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密教とは、秘密仏教の略称であり天台寺門宗のHP解説、「秘密の教え」を意味するものともされる。現在の仏教学では「後期大乗」に分類し呼称されており、密教徒の用語では「金剛乗」(vajrayāna、ヴァジラヤーナ)ともいう。これは、大乗(mahāyāna)、小乗(hīnayāna)と対比した表現であり、あるいは真言乗(mantrayāna、マントラヤーナ)ともいう。
英語ではEsoteric buddhismと呼び、9世紀以降の後期密教についてはTantric Buddhismタントラ仏教と呼ばれている。

概要


一般の大乗仏教(顕教)が民衆に向かって広く教義を言葉や文字で説くのに対して、密教は極めて神秘主義的・象徴主義的な教義を教団内部の師資相承によって伝持する点に特徴がある。「秘密の教え」という意味の表現が用いられる理由としては、先のように顕教が経典類の文字によって全ての信者に教えが開かれているのに対して、密教は文字によらない灌頂の儀式を伴う『印信』や『三昧耶戒』等の象徴的な教えを旨とし、それを授かった者以外には示してはならないとされた点で「秘密の教え」だともされる。

これは、灌頂が儀式を通じてその中で段階的に三帰依戒・五戒八斎戒の『小乗戒』と、十善戒菩提心戒菩薩戒の『大乗戒』と、中期密教に始まる十四根本堕八支粗罪戒等の基礎の『三昧耶戒』と、それに加えてチベット密教に代表される無上瑜伽タントラでは阿闍梨戒五智如来の三昧耶戒身口意三業三昧耶戒・各タントラ経典に説く戒律(例:「大幻化網戒」)・師事法五十頌等々の後期密教における発展的な三昧耶戒である『無上瑜伽戒』(「無上密戒」とも表記)の資格を与えて、心地を明らかにすることでその覚性を促し、密教に必要な諸々の戒律を与えることによってその対象を限定した上で、「秘密とされる灌頂の授者を生きたまま(即身)諸仏の曼荼羅に生じせしめる」からである。

それ故、弘法大師・空海は『弁顕密二教論』の中で顕教と異なる点を、「密教の三原則」として以下の様に挙げている。

  1. 法身説法(法身は、自ら説法している。)
  2. 果分可説(仏道の結果である覚りは、説くことができる。)
  3. 即身成仏(この身このままで、仏となることができる。)

また別の面からは、言語では表現できない「仏の覚り」それ自体を伝えるもので、「仏の覚り」とその方法が凡夫の理解を超えているという点で、「秘密の教え」だからだとも言う『哲学・思想事典』

密教においては、師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい、教えが余すところなく伝えられたことを称して「瀉瓶の如し(しゃびょう:瓶から瓶へ水を漏らさず移しかえたようだ)」という。いわゆるインド密教を継承したチベット仏教(密教)が、かって「ラマ教」と俗称されたのは、チベット仏教では師資相承における個別の伝承(血脈)を特に重んじ、自身の「師僧(ラマ:上師と漢訳)」に対して献身的に帰依するという特徴を捉えたものである。

これらとは異なり、密教の「密」とは、顕に対する密ではなく、ソグド語で「日、太陽」を意味する「ミール」(Mir)を漢字で「密、蜜」と音訳した物とする説もある。

密教は一般に仏教のひとつだとされている。だが、密教が仏教に含まれるかどうかは学者の間でも見解が分かれる場合があるのだという(掲載ページを表示していただきたい。それと、どの学者の考え方なのかも。末木本人?仏教でないとしたら、何教だと主張されているの?そのあたりも記述していただきたい。仏教の定義である三帰依四法印があれば、形態の違いによらずに仏教とすべきではないのですか?)。(末木文美士『日本仏教史―思想史としてのアプローチ―』)

インド密教の歴史


概略を説明すると、密教成立の背景には、インド仏教後期においてヒンドゥー教の隆盛によって仏教が圧迫された社会情勢がある。ヒンドゥー教の要素を仏教に取り込むことで、インド仏教の再興を図ったのが密教である。しかし結果的には、インド仏教の密教化はヒンドゥー教の隆盛とインド仏教の衰退を変えられなかった。やがて、西アジアからのイスラム勢力のインド北部から侵攻してきたイスラム教徒政権(デリー・スルタン朝)とインド南部のヒンドゥー教徒政権との政治・外交上の挟撃に遭った。当時のイスラム教徒から偶像崇拝や呪術要素を理由として武力的な弾圧を受けて、インドにおける密教は最後の段階のインド仏教として歴史的には消滅に追い込まれる結果になった。

