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壱岐イルカ事件(いきいるかじけん)は1980年に駆除の為に捕獲されたイルカを動物の権利活動家が逃がした事件である。尚、この項目では事件の元となった壱岐島の漁民によるイルカ駆除についても記す。
イルカ駆除の始まり
長崎県の壱岐島ではイルカによるブリの食害が1965年に顕在化し、和歌山県太地や静岡県富戸といった地域から学んだイルカ追い込み漁を1976年から始めた。追い込み漁による駆除はそれなりに効果があり、しばらくはイルカが近寄ってこなくなるものの、死体処理に手間がかかり、他の漁業に弊害が出たとされる。1978年、世界的に壱岐のイルカ漁の様子が知られ、特に雑誌『ナショナル・ジオグラフィック』誌の1979年4月号の特集『イルカとその受難』における記述がその自体を広く知らしめたという見方もある『鯨の自然誌 海に戻った哺乳類』神谷敏郎 中央公論社 13‐16頁ISBN 4121010728。これらの報道を見て、壱岐島に欧米の環境保護や動物の権利擁護の活動家が漁師たちを説得しに来たもっとも、双方の論理は噛み合っておらず、川端裕人が取材した1996年の時点においても、当時の関係者の一部が触れられたくない問題として捉えている点からもそれは伺える。。また、日本国内においては駆除の為だけにイルカを殺すという点に非難が集まった。
欧米の活動家のなかでも、もっとも積極的な活動家であり、動物の権利の立場から反対するデクスター・ケイトはこの年に2度来訪し、本当の原因はブリの乱獲にあると看破し、イルカに本来は優先権があると考えはしたものの、現実的な対策として漁師が納得できる解決策を考え、2度目の12月の来訪時に、異種間コミュニケーションの研究で知られるジム・ノイマンと共に来訪し、音楽でイルカをコントロールできれば、逆にイルカを漁に生かせるであろうと実行してみた。だが、翌年も同様の交信を試みたものの失敗に終った。
壱岐のイルカ事件
1980年2月29日、デクスター・ケイトは漁師のイルカによる財政的な損失を補填する「イルカ損害保険」や「養殖業業の育成」、「ブリ資源の再建」といった、漁師がイルカを殺さずに済むように支援する案を起草し、壱岐の漁民の承認の後に日本政府に掛け合う為に家族で来訪したものの、既に壱岐では2000万円を投じたイルカ粉砕機が稼動し、追い込み漁はビジネスと化し、ケイトの案は無意味なものとなっていた。また、1400頭のオキゴンドウとバンドウイルカの追い込み漁による駆除が行われている最中であり、その夜ケイトはゴムボートで現場へ向かい、残り千頭程が捕らえられた網を切り、300頭程度のイルカを逃がし、そして翌3月1日に逮捕された。
事件の後
この事件で日本で始めて「動物の権利」が法廷で議論されたが、ケイトが自覚するように裁判は終始平行線を辿り、6回で結審し「威力業務妨害」のみを重視した有罪判決になり、ケイトは国外追放になった。1972年から1982年の間に6000頭を超えるイルカが殺され、その三分の二がバンドウイルカで、他にオキゴンドウ、ハナゴンドウ、カマイルカなどが含まれていたが、胃の内容物から本当にブリを食べていたのはオキゴンドウだけであった『イルカを救ういくつかの方法』M・ドナヒュー、A・フューラー 水口博也訳 講談社 114、115頁 ISBN 4062080125 オキゴンドウは顎が丈夫であり大型魚類をかじり取ることができるが、他の捕殺されたイルカにはそれは出来ないのである。。
その後、壱岐周辺のブリの減少と共に、イルカも殆ど来なくなった。ブリの減少の理由は不明としながらも、壱岐周辺に他県や朝鮮半島の船当時、日本ではEEZを設定していなかった為に近隣の韓国などが沖合漁業に進出してきて、鳥取、島根付近(つまり壱岐周辺)で操業するようになっていた。(『魚の経済学』 山下東子 日本評論社 79-82頁 ISBN 4535556091)もブリを捕りに来ていた為、壱岐の役場では乱獲が原因だろうとしており、川端裕人はかつてのケイトの指摘と同じであるとしている。
それまでの通説では国際的な非難の中で漁が縮小されたとされるが、このように実際には漁業資源の減少に伴ってイルカが来なくなった事がイルカ漁の縮小の原因であった。
関連事項
- 梅崎義人(水産ジャーナリスト)によると、反捕鯨運動は黄色人種差別に基づく、レイシズムによるものであり、ケイトによるこの事件が論拠に挙げられている『動物保護運動の虚像‐その源流と真の狙い‐』梅崎義人、成山堂書店 12‐15頁 ISBN 442598093X。ただし、梅崎はケイトが当初からイルカの開放を目的としていたと述べているが、これは現場取材に基づく川端の記述とは異なる。また、梅崎は壱岐のイルカ漁を許さず、アメリカの漁業によるイルカの混穫を許すのも人種差別によるとしているが、壱岐の事件は活動家の間ではイルカ混穫と対になる問題と捉えられていた事実を川端が指摘しており、『ナショナル・ジオグラフィック』1979年4月号の特集においてもそう取り上げられているため、誤った認識である。
- 壱岐のイルカ追い込み漁を批判する立場から、歌手のオリビア・ニュートン=ジョンが来日を取りやめたが、後に壱岐の漁民が生きるための手段であった事を知り、日本公演の際にイルカと人間が共存できる研究の為に千葉県の海洋生物研究所に2万ドル寄付した『海からの使者イルカ』藤原英司 朝日新聞社 261頁 ISBN 402260770Xオリビア事件簿:イルカ事件 http://www.icoanmusic.com/olivianewton-john/jp/bio.files/dolphin.htm</ref>。
- 神谷敏郎によると、1975年にデクスター・ケイトは「東京大学医学部解剖学研究室」の神谷の元に訪れ、「日本でのイルカを取り巻く環境と、日本人の鯨に関する関わり方を視察しに来た」と語り、保護問題や鯨の研究について語り合ったという。ケイトは日本では海洋野生動物ではなく、水産資源としてみられがちであるという、現在にも連なる点を指摘していったとされる。
- グリーンピースと袂を別ちシー・シェパードを設立したばかりのポール・ワトソンも当時壱岐を訪れ、イルカを殺さないように漁協に要請した。その後、ワトソンは自らの手で壱岐のイルカ漁を停止させたと公表していた(事実は前述の通り漁業資源減少に伴うイルカの減少の為)『シーシェパードの正体』 佐々木正明 扶桑社 pp.167-168 ISBN 4594062148。
- デクスター・ケイトと共に来日し、イルカとの交信を試みたジム・ノイマンは自著で水中の船舶のエンジン音によるイルカへの悪影響を指摘しておきながら、自らのエレキギターによる演奏はイルカにいい影響を与えるとし、その根拠が薄弱な点が と学会(当時)の植木不等式により指摘されている『トンデモ本の世界』と学会 pp.401-402 洋泉社 ISBN 4862480241。
参考資料
- 『イルカとぼくらの微妙な関係』「ケイトの青春」川端裕人、時事通信社 ISBN 4788797291
特別な記述がない限り、川端の取材によるこの書籍の記述を基にしている。
脚注
エコテロリスト
昭和時代戦後の事件
1980年の日本の事件
壱岐市の歴史
鯨
動物の権利