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『ヴェルサイユ宮殿、鏡の間における講和条約調印、1919年6月28日』。作・
ヴェルサイユ条約(ヴェルサイユじょうやく、)は、1919年6月28日にフランスのヴェルサイユで調印された、第一次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約の通称。正文はフランス語と英語であり、正式な条約名はそれぞれ、であるが、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で調印されたことによって、ヴェルサイユ条約と呼ばれる。日本における正式条約名は同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約(大正9年条約第1号)。この条約によりもたらされた国際秩序をヴェルサイユ体制という。
背景
ドイツとアメリカの休戦交渉
1916年12月12日、ドイツ帝国が和平の探りを入れるために覚書を発表すると、12月18日に中立国であったアメリカ合衆国大統領大統領ウッドロウ・ウィルソンは平和覚書を発表し、和平仲介を買って出た。しかしこの際は連合国の拒否に遭い、和平は実現しなかった。ウィルソンはその後も和平実現の望みを捨てず、1917年1月22日の上院演説で「国際連盟設立」、公海の自由、世界規模の民主化、ポーランドの自由化を求め、公正な「勝利無き講和」を訴えた。その後アメリカは連合国側として参戦することになるが、ウィルソンはその後も公正な講和を唱え、1918年1月8日には「十四か条の平和原則」を発表し、公正な講和を目指す旨をアピールした。1918年になるとドイツの敗北は明らかになり、9月29日にスパで開かれていた大本営はウィルソンに講和交渉要請を決定した。10月3日に首相となったバーデン公子マックスはアメリカに講和のための覚書を送付し、アメリカとの間で覚書交換がはじまった。この講和交渉の中でアメリカは「十四か条の平和原則」を講和条約の基礎とした上で、専制的と見られたドイツの体制変革を要求し、10月22日にバーデン公子マックスもこれを受諾した。ただしこの時点ではイギリス・フランスといった連合国間での合意は行われておらず、ウィルソンは友人であった名誉大佐をパリに派遣した。ハウスはかなりの妥協と引き替えに「十四か条の平和原則」を講和の前提とする合意を取り付けた。10月27日には講和に反対するエーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長が解任され、10月28日には首相の権限が強化された憲法改正が行われ、専制色が薄められた。
11月5日にはキール軍港で水兵の反乱が起きたが()、同日にアメリカ国務長官ロバート・ランシングから休戦条件の詳細について連合国が保障かつ強制する無制限の権力を有するという、事実上の無条件降伏に近い内容を確認する「ランシング・ノート」が送付された。11月7日にマティアス・エルツベルガー無任所相と新参謀次長ヴィルヘルム・グレーナー中将がパリ郊外のコンピエーニュの森に派遣され、連合国軍総司令官フェルディナン・フォッシュ元帥との休戦交渉を開始した。
その後首都ベルリンでも皇帝対伊を求める声が高まり、11月9日にはバーデン公子マックスが首相を辞任してフリードリヒ・エーベルトが新首相となった。同日にはフィリップ・シャイデマンが独断で共和制を宣言(ドイツ革命)し、翌日には皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命した。
共和国政府を率いることになったエーベルトの臨時政府は休戦交渉を引き継ぐこととなり、エルツベルガーらに交渉の継続を命令した。交渉の末、11月11日に休戦協定が結ばれた。この休戦協定は占領地やアルザス=ロレーヌからの即時撤退を含む、抗戦継続を不可能にする大変厳しいものであったが、「十四か条の平和原則」と、1918年2月11日の「四原則」と「民族自決・無併合・無軍税・無懲罰的損害賠償」、9月27日の「五原則」を加えた「ウィルソン綱領」が将来の講和条約の原則となるとされた吉川、1、291-292p。
休戦協定締結とドイツ側の対応
