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尼港事件(にこうじけん、 (Nikoláyevskiy Intsidyént))は、シベリア出兵中の1920年(大正9)3月から5月にかけて黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、二度にわたる住民虐殺事件の総称。第一次は日本人居留民ならびに守備隊の集団自決事件、第二がパルチザン(遊撃隊)による日本人俘虜ならびにロシア系住民数千人の虐殺事件として扱われている。
なお同事件は各干渉国政府によるプロパガンダの材料として活用された結果、また戦後は冷戦の結果、学問的な手続きをふまえた事件の正確な記述が、現在にいたるまで少ない。
前史
1920年1月コルチャーク政権の崩壊とともにチェコ軍のシベリア撤退が決定され、同軍救出というシベリア出兵の大義名分が消滅した。そこで英仏につづきアメリカなど主要な干渉国のほとんどが1月中に撤退を決定、同年3月末に撤退を完了した。また1919年度支出構成比中48%が戦費となるなど出兵にからむ出費が財政を圧迫し、人民戦争化にともなう戦線の泥沼化のなか日本国内で撤退圧力が強まった。しかし、政府・軍部は事態の成りいきにまかせて根本的な態度決定を遷延した。こうした態度の背後には、植民地獲得・勢力圏の死守という出兵の真の目的が存したからであった(参照:外交調査会 3月5日決定「帝国ト一衣帯水ノ浦潮(引用者注:ウラジヴォストークの日本側呼称)方面モ全然過激派ノ掌中ニ帰シ接譲地タル朝鮮ニ対スル一大脅威ヲ現出(中略)カクノ如キハ帝国ノ自衛上黙視シ難キ所タリ」『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』512頁。そこで日本軍は、コルチャーク政権崩壊後の混乱のなか、陸軍大臣指示「西30号」を1月17日布告し派遣軍の革命勢力にたいする中立政策を暫定的に採用した。つまり「我軍ニ対シ攻撃的態度ヲ採ラサル限リ団体ノ如何ヲ問ハス自ラ求メテ之ヲ攻撃スルコト」(同指示)はないと声明した。もちろんこうした布告はあくまで時間稼ぎの戦略という側面が強く、状況によっては武力行使を許可する「西第49号」や「西第62号」が3月に入って布告されるなど、この時期の日本政府と軍部中央の方針は朝令暮改と形容するほかなく、全体として矛盾だらけだった。他方、シベリアではエスエル(社会革命党)やボリシェヴィキ(ロシア共産党)、そして両派のパルチザンが革命勢力を構成していた。かれらは1月から2月にかけてウラジヴォストーク、ニコリスク、ハバロフスクなどを白軍からあいついで解放した。しかし日本軍が駐留をつづけるなか早急なソヴィエト化政策は双方により放棄された。ボリシェヴィキにとり、労農赤軍がシベリアにおいて日本軍と直接対峙した場合、ヨーロッパ・ロシアにおいて内戦がいまだ終結していないなか、ポーランドなどによる新たな介入の口実をみずから与えることになることを恐れたからである。他方、エスエルは「日本の略奪的占領」からも「ボリシェヴィキの破滅的支配」からも領域をまもるためにソヴィエト化に反対した。かくしてブルジョワ民主主義の体裁をとる緩衝国家の構想がもちあがり、2月18日共産党中央において極東共和国の樹立が決定された。しかし内戦の混乱のなかボリシェヴィキ・シベリア革命支部に同決定が伝えられたのは3月17日、激しい議論のすえ共産党極東地方委員会が同決定を採択したのは3月も押し詰まった29日、同共和国の成立がザバイカル州西部のヴェルフネヂンスクで宣言されたのは4月6日のことであった。
以上のような経緯から日本軍と革命軍は、2月までには一触触発の危機を孕みつつシベリア各地に雑居する格好となった。
アムール川下流域におけるパルチザン勢力の布置