初期密教


呪術的な要素が仏教に取り入れられた段階で形成されていった初期密教(雑密)は、特に体系化されたものではなく、祭祀宗教であるバラモン教マントラに影響を受けて各仏尊の真言陀羅尼を唱えることで現世利益を心願成就するものであった。密教経典があった訳ではなく、各種の大乗経典に咒や陀羅尼が説かれていた。

中期密教


密教は新興のヒンドゥー教に対抗できるように、本格的な仏教として理論体系化が試みられて中期密教が誕生した。中期密教では釈尊(Bhagavān)が説法する形式をとる大乗経典とは異なって、その別名を大日如来と呼ぶ大毘盧遮那仏(Mahāvairocana)が説法する形で密教経典を編纂していった。『大日経』や『初会金剛頂経』(Sarvatathāgatatattvasaṃgraha)、またその註釈書が成立すると、多様な仏尊を擁する密教の世界観を示す曼荼羅が誕生し、一切如来(大日如来を中心とした五仏:五智如来)からあらゆる諸尊が生み出されるという形で、密教における仏尊の階層化・体系化が進んでいった。中期密教は僧侶向けに複雑化した仏教体系となった一方で、かえってインドの大衆層への普及・浸透ができず、日常祭祀や民間信仰に重点をおいた大衆重視のヒンドゥー教の隆盛・拡大という潮流を結果的には変えられなかった密教という潮流にあっても、当時のインド仏教界では伝統的な部派仏教の1つである正量部の勢力が強かったという見解もある。。そのため、インドでのヒンドゥー教の隆盛に対抗するため、シヴァを倒す降三世明王ガネーシャを踏むマハーカーラ(大黒天)をはじめとして仏道修行の保護と怨敵降伏を祈願する憤怒尊や護法尊が登場した。

後期密教


中期密教ではヒンドゥー教の隆盛に対抗できなくなると、理論より実践を重視した無上瑜伽タントラの経典類を中心とする後期密教が誕生した。後期密教では仏性の原理の追求が図られ、それに伴って法身普賢金剛薩埵金剛総持が最勝本初仏として最も尊崇されることになった。また、インドにおいてはヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰から影響を受けて、男性原理(精神・理性・方便)と、女性原理(肉体・感情・般若)との合体(性交)を修行する無上瑜伽の修行(瞑想・修法)も無上瑜伽タントラとしての後期密教の特徴であり、いわゆる男尊(方便)と女尊(智慧)が交合することによって不二智象徴的に表す歓喜仏も多数登場した。顕教では既に形骸化して名称のみであった瑜伽行が、密教においては内的瑜伽やタントラの修行方法が探究されるにつれて、下半身のチャクラからプラーナを頭頂に導くこと(ジョル)が最上とされ、無上瑜伽タントラの理解が分かれていた初期の段階では、しばしば性交がその最も効果的な方法と誤解されていた。そして時には男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養としてセックスを強要する破戒行為にまで及んだために、インドの仏教徒の間には後期密教を離れて戒律を重視する部派仏教上座部仏教)や、大乗仏教への回帰もみられた。それ故、僧侶の破戒に対する批判を受けて、無上瑜伽の教義もまた実際の性行為ではなく、象徴を旨とするクンダリニー・ヨーガによる生理的な瞑想へと移行する動きも生じたが、これらの諸問題はそのままチベット仏教へと引き継がれ、後に解決をみることになった。

更には、当時の政治社会情勢からイスラム勢力の侵攻によるインド仏教の崩壊が予見されていたため、最後の密教経典である時輪タントラ(カーラ・チャクラ)の中でイスラムの隆盛とインド仏教の崩壊、インド仏教復興迄の期間(末法時代)は密教によってのみ往来が可能とされる秘密の仏教国土・理想郷シャンバラの概念、シャンバラの第32代の王となるルドラ・チャクリン(転輪聖王)、ルドラ・チャクリンによる侵略者(イスラム教徒)への反撃、ルドラ・チャクリンが最終戦争での王とその支持者を破壊する予言、そして未来におけるインド仏教の復興、地上における秩序の回復、世界の調和と平和の到来、等が説かれた。