エーベルトの臨時政府は講和交渉の担当者としてウルリヒ・フォン・ブロックドルフ=ランツァウ外相を任命し、独自に講和条件の想定を行った。
- 領土
- エルザス地方(アルザス)や、東部国境については住民投票で帰属を決定する。またポーランドの海への出口は保障する。ただしザール地方等のフランスの要求には応じられないしドイツ系オーストリアのドイツへの合併は認められなければならない。
- 賠償
- 戦争責任
- ドイツ独立社会民主党や急進左派は「旧体制」の戦争責任を認める傾向があるが、政府やドイツ社会民主党はこれを支持せず、戦争責任は認めない。
その後、講和会議の間までドイツ国内の政治家は「公正な講和」を求める主張をたびたび行っていた。またこの間、クルト・アイスナーらのバイエルン自由国政府が独自に連合国と講和する動きを見せたが、他のドイツ諸邦や連合国の支持は得られなかった。
条約策定
パリ講和会議における各国首脳、左から順にロイド・ジョージ(イギリス)、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド(イタリア)、ジョルジュ・クレマンソー(フランス)、ウッドロウ・ウィルソン(アメリカ)
講和条約の詳細策定は、1919年1月18日からパリにおいて開催されたパリ講和会議で行われた。ウィルソン、デビッド・ロイド・ジョージイギリス首相、ジョルジュ・クレマンソーフランス首相ら連合国首脳が6か月にわたって会議を行ったが、まず連合国間で講和条件を話し合うべきとするイギリス・フランスの主張と、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊してその後の政府が選出されないという混乱もあったため、ドイツ代表は講和会議に招待されなかった。ブロックドルフ=ランツァウを代表とするドイツ代表団は、5月7日になって条約案を提示された。ドイツ側はこの条約に不満を持ち、特に戦争責任条項については激しい抵抗を見せた。しかしウィルソンやクレマンソーは強硬であり、条約の細部の修正にしか応じなかった。ドイツ民主党は党議で反対を決定した。しかし、軍部はこれ以上の継戦は不可能であるとの認識を示し「地図で読む世界の歴史 ヒトラーと第三帝国」pp16 リチャード・オウヴァリー著 永井清彦監訳 秀岡尚子訳 2000年2月18日初版発行 河出書房新社
、これを受けてドイツ社会民主党および中央党は受諾を決め、社会民主党出身だった首相フィリップ・シャイデマンが抗議のため辞任するなどの反対があったものの、6月22日に議会で条約受諾が決定された。「ワイマル共和国」pp57-58 林健太郎著 昭和38年11月18日初版 中公新書
条約調印式は1919年6月28日に行われた。その後、各国での批准手続きの後、1920年1月20日に発効した。中華民国は山東問題の解決を不服として署名しなかった。またアメリカ合衆国は国際連盟の批准できなかった。後に条約を結んで講和している。
内容
国際連盟
条約の第一篇(1条から26条)は国際連盟規約に割かれており、これはサン=ジェルマン条約、ヌイイ条約、トリアノン条約、セーヴル条約と同様の構成である。付属書ではドイツを除く平和条約署名国とともに、複数の国を原加盟国として招請している。
ドイツの領土
ドイツの喪失した領土
第二篇(27条から30条)はドイツの境界を規定している。一部の地域は住民投票による帰属決定が行われることとなった。
ベルギー国境
オイペン、、マルメディをつなぐ線から以西を割譲し、ルクセンブルクに至る線を国境とする。
ルクセンブルク・スイス国境
1870年7月18日に定められ、1914年8月3日(第一次世界大戦開戦前日)時点での国境を維持する。
オーストリア国境
チェコスロバキアとの国境を考慮し、1914年8月3日時点の国境を維持する。
チェコスロバキア国境
1914年8月3日時点でのドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国国境を考慮する。またのうち、 現在のに当たる地方(316か333平方km)を割譲する。
ポーランド国境
西プロイセンとの大部分(ポーランド回廊)を割譲する。については住民投票で決定する。
デンマーク国境
109条と110条に基づき、シューレスヴィヒのうち、中部シュレースヴィヒと北部シュレースヴィヒの帰属は住民投票によって決定する。