1900年の尼港(ニコラエフスク港)ニコラエフスクも1月末までに総勢二千というパルチザン軍(ニコラエフスク区赤軍と自称)によって包囲された。アムール川下流域におけるパルチザン運動の展開は他の地域より遅れ、1919年末ハバロフスク近郊で開かれた諸部隊代表者会議がその出発点であった。同地域のパルチザンの組織的特色としては、将校の選挙制や作戦計画にかんする戦闘員間の全員一致制など他の地域と同様の組織構成・運営方法のほかに、共産党組織がたとえば沿海州やアムール州南部よりはるかに弱体であり、統制が弱かった点が指摘されている『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』538頁。事実、ニコラエフスク進駐後の3月16日同市で開催された州ソヴィエト執行委員会における指導部の党派別構成をみると、司令官のトリャピーツィンはアナキスト、第一次尼港事件により大会直前の3月13日死亡した参謀長ナウーモフはボリシェヴィキ、同参謀長が戦死したのち後任となった女闘士レベヂェヴァはエスエル・マクシマリストといった具合であり、事実上ニコラエスク・パルチザンはソヴィエト制度を支持するアナキスト・共産党・社会革命党マクシマリストの三派による連合組織(コレクチフ)であった。(典型的なプチ・ブル革命家と評されるレベヂェヴァが、とくにこのコレクチフを主唱したとされる。)ただし、「トリャピーツィンの独裁者風の性癖を抑える力をもって」いたとされるナウーモフの死後、アナキスト=マクシマリスト連合の傾向がつよまったとされる。そしてこのような雑多な党派構成はその戦略にも反映した。すなわちエスエルや共産党の統制がパルチザンの統一戦線組織にたいして弱いゆえに、彼らは党中央の緩衝国家路線にたいして強固に反対していた。この時点では日本に対して政治解決を斥け、武戦路線にあくまで固執していたのである。
このような戦略上の無統制ぶりはパルチザンの一般戦闘員のあいだにも見られた。アルタイ地方に進出した労農赤軍第五軍の1コミサールの証言によれば、農家の収穫や家財に手を触れることのなかった同地域の農民パルチザンが、都市ではすべてが他人のもの、ブルジョワのもの、コルチャークのものだから何をしても構わないという気分になっていると報告している。「パルチザンシチナ(ロシア語で「パルチザン的な; 無計画・行き当たりばったりの」の意)」と否定的に語られる風潮がニコラエフスクのパルチザンにはとくに強かったとされる。ただしバランスをとるために付言すれば、アムール川下流域のロシア人農民・漁民の都市住民、とりわけ日本人居留民にたいする反感は、日露戦争後の漁業権益問題が遠因を形成していることも指摘されている。同問題に関してはしかし、次章で詳述する。また、他地域のパルチザン組織(例えばスーチャン渓谷でのそれ)におけると同様、同パルチザン組織中の朝鮮人部隊(ワシリー朴中隊長指揮、韓人第二中隊)は大義への専心と敬愛の模範をしめしており、規律が最も厳格だった『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』486、543頁。かれらは第二次尼港事件のさいにも略奪や暴行にいっさい加わることはなかったとされる。そして後にトリャピーツィンを逮捕するさいの核となったのも同中隊であった。以上から結論するに、ニコラエフスク・パルチザンは政治・軍事組織として雑多な組織体であったゆえ、玉石混交といた体の組織であった模様である。
かかる無統制ぶりの背景として、さきにもふれたトリャピーツィンの軍事偏重の戦略があげられる。戦闘的資質を重んずるあまり、トリャピーツィンはパルチザンの前歴と政治的・道義的資質を不問に付したとされる。結果、古参ボルシェヴィキ党員のアッセムの証言によれば、トリャピーツィンは、帝政ロシア体制における拷問係など「怪しげな前歴の連中からなる親衛隊」を作り上げ、かかる取り巻き連中をみずからの独裁権力を維持するために活用していたとされる。たとえば、こうした取り巻の一人ラプタに率いられた部隊は、第一次尼港事件のさい、戦闘中のどさくさに紛れて監獄・民警署留置場に押し入り、釈放予定の50人と取調べ予定の数十人を殺害するなどの不法を働いたとされる。事件後ラプタ部隊の解散を他の党派が要求すると、トリャピーツィンは同部隊の戦闘能力の高さを理由として解散要求を拒絶したとされる。こうした事件はトリャピーツィンの軍事中心的思考・戦略と、ニコラエフスク・パルチザン部隊の道義的な質の頽落をしめす事例であると言えよう。要するに、ニコラエフスク・パルチザンは権力構造が不安定であり、また指導者の独裁的傾向が強く、さらに日本とのみならず各党中央の路線とも対立する強硬路線を採用し、対外・対内的な緊張関係にたえずさらされていた。結果、他のパルチザンと比較して道義的に頽落していったといえる。
日本人居留民の構成と日本資本による鮭鱒漁の支配