インド北部におけるイスラム勢力の侵攻・破壊活動によってインドでは密教を含む仏教は途絶したが、さらに発展した後期密教の体系は今日もチベット仏教の中に見ることができる。

日本の密教

密教の伝来


日本に密教が初めて紹介されたのは、から帰国した最澄(伝教大師)によるものであった。当時の皇族や貴族は、最澄が本格的に修学した天台教学よりも、むしろ現世利益も重視する密教、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教念仏)に関心を寄せた。しかし、天台教学が主であった最澄は密教を本格的に修学していた訳ではなかった。よって、本格的に紹介されることになるのは、唐における密教の拠点であった青龍寺において密教を本格的に修学した空海(弘法大師)が、806年に日本に帰国して本格的に日本に紹介されてからであるとされる。
あるいは空海に後れをとるまいと唐に留学し密教を学んだ円行円仁(慈覚大師)、恵運円珍(智証大師)、宗叡らの活躍も挙げられることもある。

日本に伝わったのは中期密教であり、唐代には儒教の影響も強かったので後期密教はタントラ教が性道徳に反するとして唐では受けいられなかったという説密教とマンダラ(NHKライブラリー), 頼富本宏, 2003年4月, ISBN 978-4140841617があるが、真言宗の開祖である空海と、チベットにインド密教を初めて伝え、ニンマ派の開祖でもあるグル・パドマサンバヴァ(漢名:蓮華生大師、800-834年頃までチベットに滞在)とは同時代の人物であり、空海の師僧である恵果の監修による「大悲胎蔵曼荼羅」には、既にニンマ派の「八大ヘールカ」に相当すると見られる尊挌が描かれている点、後期密教の代表的な守護尊(イダム)の一つであるプルパ金剛(ヴァジュラ・キラヤ、漢名;普巴金剛)の印相と真言が寛平法皇の古次第である『小僧次第』等に散見するなど、チベット密教の解明と共に後期密教の伝播に関する説は見直されて来ている。

江戸時代には日本の戒律復興運動に併せて、清代に行なわれていた中国密教の「四大法」等が日本にもたらされた。禅密兼修であった黄檗宗の開祖の隠元による『千手千眼観音法』の伝来は鉄眼版の大蔵経に実修用の大型図像を残し、宝蔵院が今も当時の図像や印信等を伝えている。天台宗の豪潮律師は長崎出島で中国僧から中国密教と「出家戒」を授かり、時の天皇の師として尊敬を集めると共に、南海の龍と呼ばれた尾張公の庇護をうけて尾張と江戸で『准胝法』(準胝観音法)を広めて多くの弟子を養成した。豪潮の残した『准胝懺法』の資料は明代の中国の資料と内容が一致する。また、真言律宗も中国から直接「出家戒」を伝えて、開祖である叡尊の悲願を果たして宗風を盛んにした。

密教の宗派


日本の伝統的な宗派としては、空海が唐の青龍寺恵果に受法して請来し、真言密教として体系付けた真言宗東密即身成仏鎮護国家を二大テーゼとしている)と、最澄によって創始され、円仁、円珍、安然らによって完成された日本天台宗台密とも呼ばれる)が密教に分類される。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は天台・密教・戒律・禅の四宗相承である点が異なっている。なお、東密とは「東寺(教王護国寺)の密教」、台密は「天台密教」の意味である。この体系的に請来されて完成された東密、台密を純密(じゅんみつ)というのに対し、純密以前に断片的に請来され信仰された奈良時代の密教を雑密(ぞうみつ)、鑑真の請来から入唐八家までを古密教(こみっきょう)という。日本の密教は霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の神仏習合の主体ともなった。各地の寺院権現に伝わる山岳曼荼羅には両方の要素や浄土信仰の影響が認められる。