ヨーロッパの政治条項
第三篇(31条から117条)ではヨーロッパ各国の政治について定められた。
ベルギー
ベルギーの永世中立を定めたは現状に適さなくなったため破棄し、新たな条約を締結してベルギーの独立を保障する。リエージュ西方のプロイセン領、両国間の中立地帯であった中立モレネを正式にベルギーに編入する。
ルクセンブルク
ドイツは過去の条約でルクセンブルクにおいて認められていた権益を放棄する。またルクセンブルクの永世中立放棄に同意する。
ラインラント非武装化
ドイツはライン川左岸50kmの地域における築城・駐屯・動員を行えない。これに違反することは、条約署名国に対する敵対行為とみなす。
ザール地域
ドイツはフランス北部の炭鉱に与えた損害の補償として、ザール地方の炭鉱所有権を譲渡する。また、条約で定義したザール地域の行政は、国際連盟が指名した施政委員会によって行われる。また15年後に住民投票を行い、その結果によってザール地域の帰属を決定する。帰属がドイツに決定した場合には、炭鉱の所有権はドイツが買い戻すことができる。
アルザス=ロレーヌ
アルザス=ロレーヌ地域の一部が普仏戦争によってドイツに編入された措置は不当であり、休戦条約締結の日をもって、フランスに復帰する。
オーストリア
オーストリアの独立は国際連盟の承認が無い限り、ドイツ国が変更してはならない(アンシュルスの禁止)。
チェコスロバキア・ポーランド
チェコスロバキア・ポーランドの独立と国境線の確定。シレジア地域においては住民投票を行い、最終的な帰属を決定する。
東プロイセン
飛び地となった東プロイセンの国境が定められる。メーメルを含む北東地域は放棄する。南部地域については住民投票の後に帰属を決定する。
ダンツィヒ
ヘルゴラント島
ドイツはヘルゴラント島に設置した要塞・港湾設備を破壊しなければならない。
ロシア・旧ロシア諸国
ドイツは1914年8月1日以前の旧ロシア帝国領諸国の独立を承認し、尊重する。またボリシェヴィキ政府と結んだブレスト=リトウスク条約など一切の条約・協定の失効を確認する。
ドイツの国外財産・植民地
第四篇(118条から158条)は、ドイツの国外権益を定めている。ドイツはヨーロッパや条約締結国における、自国領域外にある権益・特権の一切を放棄する。ただし、膠州湾租借地と、それに関連する特権は日本に譲渡する(山東問題)。また従来の植民地はすべて放棄する。
軍備条項
第五篇(159条から213条)は軍備条項とされており、ドイツの軍備に厳しい制限が加えられるとともに、武装解除についても規定している。
軍備制限
- 兵力
- ドイツの陸軍兵力は、1920年3月31日までに歩兵7個師団と騎兵3個師団以下、将校を含めて10万人以下とする。
- 本条約締結から3ヶ月以内に20万人規模、歩兵14個師団、騎兵6個師団以下に縮小する。
- ドイツの海軍兵力は、本条約締結から2ヶ月以内に1万5000人、うち下士官は1500人規模に縮小する。
- 参謀本部、それに類似する機関は禁止する。
- 国境警備隊は1913年以前より増員してはならない。
- 一般義務兵役は廃止し、志願兵制度のみを採用する。
- 兵の勤続年数は12年を限度とする。
- 下士官は総兵員定数の5%以下とする。
- 陸軍大学校等各種軍学校の生徒は兵員に算入する。
- 兵器
- ドイツが国際連盟加盟を許されるまでは、兵器に関して以下の制限を設ける。
- 1920年3月31日までに以下の量まで削減する。
- 砲弾数制限。口径10cm以下は一門につき1500発、口径10cm以上は一門につき500発まで
- 補充分として携行火器は25分の1、火砲は50分の1以下を許容範囲とする。
- 兵器、航空機を含む軍需物資の製造は連合国の許可を必要とする。
- 軍需材料の輸入禁止。
- 装甲車・戦車・潜水艦・毒ガス・化学兵器の輸入・製造を禁止、毒ガスについては研究も禁止。
- 兵器の貯蔵量は以下を限度とする
- 海軍
- ドイツ海軍が保有できる艦艇は下記の制限以下とする。潜水艦はこれに含まれない。
- ドイツ港湾にある一切のドイツ国艦艇の所有権を放棄する
- ヘルゴラント、ラインラント等の戦艦8隻、軽巡洋艦8隻、駆逐艦42隻、新型水雷艇50隻を武装解除して2ヶ月以内に引き渡す。ただし、砲はそのままとする。