日本人の沿海州・シベリアへの進出は早く、1870年ごろ南樺太の出稼ぎ漁師が沿海州の漁業経営にも手を出したのが嚆矢とされる。同地域の居留民の職業別内訳をみると、醜業婦(売春)業と漁業労働者がその主な内実をなしていた。醜業婦にかんしていえば、ウラジヴォストークなど沿海地はいわゆる「女旱」であり、ロシア側統計によれば1897年時点で沿海州全人口中、男は女の約二倍、都市部に限って言えば前者は後者の約四倍だった。また総領事館への届出にもとづく日本側統計によれば、1910年度におけるシベリア各地在住日本人居留民の男女比は女が若干多く(男:女 = 1,538:1,616)、後者の約半数(738名)が醜業婦に従事していたとされる。ニコラエスクも事情は同じで、男は169名、女は184名の民間人が居留していた。彼女らの多くは長崎、熊本両県の貧農出身であった。いわゆる明治以降の「からゆきさん」の実情は江戸時代中期以降の「長崎奉行」の延長だった。身売りされ苦界に身を沈めた彼女らの悲惨を歌った『浦潮節』(「長崎の埠頭に小褄からげて上陸たい」)は、当時シベリアから満州にかけて広く人口に膾炙したという『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』9頁。他方、明治初期から猟師が沿海州へ進出していたことはすでに触れたが、日露戦争後の1907年締結された日露漁業協約により、日本国臣民は日本海・オホーツク海・ベーリング海のロシア沿岸水域での捕獲・採取・製造にかんしロシア帝国臣民と同等の権益をえた。結果、日本の漁業資本が北洋で漁夫の酷使に支えられつつ飛躍的に発展した(漁獲高は1908年の1.34万トンから1917年には6.66万トンと約5倍、租借漁業区数は約2倍、見積もり生産額は約10倍)。北洋漁業経営者の代表とのちに目されるようになる堤清六と平塚常次郎などがかかる資本の代表である。男性居留民のなかにはこうした漁業資本のもとで働く労働者が多かった。
ところでかかる躍進を技術的にささえたのが「日本式ザイェズドク」とよばれる漁法であった。ザイェズドクとは「進路を遮断する方法による捕獲」の意のロシア語である。河口で魚群を一網打尽にする一種の簗漁であるこの略奪的漁法は、漁業資源の枯渇を沿海州上流地域にもたらし、結果ロシア人漁業者は貧窮化した。たとえば1915-16年にわたる乱獲による不漁時には、アムール河沿岸やカムチャッカのロシア人漁師は飢餓に苦しめられることになった。ロシアの歴史家はかかる事態を以下のように記述する。「いずれ後世の歴史家は、1904年の日露戦争から1920年までの北部極東の生活の全期間をザイェドクをめぐる闘争の期間と名づけ、この闘争が和解せる露日の資本とロシア勤労民とのあいだで戦われたことに注目するであろう」『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』541頁。
しかし内水面にかんしては、日露漁業協約によれば買魚・製制魚(塩漬けなど)・出荷が認められるのみだった。そこでニコラエスクなど内水面では、架空のロシア人名義人(ダミー)を立て、表向き前者の使用人になりすました日本人漁業資本家が買魚契約の名目でザイェドクによる実質的な漁場経営をおこなった。ところで、このもぐりの買魚方式経営をおこなうためには、ロシア地方当局と日本人漁業者のあいだにたち、買魚契約などをまとめる仲介業者が必要となる。ニコラエスクにおいて、かかる業務を一手にひきうけていたのが、「ニコラエスクの総督」と呼ばれた島田元太郎であった。島田商会は19世紀後半からニコラエスクで商売を展開していたが、第一次世界大戦における成金ブームで資産をなし、さらにロシア革命後には独自の紙幣を発行するなどニコラエスクでの経済的な支配を強めたとされる。
かくして、日露戦争後の鮭鱒乱獲から内戦期の経済的支配をつうじて、沿海州周辺住民の反日感情は強化されたのであった。彼らにとり「すべての権力をソヴィエトへ」という革命のスローガンは「ザイェドク廃止」と読み替えられた。パルチザンに包囲された時点での尼港からの通信の一つに以下のようなものがある。「彼等ハ『ニ』市ニ至リ島田商店及び『リュリー』(漁業家ニシテ『ニ』市唯一ノ金満家)ヲ襲フヘキ旨揚言シツツアリト」。なぜなら「彼らはこの点(引用者注:不漁の原因)で責めを負うべきは賄賂をとったツァーリ政府の役人だけではない、日本人たち、誰よりもまず日本人『ニコライ』(引用者注:島田元太郎のロシア名)に罪があるとみていた」からである。以上からわかるように、一般住民から構成されたパルチザンの反都市・反日本人感情の背後には、日露戦争以降の日本漁業資本による搾取構造が存したのである。
