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上原 美優(うえはら みゆ、1987年5月2日 - 2011年5月12日)は、日本タレントグラビアアイドル。本名、藤崎 睦美(ふじさき むつみ)南日本新聞』2011年5月13日社会面。。愛称はみゅうみゅう美優ちゃんなど。

プラチナムプロダクション所属。 鹿児島県種子島熊毛郡中種子町野間)出身。

人物・来歴

概要


貧乏アイドル」として貧しい家庭でのエピソードを明るく話し、プラチナムプロダクションの看板タレントの一角までに成長する。芸能界デビューまでの道のり、およびその後も死亡が確認されるまで波乱万丈の人生を送っていた。

誕生から高校進学まで


1987年5月2日、10人兄妹(4男6女)の末っ子として誕生。本名の睦美(むつみ)は六女に因んで付けられた。この時父親は55歳、母親は43歳だった。大家族であるため家計は苦しかった。「下着が足りずノーパンで通学した」「種子島宇宙センターでのロケット打ち上げ時には振動で家が揺れるため、家族全員で家具を支えた」などのエピソードがあるひと-種子島出身の大家族貧乏アイドル 上原美優さん - 2009年6月27日付 西日本新聞朝刊

鹿児島市高校に進学し、自ら学費を稼ぎながら通学していた。入学後、2人組の男に襲われる被害に遭う。この「最悪の出来事」をきっかけに高校を中退した

高校中退から芸能界デビューまで


デビュー以降


2006年、桜井ひな藤崎まやと共にフォーミュラ・ニッポンディレクシブレーシングガールズ」としてレースクイーンデビューをするが、チームの突然の撤退により第5戦までで活動終了する。2007年、「sabraブロガール選手権」出場。その後ブランクを経て「種子島出身の貧乏アイドル」として知名度を上げる。

2007年のクリスマス(当時20歳)に恋人に振られた寂しさから睡眠薬を服用し自殺を図ったが一命を取り止めた

2008年夏頃からテレビのバラエティ番組にも多数出演するようになった。

2009年5月には自叙伝である『10人兄弟貧乏アイドル☆ 私、イケナイ少女だったんでしょうか?』が出版される。「泣きながら書いた」という父や母にも黙っていた体験を綴っている。

しかし、その母親が2010年3月29日に心筋梗塞で他界した。本人は仕事で最期を看取れなかったものの、家族全員で揃って葬儀を終えたが、彼女のショックは大きく以後精神的に不安定な様子が見られたという

自殺


2011年5月11日23時頃、東京都目黒区のマンション自室で交際中の一般男性と過ごしていたが、「2時間ほど一人にして欲しい」と男性を外出させたという。その後、外出先の男性の携帯電話に死をほのめかすメールが着信し、折り返し電話をかけても彼女が出なかったため男性が上原宅に向かったところ、自室のドアにスカーフとベルトで首を吊っており、5月12日午前3時37分に病院で死亡が確認された。。葬儀は本人の地元の種子島で同年5月15日に行われた。遺書はないと報道されているが、解読不明のなぐり書きのようなメモを残していた。また、所持品の手帳には「お母さんが死んで辛い。このままのスタイルで仕事して先行きどうなるか」というメモが残されていたという。父親は種子島の実家で取材に応じ、死の前日午前中に彼女が「もう種子島に帰りたい、お母さんのところに行きたい」と電話をかけてきたため、慰めつつ故郷に帰ってくるよう促したところ同日夜間には元気を取り戻したかのような電話を再びかけてきていたことを明かした。上原の遺体は遺族により、フェリーで故郷種子島に搬送された。通夜は14日の午後6時30分から、葬儀は親族・近親者のみの密葬でそれぞれ行われ、芸能関係者の参列・供花は辞退した同じ所属事務所の若槻千夏木下優樹菜は参列を希望したが、親族が辞退した。

直後の1週間、自殺が目に見えて増加(一日平均82人だったのが124人)。20代から30代の女性が目立ち、内閣府参与でNPO自殺対策支援センター ライフリンク代表の清水康之はウェルテル効果の発生を指摘した自殺者急増、人気女性タレントの影響? 内閣府参与報告 朝日新聞2011年7月4日

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