- 潜水艦はすべて連合国に引き渡す。新規の建造は商業目的であっても禁止する。
- 代艦を建造する場合は、以下の排水量を限度とする
- 装甲艦…1万トン
- 軽巡洋艦…6000トン
- 駆逐艦…800トン
- 水雷艇…200トン
- 大戦中、北海に敷設した機雷を除去する。
- 航空
- 機雷除去任務のため、100機の航空機、1000人以下の兵員を保有できる。それ以外の航空機や部品は連合国に引き渡す。
- 連合国の航空機は、撤退までの間、ドイツ国内を自由に飛行・着陸できる。
- 航空機とその部品、航空機用エンジンの製造・輸入は禁止される。
- その他
- 動員を禁止する。
- バルト海の海路自由通航権を守るため、北緯55度27分から北緯54度、東経9度から16度の間に要塞を設置してはならない。航路図・海図を連合国に提出する。
- 現在のドイツ海岸線から50km以内の砲台は防御設備と認める。
- ベルリン等にある大規模無線電信所は、非政治的な目的に限って使用を許可する。新規に大規模な無線電信所を設置してはならない。
条約に基づく軍の編成
- 軍団編成
- 軍団司令部は2を上限とし、所属する将校数は一司令部につき30名、下士官150名。
- 軍団司令部の武器は師団割り当ての余剰分を用いる
- 歩兵師団の編成
- 歩兵師団一個師団には将校410名、下士官10830名が所属可能であるとされた。
- 歩兵師団司令部に所属する将校数は一司令部につき25名、下士官70名。
- 師団指令歩兵部は1、将校は4名、下士官30名。
- 師団指令砲兵部は1、将校は4名、下士官30名。
- 歩兵連隊は一師団に3個連隊。1個連隊は3個歩兵大隊と1個機関銃大隊で構成される。1個連隊につき将校70名、下士官2300名。
- 迫撃砲中隊は一師団に3個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
- 師団騎兵中隊は一師団に1個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
- 野戦砲兵連隊は一師団に1個連隊。1個連隊は3個砲兵大隊で構成される。1個連隊につき将校85名、下士官1300名。
- 工兵大隊は一師団に1個大隊。1個大隊は2個工兵中隊、ポンツーン部隊1、サーチライト班1で構成される。1個大隊につき将校12名、下士官400名。
- 通信隊は一師団に1個隊。電話隊、聴取班、軍用鳩班それぞれ1で構成される。1個隊につき将校12名、下士官300名。
- 師団衛生隊は一師団に1個隊。1個隊につき将校20名、下士官400名。
- 諸廠および輜重担当は一師団に将校14名、下士官800名。
- 以下の火砲配備制限
- 小銃…一個師団あたり12000丁、合計84000丁
- 重機関銃…一個師団あたり108丁、合計756丁
- 軽機関銃…一個師団あたり162丁、合計1134丁
- 中迫撃砲…一個師団あたり9門、合計63門
- 軽迫撃砲…一個師団あたり27門、合計189門
- 77ミリ野砲…一個師団あたり24門、合計168門
- 105ミリ榴弾砲…一個師団あたり12門、合計84門
- 騎兵師団の編成
- 騎兵師団一個師団には将校275名、下士官5250名が所属可能であるとされた。
- 騎兵連隊は一師団に6個連隊。1個連隊は4個騎兵中隊で構成される。1個連隊につき将校40名、下士官800名。
- 迫撃砲中隊は一師団に3個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
- 師団騎兵中隊は一師団に1個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
- 騎砲兵大隊は一師団に1個大隊。1個大隊につき将校20名、下士官400名。
- 以下の火砲配備制限
- 騎銃…一個師団あたり6000丁、合計18000丁
- 重機関銃…一個師団あたり12丁、合計36丁
- 77ミリ野砲…一個師団あたり12門、合計36門
国際監督委員会
203条から210条では、ドイツの軍備制限や武装解除を監視するためのの設置が定められた。
捕虜と墳墓
第6篇(214条から226条)では捕虜や抑留者の返還と、大戦中に設営された兵士の墳墓の保存について規定している。