極東の中国人・朝鮮人
ロシア帝国が新たに獲得した人口稀少な領土、沿海州とアムール州に植民事業をおこなううえで、外国人労働者は不可欠な存在であった。そのなかで中国人と朝鮮人の存在が突出していた。前者はとりわけ初期の開発において大きな役割を果たした。たとえば1884年当時、ウラジヴォストーク市の人口構成はロシア人6,222名、中国人3,019人、日本人419名、朝鮮人354名と、中国人が30%を占めていた。彼等は農業・林業・建設(例えばシベリア鉄道の工事現場等)・商業・下僕などに従事した。しかし中国人居留民の定住化傾向はそれほど強くなかったとされる。対して朝鮮人移住者の特徴は、家族ぐるみ、時には村ぐるみの越境移住を行い、移住後はロシア社会への同化傾向が強かったことがあげられる。しかしロシア帝国の同化政策は世紀の変わり目に発生した義和団事件を経て変化する。ロシア側は当時一般的風潮となった「黄禍論」にのって帰化奨励政策を打ちきった。ゆえにアジア系居留民のロシア国籍取得が困難となり、朝鮮人居留民社会にも階層変化が生まれた。すなわち帰化を条件に一定面積の土地をロシア政府から分与されていた古参の移住者を上層とし、あらたに移住した無土地の非帰化者を下層とする階級構造へと再編成をへることになった。そして後者は義和団事件に関連して鉱山から放逐された中国人労働者を埋め合わせる形で鉱山労働者あるいは都市の雑役夫となるものが多かった。結果、1910年以降、中国人・朝鮮人鉱山労働者の占める割合が80%を超える状態となった。さらに総力戦となった第一次大戦のもとで「黄人労働者」の需要が激増し、中国人・朝鮮人労働者のなかには沿海州のみならず、ヨーロッパ・ロシアの炭鉱等でも働くものも出てきた。また帰化した朝鮮人のなかにはロシア兵として従軍したものも多かった。結果、ヨーロッパ・ロシアで革命を経験することになる中国人・朝鮮人がかなりの数にのぼったことは確かだとされる。要するに、山内封介が指摘したように「朝鮮人と支那人とは、沿海州の経済生活中に食い込んで行ったが、日本人の発展は(中略)何処までも寄生的」だったのである『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』20頁。
ところで政治面においては、朝鮮独立運動は中国・アメリカ・日本とならんで極東ロシアにも在外拠点をもっていた。最大のそれはウラジヴォストークの新韓村であった。同村では毎年8月29日(1910年韓国併合条約発布の日)を国辱記念寒食日と称して、各戸で炊煙をあげず抵抗の意思表示を続けていたが、日本軍進駐後も同村における民族解放運動は沈静することはなかった。逆にレーニン・ウイルソンの民族自決権宣言を契機として3・1運動が朝鮮本土において始まると、それに呼応して1919年3月後半以降、同村でも各戸がいっせいに大極旗を掲げ、大規模なデモ・集会が繰り広げられた。占領者の日本はしかし連合国とのあいだの国際的紛糾を恐れ、なんら効果的な対策を講じ得なかった『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』483頁。
日本の官憲にとってさらに由々しい事態は、パルチザン運動に身を投ずる朝鮮人や中国人が相当数いたことである。具体的には1919年2月前線から復員した帰化朝鮮人のあいだで結成されたスーチャン河谷集落出身のパルチザン部隊(指揮官: グレゴリー・エリセエヴィッチ・韓)が嚆矢とされる。やがて同年6月オリガ郡には朝鮮人パルチザン部隊2個中隊が編成された。そのなかには少なからぬ非帰化朝鮮人もいたと考えられる。朝鮮人パルチザンの政治的要求は朝鮮人社会内に存在する格差是正であり、具体的には無償の土地用益権をふくむすべての権利での平等であった。また朝鮮人ほどではないが同時期、中国人のなかにもパルチザン部隊に参加したものが多かった。パルチザンに参加したスーチャン地区のある中国人の証言によれば、日本の進駐とともに瀰漫した困窮と社会的不正義がパルチザンへの参加を動機付けたとされる。「(引用者付記:中国人労働者は)ツァーリ時代の苦役囚よりひどい暮らしをしていたが、1918年に日本軍が進駐すると、生きていくことがまったく不可能となった。私たちは犬ころ同然に慰みに撲殺され、射殺された。スーチャンの山中でスモーリンの指揮下に第5シントゥヘ・パルチザン支隊が組織されたという噂を耳にするや、私は夜陰にまぎれて、当時富農のもので作男をしていた労働者と一緒に抜け出してパルチザンに入った」『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』486頁。