チベットの密教


チベット仏教は、主に「無上瑜伽タントラ」と呼ばれるインドの後期密教を継承している。

中国の密教


中国においては、南北朝時代から、数は限られているものの、初期の密教経典が翻訳され、紹介されてはいた。その後、善無畏一行が『大日経』の翻訳を行い、さらに金剛智不空が『金剛頂経』系密教を紹介することで、本格的に伝来することになった。なかでも不空は、唐の王室の帰依を得て、させさまざまな力を得たことで、中国密教の最盛期をもたらすことになった。だがその後、武宗が「会昌の廃仏」を行ったため一時期は衰退した。そしてモンゴル系のの時代以降、異民族による政権の朝廷内ではチベット系の密教が採用されることになった。やがて明代になるとヨーロッパ文化の流入により、危機感を抱いた中国人らによって各分野でルネッサンスに匹敵する大掛かりな復古運動が中国に起こり、民間に残されていた唐代からの密教が再編集され中国密教の「四大法」と呼ばれる『准胝法』や、日本にも空海が請来した『穢跡金剛法』(日本名:「金剛童子法」巻子本、国宝)や、最澄が請来した『千手千眼観音法』、『尊勝仏母法』をはじめとする古法が中国でも保存・継承された。この時代に影響のあった著作としては『顕密圓通成仏論』があり、この著作の影響によって中国ではこれ以降は急速に、密教と禅を併せる「禅密兼修」、密教と浄土を併せる「浄密兼修」、禅と浄土を併せる「禅浄兼修」が行なわれるようになり、中国仏教に見られる「中華思想」に彩られた仏教が民衆に受け入れられ、その後は文革による法難を経て現在に至る。

中華人民共和国では、唐代に盛んだった中期密教を唐密宗(唐密:タンミィ)、現代まで続くチベット仏教における密教を西蔵密宗(西密:シーミィ)と呼んでいる。前者は清代以降の浄土教の台頭、現世利益や呪術の面でライバルであった道教に押されて中国大陸では衰退・途絶したが、清朝末期から民国初期にかけて香港や台湾へと伝えられた。清朝末期に創設された「西蔵学会」のメンバーでもあった大勇法師、蒋介石の師でもあった法賢上師、禅密兼修の寂光上師等々の血脈が現在も残っており、唐代の遺風を伝えている。

一方、大陸でも上海市静安寺にみられるように、日本の真言宗(東密)との交流を通じて唐密宗の復興を試みる新しい動きもある。また西蔵密宗はチベット動乱や、文革などの政府の政策を乗り越えて、チベット自治区やチベット人を中心に現在もチベット密教の信仰が続いている。

その他の国の密教


密教は韓国越南(ベトナム)など漢字文化圏の国々中心に広がっている。このほか、モンゴルでは中世のモンゴル帝国でチベット仏教が国教であった流れから、現在もチベット密教の信仰が続いている。
また、カンボジアのアンコール王朝にも密教は伝来しており、密教で用いられる祭具や、とくにヘーヴァジュラを象った銅像や祭具が出土している。また、欧米での展開も起きている。 チベットにおける1950~1951年のチベット侵攻 から1959年のチベット動乱という大混乱の後は、ダライ・ラマ14世をはじめとする多くのチベット僧がチベット国外へと出て活動したことにより、ヨーロッパや米国で広範囲な布教がなされるようになり、欧米の思想界にも様々な影響を与えることになった。アメリカ合衆国ニューヨークでは、ダライ・ラマ14世と親交のあるロバート・サーマンにより1987年チベットハウスが設立・運営され、チベット密教も含めチベットの思想や文化が広報されている。そのため、現在は欧米諸国で「Esoteric Budhism」と言う場合には、主にチベット密教のことを指している。

インド錬金術に関する仮説


なお、インドの錬金術が密教となり、密教は錬金術そのものであったとの仮説密教の秘密の扉を開く―アーユルヴェーダの秘鍵 佐藤 任 ISBN 978-4915497254があるが、一般的な見解ではないし、また仏教学の研究でも検証されていない。

「密教」のその他の用法


密教という言葉を「秘密宗教」としてとらえ転じて、地中海地域の諸宗教(オルフェウス教など)、カバラ道教ブードゥー教など、神秘主義象徴主義的な教義を持つ仏教以外の宗教宗派も、密教と呼ばれる場合がある。それゆえ両者を区別するために、仏教以外の教えを密儀宗教みつぎしゅうきょう)と言い替える人もいる。 

具体例として「図説古代密儀宗教」(ジョスリン・ゴドウィン、吉村正和訳 平凡社 1995年)

脚注・参考文献

関連項目


外部リンク



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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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