制裁
第7篇(227条から230条)では、戦争犯罪人の処罰について規定している。227条ではドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が「国際道義と条約に対する最高の罪を犯した」としてヴィルヘルム2世を特別法廷で裁くことを規定している。さらにドイツ政府は戦時国際法を犯したものを連合国に引き渡すことも定められた。
賠償
第8篇(231条から247条)ではドイツが連合国等に支払う賠償について記述している。231条は戦争がドイツとその同盟国の攻撃によって引き起こされ、賠償責任はドイツとその同盟国にあると記述しており、戦争責任条項と呼ばれる。ヴェルサイユ条約の賠償規定では現物、家畜等による莫大な賠償が記述されたが、賠償総額については決定されず、後に設置される賠償委員会で決定されることとなっていた。
財政
第9篇(248条から263条)では、占領に伴う経費等の支払い方法について規定している。
経済
第10篇(264条から312条)では、ドイツにおける関税・通信・債務、私有財産等の扱いについて規定している。また295条は1912年に調印された万国阿片条約の批准措置となっている。
航空
第11篇(313条から320条)では、航空の分野において連合国がドイツにおいてドイツ国民と同等の権利を受けることを規定している。
水運・鉄道
第12篇(321条から386条)では、ドイツの港の利用、ドイツ国内河川の交通と鉄道について規定している。ライン川・モーゼル川・エルベ川・オーデル川・ニーメン川・ドナウ川・キール運河等はこの条約により、非沿岸国にも自由通航権が与えられる国際河川化・国際運河化が規定された。これは1921年の国際関係を有する可航水路の制度に関する条約(バルセロナ条約)の基となった。またドイツ国営鉄道を連合国が優先利用することも規定している。
国際労働機関
第13篇(387条から427条)は、国際連盟の姉妹機関とされた国際労働機関の規約となっている。
保障
第14篇(428条から433条)は、ドイツに対する監視措置を規定している。428条では、ライン川左岸50km地域を連合軍が15年間占領することが規定され、429条ではドイツの履行状況に応じて部分的に占領を解除することが規定されているが、状況によっては占領期間の延長ができるとしている。430条では賠償が履行されない場合には再占領を行えると規定しており、後のルール占領の根拠となった。また433条ではブレスト=リトウスク条約締結後にドイツが占領したバルト地方からの撤兵と、バルト諸国に対する干渉禁止について規定している。
雑則
第15篇(434条から427条)は、その他の条項が記載されている。434条では、旧中央同盟国(オーストリア、ハンガリー、ブルガリア王国、トルコ)において連合国がとる措置をドイツが承認することが規定されている。435条はフランスとスイスの間で合意されたオート=サヴォワ・ジェクスに設置されていた中立地帯の解消を、締結国も承認するというものである。436条はフランスとモナコ公国の間で結ばれたフランス・モナコ保護友好条約を締結国が承認する規定である。437条は採決における議長の優越権、438条はドイツ国内のキリスト教会の保護、439条は請求権の確認、440条は戦時中に拿捕されたドイツ船舶の資産の返還不可を定めている。
直接の影響
ドイツ国内の反発
住民投票
シュレースヴィヒ
シュレースヴィヒのデンマーク系住民は大戦末期からシュレースヴィヒの帰属を決める住民投票を希望しており、1918年11月17日には「クラウセンライン」デンマークの民族研究家が調査したデンマーク系住民居住地域の南限を示す線以北で住民投票を行うべきとする「アペンラーデ決議」を発表した。しかしデンマーク政府はドイツ系の住民が多数を占める中南部の編入を望んでおらず、その点ではドイツ共和政府とも了解が取れていた。しかしドイツ系住民の「シュレースヴィヒ公爵領のためのドイツ委員会」はシュレースヴィヒの一体性を主張し、住民投票の際はシュレースヴィヒ一体で行うべきと主張していた。ヴェルサイユ条約ではクラウセンラインが採用され、ライン以北を第一地区、以南を第二地区として別個に投票を行うことになった。は、北部の第一地区では1919年6月28日、第二地区では1920年3月14日に行われた。