第一次尼港事件:ニコラエフスク守備隊の全滅
日本軍陸戦隊がニコラエフスクを占領したのは1918年9月であった。歩兵1大隊を基幹とする守備隊が配置され、1919年6月から水戸歩兵第二連隊第三大隊(隊長: 石川正雅少佐、約350名)がその任についた。日本軍は治安維持の面でも白衛軍に代わって前面にでた。たとえば、20年1月19日には石川守備隊長は市民と周辺住民に夜間外出禁止令を発し、これに違反した場合は即刻死刑に処すむね布告した1月24日、パルチザンの軍使オルロフが日本軍守備隊を訪れ和平を提案した。ところが守備隊長はパルチザン軍を「一ノ強盗団体ト目シテ」その提議を峻拒し、軍使の身柄を憲兵隊に留置した。そして白衛軍司令官メドヴェーヂェフ大佐が身柄引き渡しを日本軍に要求すると、同軍の防諜部へ軍使を引き渡した。白衛軍は、多くの政治犯と同様、軍使を拷問したうえ殺害した。石川少佐の措置は中立を布告した「西30号」に対する明らかな命令違反であったが、かかる措置の背後には日本軍軍人のパルチザンにたいする蔑視と過小評価が存していたとされる『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』519頁。
その後1月29日ニコラエスク・チヌイラフ(ニコラエスクから約12キロ下流にある要塞所在地)間の電信電話線がパルチザンにより切断。2月2日チヌイラフ軍守備隊がパルチザンを攻撃、しかし逆にパルチザン勢力により要塞と海軍無線電信所を6日に占領された。結果、ニコラエスクは外界から完全に孤立した。陸軍中央部はこれを受け、救援隊の派遣方針を定め、21日に旭川第7師団にたいして尼港派遣隊編成が下令された。
同じ21日パルチザン軍の司令官トリャピーツィンはハバロフスクの日本軍司令官宛に電報をおくり、無益な犠牲をさけるため、外界と遮断されて日本軍の局外中立方針を了知していない尼港守備隊に所要の指示をあたえるよう提議した。これをうけ2月2日すでにチヌイラフへ発せられ、同地守備隊長が拒絶した中立を命じる訓練が、師団長たる白水中将の名で再度打電された。結果、2月28日和平協定が成立した。相互の内政不干渉、白衛軍の武装解除などがその内容であった。
和平協定を結んだ翌29日、パルチザンはニコラエフスクに進駐した。かれらは直ちに市ソヴィエトを組織。臨時執行委員会を設置し、労働者・市民から志願兵を募集しはじめた。また、革命派の政治犯や軍使等の拷問・処刑に対する報復措置として白衛軍将校(司令官メドヴェーヂェフ大佐はパルチザン進駐時に自殺)・資本家らを逮捕・銃殺した。(一説によれば最初の数日間で400名以上が逮捕され、革命法廷の審理の後、数十人が銃殺されたとされる。)さらにパルチザンは、中国人(1919年1月当時、2,329人居住)、朝鮮人(同、916人居住)を部隊に編成しはじめた。この事態にたいして日本軍幹部は憤慨し、つぎは自分たちの番だとみて戦慄した可能性があるとされる。
日本軍による奇襲と開戦の原因にかんする記述の検討
以下、日本軍による奇襲へいたる過程に関して日ソ文献は異なる記述をしている『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』522頁。ソヴィエト・ロシア側文献に基く記述: 事件参加者ドネプロフスキーの著書には3月11日の武装解除の最後通知に関する記述はなく、逆に市進駐後の日本軍とのあいだの関係が友好的であったとしている(ニコラエフスク地区赤軍本部の公式声明では以下のように描写している。「日本軍は武装したまま自由に市内を往来していた。関係はきわめて友好的なものに思われた。(中略)彼ら将校たちはしばしばわれわれを本部に訪ね、実務的な会話のほかに仲睦まじい話し合いも交わし、ソビエト政権に共感をもっているといい、じぶんはボリシェヴィキだと称し、赤いリボンをつけたりした。武力でも、できることなら何でも赤軍を助けたい、と約束した」)。そして3月11日には夕刻パルチザン本部で宴会が催され、石川少佐、石田領事も招待されて出席。やがて日本人や若干のパルチザン側の出席者が帰宅したが、多くのものが宴会場で深夜まで度外れに深酒。そこへ日本側が奇襲攻撃を開始。ゆえに日本側の友好的態度は、警戒心を緩ませ攻撃を有利にすすめるための計画的な欺瞞と主張しているDneprovskii, S. Sbornik materialov istorii revoliutsionnogo divizheniia na Dal’nem Vostoke, 3 Vols., Vladivostok,, 1966, 106-109頁。ドネプロフスキーの記述が事実だとすれば、武装解除という停戦協定に抵触しかねない重大な案件の最後通牒を突きつけ挑発しながら、その晩に敵の大将とともに深夜まで本部員多数が泥酔するとは考えにくい。
