戦争の人物