北部ではデンマーク所属派が75%と優勢であり、中部シュレースヴィヒの投票では80%がドイツを選択するなどははっきりした傾向が現れた。また南部のドイツ支持が明確な地区では投票自体行われなかった。この結果に不満を持ったデンマークの国家主義者は中部シュレースヴィヒのデンマーク編入を要求し、国王クリスチャン10世も介入する一大政治問題となった()。結局デンマークは住民投票の結果どおり、中部シュレースヴィヒ獲得を断念した。一方ドイツ政府はクラウセンライン以北にあるドイツ住民が優勢な地域を考慮して国境を引きなおす案を提案したが入れられず、国境線はクラウセンラインが採用された。その後、北部シュレースヴィヒは1920年6月15日にデンマークに編入された。
東プロイセン
はポーランド・ソビエト戦争のさなかの1920年7月11日に行われた。ほとんどの地域でドイツ編入を希望する票が95%を上回り、投票が行われた地域はほとんど東プロイセン領のままとなった。ただしいくつかの村は住民投票が行われずポーランド領に編入されている。
上シレジア
は困難であった。この地域はドイツ系とポーランド系の住民が交錯しており、いずれの帰属となっても混乱は必至であった。1921年3月20日に住民投票が行われたが、ポーランド系の大規模な蜂起が発生した。連合国管理委員会は裁定を断念し、国際連盟に提訴した。結局上シレジアの3分の2がドイツ領となったが、重工業地域などはポーランド領となり、両国間に確執が残ることとなった。
ファイル:Abstimmung-schleswig-1920.png|シュレースヴィヒの住民投票。マゼンタがドイツ、シアンがデンマーク帰属派の大きかった地域。黒い太線が「クラウセンライン」
ファイル:Abstimmungsergebnisse Ostpreußen 1920.JPG|東プロイセンの住民投票。円グラフの黒がポーランド帰属票の割合
植民地
アフリカにおける旧ドイツ植民地と委任統治先
6. イギリス領トーゴランド
7. フランス領トーゴランド
8. イギリス領領カメルーン
9. フランス領カメルーン
10. ベルギー領ルアンダ=ウルンディ
11.イギリス領タンガニーカ
12. 南ア領南西アフリカ
太平洋における旧ドイツ植民地と委任統治先
1. 日本領南洋諸島
2. オーストラリア領ニューギニア
3. 三国共同統治ナウル
4. ニュージーランド領西サモア
ドイツが放棄した植民地については、国際連盟に指名された国が統治する、委任統治に移行した。
- ルアンダ=ウルンディ(旧ドイツ領東アフリカ )→受任国・ベルギー
- タンガニーカ(旧ドイツ領東アフリカ)
- ドイツ領南西アフリカ→(受任国・南アフリカ連邦)
- (旧ドイツ領西アフリカ)
- (旧ドイツ領西アフリカ)→ フランス領赤道アフリカに統合
- ドイツ領ニューギニア
- → (受任国・ニュージーランド)
賠償
賠償委員会の協議は難航し、賠償総額が1320億金マルク(約66億ドル)、30年賦と決定されたのも1921年になってからのことであった。ロシアへの賠償はラパッロ条約によって事実上相殺されたが、ドイツ政府は賠償金の捻出に苦しみ、さらに「トランスファー問題」の発生でマルク相場は急激に下落した。1923年1月、フランスとベルギーは賠償金支払いの遅延を理由とし、ベルサイユ条約を根拠とするルール工業地帯の占領を開始した。これに対するドイツ側の対抗措置等も重なり、マルクはおよそ一兆倍に下落するというハイパーインフレーションに見舞われた()。これ以降連合国側もドイツ経済に配慮するようになり、ドーズ案によってドイツの賠償支払いは一段落した。しかし1928年頃からはドイツへの資金流入が減少しはじめ、ヤング案が採択されて支払いはさらに緩和されたものの、1930年代の世界恐慌と欧州金融恐慌により、賠償の支払いは事実上不可能となった。ドイツは賠償支払いの一時停止を宣言し、1932年6月のローザンヌ会議で賠償問題は事実上解消された。
武装解除と秘密再武装