日本側文献に基く記述: 参謀本部編『昭和三年支那事変出兵史』(以下『出兵史』)によれば3月7-8日頃、石川少佐は白衛軍や資本家の逮捕・銃殺あるいは中国人や朝鮮人のパルチザン部隊への編入に関してトリャピーツィンにたいして詰問、しかし後者は内政問題として取り合わず。ついで11日午後、ナウーモフ参謀長が守備隊本部へ来て12日正午までの回答期限つきで武器弾薬の引き渡し、すなわち武装解除を要求。そこで攻撃をひそかに準備してきた日本軍は、12日午前2時を期して攻撃を開始することを決定『昭和三年支那事変出兵史』第3巻、891-892頁。
また当時の日記によれば、11日の武装解除要求の件にかんして「武器弾薬ノ借受ヲ要求」つまり武器を借りたいとの申し出でがあったとされており、武器引き渡しの最後通知とは記述されていない津野少将より山梨陸軍次官宛「尼港戦闘状況・香田一等兵日記」1920・6・30、旧陸海軍記録「西受大日記」1920・7。
戦闘の経過
日本軍は12日午前1時30分行動を起こし、宴会が終わって寝静まっているパルチザン本部を包囲し戦闘の火蓋を切った。本部は火焔につつまれ、トリャピーツィンは炸裂した手榴弾で足に負傷、ナウーモフは窓の外に飛び降りたところをつかまり殺害された。不意の闇討ちをうけて狼狽したパルチザン側はしかしまもなく勢力をもりかえし、日本側は守勢にまわった。ここで停泊中の中国砲艦の動向が戦闘の帰趨を決する重要な意味をもった。ニコラエフスクには松花江の防衛のため上海からハルビンへ赴く途中で冬篭りを余儀なくされていた4隻の中国砲艦が停泊していた。同砲艦はパルチザン入城に先立つ攻防戦では中立の姿勢をとっていた。また同市在住の中国人や朝鮮人のなかに、パルチザンの進駐以前に白衛軍や自警団に参加するものは見られなかった。しかし3月12日の戦闘では中国砲艦が自発的にパルチザン側につき日本軍に対して砲撃を加え、日本軍の敗北を決定的にした。砲艦の乗務員は中国人居留民と結びついており、後者のなかにはパルチザンに参加したものが多数存在したのが理由とされる。すでに述べたとおりパルチザンには中国人・朝鮮人部隊が存在し、かれらは市にはいった後、同胞の応募者を得て勢力を増大した。ことほどパルチザン勢力と中国人・朝鮮人居留民の結合は親密であった一方、日本軍ならびに日本人居留民は完全に孤立していた。
戦闘は2日目に概ね終わった。12日の戦闘における日本軍兵力は陸軍戦闘員288、同非戦闘員32、海軍無線電信隊43、在留民自警団・在郷軍人から構成されていたが、13日に残った兵力は100(内居留民13)、ほかに陸軍病院分院に院長以下8、患者18を数えるのみであった。そして18日には中隊兵舎に立て篭もっていた兵士に対して、ハバロフスク歩兵第27旅団長山田少将と杉野領事の戦闘中止命令が伝えられ、18日朝日本軍は降伏し、残存する兵士と居留民は俘虜として収監された。
居留民全滅の原因にまつわる検討
日本人居留民(男169人、女184人)全滅にまつわる記述にも混乱が見られる。そこで以下ふたたび文献の比較検討を行う。ふたたび『出兵史』によれば、戦闘の局外にあった民間人が敵軍の手で皆殺しになったかのような記述をしている。「敵ハ(中略)我居留民ヲ襲ヒ老若ヲ問ハス虐殺シテソノ財貨ヲ奪ヒ辛ウシテ難ヲ免レ中隊兵舎ニ入リシ居留民僅ニ十三に過ス」『昭和三年支那事変出兵史』第3巻、900頁。しかし多門二朗大佐より参謀本部総務部長宛1920年5月6日付報告によれば、3月末に尼港を出てサハリン島に帰来したアメリカ人毛皮商人は全滅の過程にかんして、居留民全員は日本軍とともに一団となって島田商店に立て篭もり、同商店が戦闘の過程で火災にみまわれると兵士ともども「共ニ万歳ヲ叫ビ悉ク火中ニ投ゼリ」という証言をおこなったとされる外務省記録: 「尼港ニ於ケル帝国官民虐殺事件」(アジ暦)尼港ニ於ケル帝国官民虐殺事件 第一巻【 レファレンスコード 】B08090305000 (65/87)。と報告している。