ドイツの武装解除と動員解除には、連合国の連合国国際監督委員会による監視措置が執られることとなった。しかし国軍は連合国の監視を逃れ、参謀本部を兵務局と偽装して組織を温存し、ラパッロ条約の秘密議定書に基づき、ソビエト連邦の領土内での軍事訓練などを行った()。不安定な政治状況を乗り切るため、エーベルトは参謀次長であったヴィルヘルム・グレーナーと電話会談し、政府に軍が協力する見返りとして、軍の機構を維持する密約を結んでおり()、これらの条約逃れは政府も黙認していた。1925年のロカルノ条約締結により、1927年には連合国国際監督委員会による監視措置は終了した。
後世に与えた影響
当時の評価
この戦勝国の敗戦国への報復的とも言える賠償条件を含んだこの条約で成立した、いわゆる「ヴェルサイユ体制」については条約締結の際にイギリス代表として参加したものの、過酷な賠償に抗議して途中帰国した経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、『平和の経済的帰結』の中で再び戦争が起こることを予言した。またバチカンの教皇ピウス11世はヴェルサイユ体制を『平和のようなもの』と批判した。
結果、この講和条約はその後のドイツ民族の住む地域のドイツ周辺国への割譲ということを含め、ドイツ国民の民族意識に傷をつけることとなり、このことがドイツ民族というものをひとつにするというアドルフ・ヒトラーを中心とする国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)に政権を握らせる一因となった。1935年、ヒトラー政権のナチス・ドイツは一方的にヴェルサイユ条約を破棄した。ドイツの軍事力は大きく損なわれることになった。しかしドイツ国大統領フリードリヒ・エーベルトは軍事力を完全に無くす事は出来ないと考え、ドイツ義勇軍やトゥーレ協会を隠れ蓑として軍の連続性保持に努めた。また、あの手この手で基礎技術のノウハウを高めていき、ソ連領内で密かに戦車訓練を行うなどした。結果、ヒトラーが再軍備を宣言した際、迅速に軍事力を強化することが出来た。
多くの識者が、このような結果になることを予想して警鐘を鳴らしたにもかかわらず、その被害を敗戦国に一方的に負わせようとした。このことが戦後の排外的ナショナリズムの高揚などの影響をもたらし、再び世界大戦を引き起こす遠因となった。
ヴェルサイユ条約の過酷な条件がナチスの台頭の原因、そして1939年から始まる第二次世界大戦の要因となってしまったため、第二次世界大戦後の敗戦後のドイツには、連合国は東西両ドイツにも過酷な請求はせず、逆に復興に力を貸している。もっとも、これには第二次世界大戦後は第一次世界大戦後とは異なり、戦勝国の間ですぐに冷戦が始まったため、両陣営がその最前線となった東西ドイツの復興に力を注いだ、という情勢も関係している。同じく敗戦国であり、ヴェルサイユ条約時には戦勝国だった日本国に対しても、第二次世界大戦後、アメリカ、イギリス、オランダ、中華民国、フランス、オーストラリアといった主要交戦国は賠償を放棄している(ただし、戦場となったアジア各国の中には個別に賠償金の支払いを要求した国もあった)。
条約参加国
- 主要連合国
前文では特に「アメリカ合衆国、イギリス帝国、フランス国、イタリア王国、日本国」を「主たる同盟及び連合国」として他の参加国より先に記述している。
- 連合国
- イギリス連邦内の参加国
- 中央同盟国
調印したが、批准を行わなかった国
講和会議に参加したが調印を行わなかった国
珍事
フランスとスペイン国境にあるアンドラ公国は第一次世界大戦に参加したのだが、「アンドラ国軍」があまりにも小規模(全11人)だったため、存在を忘れられ、アンドラ代表は条約締結に呼ばれなかった。そのため、形式的にアンドラ公国は「第一次世界大戦を継続したまま、第二次世界大戦に参加」するという珍事が起こった。
関連項目
- パリ講和会議
- 第一次世界大戦の講和条約
- ヌイイ条約 - 対ブルガリア王国
- サン=ジェルマン条約 - 対オーストリア共和国(オーストリア=ハンガリー帝国)
- トリアノン条約 - 対ハンガリー王国(オーストリア=ハンガリー帝国)
- セーヴル条約 - 対オスマン帝国
- 戦間期
- 第二次世界大戦の背景
- 第二次世界大戦の講和条約
脚注
参考文献
外部リンク
フランスの条約
ドイツの条約
講和条約
第一次世界大戦
ドイツ帝国
ヴァイマル共和政
フランス第三共和政
独仏関係
ヴェルサイユ
1919年の法
交通に関する条約
モナコ
20世紀の経済史
多国間条約