そして重大なことは、敗戦の過程で集団自決が発生した事実である。先のアメリカ人目撃証言もそうだが、自ら領事館に火を付け、妻子を道連れにして三宅海軍少佐と差し違えして自刃した石田虎松副領事のケース、あるいは自分が助かるために「女たちが足でまといになるのを恐れて」楼主に拳銃で射殺された酌婦十数人のケース『子守唄の人生』53頁等が記録に残っている。
日本の北サハリン占領
3月末に「尼港の惨劇」が、背信的な奇襲をかけた結果の自殺行為に近い全滅であったことは伏せて報道されると、国民は「過激派」暴虐に憤慨し、マスコミと世論に後押しされた皇軍中央は、4月9日救援部隊の出動を決定した。日本政府の方針は、真相の究明はこれからという段階であるにもかかわらず、すでに確定していた。4月18日2艘の軍艦で出発した日本軍救援部隊(隊長多門二郎大佐)2,000名は、22日北サハリンの亜港に到着。そして占領宣言を公式に発することなくそのまま北サハリンを報復占領した。そして解氷期がはじまった5月13日、後続部隊とともに韃靼海峡を越え対岸のデカストリへ上陸。ニコラエフスクを目指した。
第二次尼港事件:パルチザン指導部の分裂と軍事革命本部体制
ニコラエフスクでは3月16日に開催されたサハリン州ソヴィエト大会以降、市はソヴィエト執行委員会の掌握下にあった。しかしすでに述べたように、共産党極東地方委員会が中央の指示にもとづきソヴィエト化政策を3月末に放棄。4月6日ザバイカル州西部のヴェルフネヂンスクで緩衝国家である極東共和国の建国が宣言された。にもかかわらず、ニコラエフスク・パルチザンはボルシェヴィキをふくめこの決定に反対した。古参共産党員パルチザンのアウッセムの回想録によれば、かれらは緩衝国家の存在に「ソヴィエトの大義への裏切り」を見た。しかし極東の共産党組織が緩衝国家構想の方向へしだいに整除されていくにつれ、ニコラエフスクのボルシェヴィキ・パルチザンにもこれに同調する分子が増大。5月には司令官の権威を脅かすまでになった。
そうしたなか日本軍接近の知らせが入ると、トリャピーッインはソヴィエト執行委員会を解散、軍事革命本部へ5月中旬全権をうつした。その構成は、議長がアナキストのトリャピーッイン、社会革命党マクシマリストのレベヂェヴァが書記、アナーキスト・サークルの影響下にあった農民教員出身のジェレージン、古参ボルシェヴィキのアウッセム、地元農民のベレグートフが委員、以上総勢5名で構成されていた。以上から明らかなように、軍事革命本部はアナキストとエスエル・マクシマリスト連合の傾向が強かった。権力基盤を固めたトリャピーツィンはミージン民警隊長、ブードリ鉱産コミッサールなどボルシェヴィキ緩衝国家派を陰謀罪で逮捕、かくして3派コレクチフ(連合)は崩壊し、パルチザン組織は内部分裂状態へと陥った。そこで軍事革命本部は、パルチザン組織の存亡にかかわる危機的事態に対処すべく反対派に対するテロルを武器とする強権発動を通じて指導体制の維持を図ることになる『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』537頁。
軍事革命本部体制によるテロとニコラエフスクの焦土化
日本軍による再占領が避けられなくなると、ニコラエフスクのパルチザンはニコラエフスクの住民をアムグニ河谷のケルビ村に疎開させ、部隊もこの方面に撤退する措置を講じた。中国人居留民も砲艦とともに尼港から遠くないマゴへと疎開した。トリャピーツィンの思惑では、同村からさらにエスエル・マクシマリストが支配するアムール州ブラゴヴェシチェンスクまで撤退し、そこで同派と合流することで反緩衝国家・反日闘争を継続する予定だったとされる『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』539頁。かかる状況下で、トリャピーッインとその取り巻きは、5月下旬から反対派と目される住民にたいしても恣意的かつ大規模なテロルを敢行。その規模は大きく、犠牲者は3000人とも、後の人民裁判の判決によれば「サハリン州住民の約半数」ともいう。このテロルの一環として5月24日―25日、約130人(内居留民13人)いたといわれる獄中の日本人俘虜も殺害された。一般にいわれるところでは、アムール河畔へ連行され、そこで殺害されたとされる。パルチザン軍は撤収をおえると、6月1から2日にかけて市の大部分に火を放った。三日後の6月5日日本軍が同市に到着したとき、同市は廃墟と化していた。以上から明らかなように、第二次尼港事件の要因としては、内圧(パルチザン勢力の内部分裂)・外圧(日本軍の接近)によりパニックに陥ったパルチザン指導部が、大量の住民とともに撤退する混乱のなか前後の見境もなく粛清へと突っ走った結果発生した惨劇であると思われる。
軍事革命本部体制の終焉と指導者の処刑
6月上旬に反トリャピーツィン派の秘密組織がトリャピーツィン指導部の転覆工作を開始。6月末までにアムグイ=トゥルイ戦線のパルチザンほぼ全員が彼の逮捕を支持するに至った。そして7月2日にボリシェヴィキのアンドレーエフを長とする臨時軍事革命本部が結成され、逮捕を実行するための特殊チームが編成された。その中核となったのが朝鮮人パルチザン部隊(韓人第二中隊)であったことはすでに述べたとおりである。結果、7月3日から4日にかけての夜、避難先のケルビでトリャピーツィン指導部は逮捕された。6日に行われた兵士総会は本部の活動を承認し、トリャピーツィン指導部を公開人民裁判にかけることを決議。ケルビにはニコラエフスクからの引揚者5,000人がいたが、全住民から代表が選出され、8日に「103人」から構成される法廷が開廷。トリャピーツィン、レベヂェヴァ、ジェレージンら7名に対して銃殺刑が宣告され、刑は翌日執行された。刑の執行の2日後、ウラジヴォストークの共産党沿海州協議会は決議し、トリャピーツィンとレベヂェヴァがニコラエフスクにおける正式のソヴィエト政権代表ではなく、ソヴィエト政権中央諸組織の指令には意図的にたえず反対してきたこと、彼らが党とは無縁の冒険主義者であることを内外にアピールした。かくしてニコラエフスクの軍事革命本部体制は清算された。しかしそれが日本人に与えた衝撃は大きかった。
日本における反過激派キャンペーンと政府による同事件の活用
監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書
「大正九年五月24日午后 1 2 時 忘ルナ」3月の時点でマスコミは「尼港の惨劇」を伝えていた。しかし6月救援隊によって現地の凄惨な状況が伝えられると、新聞各紙はこれを大々的に報道。「凶悪言語に絶する尼港の過激派」、「板壁に残る同胞の絶筆『五月二十四日を忘れるな』」(『大阪朝日』、6月7日、14日)といった4段抜きの見出しが読者の目を引いた。また報道キャンペーンに加えて、殉難者の慰霊祭と従軍記者の「真相報告会」が連日のように開催された。たとえば石田副領事の遺児芳子が書いた作文「敵を討って下さい」が全国へ流布されて涙をさそい、このようにしてかきたてられた「過激派」にたいする敵意と憎悪はたちまち国民的世論となった。
政府は6月半ばの時点で同事件の真相をある程度把握していたが、あえて事実を隠蔽。シベリア干渉を継続するために同事件を徹底的に利用した。結果、きびしい検閲体制のなか、戦後にいたるまで真相が国民に知らされる機会が訪れることはついになかった『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』540頁。
参考文献
- 原暉之『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』筑摩書房、1989年
- 笠原十九司『東アジア近代史における虐殺の諸相』(上掲論文を再整理した論文)http://72.14.235.132/search?q=cache:DCafnpgpK2YJ:www.cgs.c.u-tokyo.ac.jp/pdf/2004_09_05/Kasahara%2520Paper%25202004.09.05.pdf+%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E8%AB%B8%E7%9B%B8&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp)
- 参謀本部編『昭和三年支那事変出兵史』巌南堂書店、1971年
- 松永伍一『子守唄の人生』中央公論社、1976
脚註
外部リンク
- 標題:表紙(アジ暦 尼港ニ於ケル帝国官民虐殺事件 第一巻表紙)【 レファレンスコード 】B08090304600
- 標題:尼港事件ノ顛末(アジ暦)【 レファレンスコード 】A03033631800
- 標題:22.石田芳子(アジ暦)【 レファレンスコード 】B09072854300
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