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ル・マン 24時間レース(ル・マンにじゅうよじかんレース、24 heures du Mans )は、フランスル・マン近郊で行われるカーレースである。24時間でどれだけサーキットを周回できるかを競う。主催はフランス西部自動車クラブ(ACO)。

日本で「ル・マン24時間」と言うと、通常は一年の内で最も昼の長い毎年6月の初めから中頃に開催される自動車による耐久レースのことを指すが、現地では毎年4月にオートバイによる24時間耐久レースも開催されている。以下、自動車による24時間レースについて解説する2輪のル・マン24時間はサルト・サーキットでなくブガッティ・サーキットで行われる。。また、ル・マン24時間耐久レースと記されることもある。

概要


1923年に初開催された歴史あるレースのひとつ。そのため世界中の耐久レースに大きな影響を与えており、ル・マン・シリーズ世界耐久選手権の車両規定はル・マンのものに準じている。

世界三大レース


フォーミュラ1モナコグランプリアメリカインディ500と並び「世界三大レース」と呼ばれる。またデイトナ24時間レーススパ・フランコルシャン24時間レースとともに「世界三大耐久レース」とも呼ばれる。レースが中止されたのはコースが大改修された1936年(フランスの自動車工業界のストライキの影響とも言われる)と、第二次世界大戦の開戦により中止になった1940年から1948年この間はコースの改修もされた。にかけての間だけである。現役ドライバーはもちろんスプリントレースで一線を退いたスター選手の走りも見ることができる。

開催地


サルト・サーキット
競技は、フランス中部にあるル・マン市サルト・サーキット日本では「サルテ・サーキット」と紹介されることが多いが、ネイティブなフランス語発音では「サルト・サーキット」と発音するほうが正しいとされている。と呼ばれる全長13kmを超える周回コースで行われる。その殆どは一般道で、スタートおよびゴール地点とその周辺は競技専用のブガッティ・サーキットの一部を使用する。各ストレートやコーナーには「ユノディエール」や「ミュルサンヌ」、「テルトル・ルージュ」、「ポルシェカーブ」、「フォードシケイン」などの名称がついており、これらの名称は世界的に著名である。サルト・サーキットの特徴といえばユノディエールという全長6kmに及ぶストレート(右のコース図で言う上のストレート区間)であったが、マシンの進歩により1988年には最高速が405km/hに達するなどしたため、安全上の問題から1990年に二箇所のシケインが設けられた(コースに独自性を持たせたいACOに対し、FIAが再三勧告をしたためである)。

尚、二輪のレースは「ブガッティ・サーキット」、四輪のレースは「サルト・サーキット」と、ピットエリア周辺一帯は共用しているものの別のサーキットを使用し、各々区別している。

ル・マン式スタート


コースの片側に競技車を配置し、ドライバーはコースの反対側から駆け寄って乗車する。かつてこのレースにて1925年より用いられたスタート方法でありその名前の由来となっている。しかし、スタートを急ぐあまりシートベルトをきちんと締めないまま発進することがある。このスタート方法に対し危険性を常々訴えていたジャッキー・イクスは、1969年に開催された同レースで他の選手がマシンに向かって一斉に走って乗り込んでスタートしていく最中、歩いてマシンに向かって行き、きちんとシートベルトを締めてスタートすることでこのスタートへの抗議をしていた。尚、このレースで最後尾からスタートしたイクスは2位に130mもの差をつけて優勝した。これにより、ル・マン24時間レースでは1969年限りで廃止された。
1970年はドライバーが乗車したままコースの片側に斜めに停止した状態から合図とともにスタートする「変則ル・マン式スタート」となったが、1971年からは一般的なローリングスタートとなった。現在では4輪車のレースではほとんど採用されておらず、むしろ2輪の耐久レース(鈴鹿8時間耐久ロードレースなど)にてよく見られるスタート方法になっている。

1925年から1927年までは「ドライバーが駆け寄って幌を上げてからエンジンを始動し走行し、20周経過までは幌を下げてはいけない」というルールだった。エンジン始動時の信頼性や自動車としての実用性を競う方法としては意味があったとも言える。

コース全長の変遷


  • A (1923年 - 1928年)17.262km※当初は現テルトルルージュ付近に向かわず、ル・マン市内中心部まで行き引き返すコースだった
  • B (1929年 - 1931年)16.340km
  • C (1932年 - 1955年)13.492km※ここからテルトルルージュ→ユノディエールへと続く現コースの原型に
  • D (1956年 - 1967年)13.461km
  • E (1968年 - 1971年)13.469km
  • F (1972年 - 1978年)13.640km
  • G (1979年 - 1985年)13.626km
  • H (1986年)13.528km※ミュルサンヌコーナーの交差点が十字からロータリーに変更されたため、ロータリーを避ける専用コースでショートカット
  • I (1987年 - 1989年)13.535km※ダンロップコーナー前にシケイン設置
  • J (1990年 - 1996年)13.600km※ユノディエールに2ヶ所シケイン設置
  • K (1997年 - 2001年)13.605km※ダンロップシケインのレイアウト変更
  • L (2002年 - 2005年)13.650km※ダンロップブリッジ下からS字までレイアウト変更
  • M (2006年)13.650km※ダンロップシケイン付近改修
  • N (2007年 - )13.629km※テルトルルージュ付近改修

優勝車/優勝者一覧


(2006年)ル・マン24時間歴代勝者を参照のこと

メーカー別勝利数



  1. 16 – ポルシェ
  2. 10 – アウディ
  3. 9 – フェラーリ
  4. 7 – ジャガー
  5. 6 – ベントレー
  6. 4 – アルファロメオ
  7. 4 – フォード
  8. 3 – マトラ
  9. 3 – プジョー
  10. 2 – ブガッティ
  11. 2 – ロレーヌ
  12. 2 – メルセデスベンツ
  13. 1 – シュナール&ウォーカー
  14. 1 – ラゴンダ
  15. 1 – ドラーヤ
  16. 1 – タルボ
  17. 1 – アストンマーチン
  18. 1 – ミラージュ
  19. 1 – ルノー
  20. 1 – ロンドー
  21. 1 – マツダ
  22. 1 – マクラーレン
  23. 1 – BMW

1955年の事故


1955年6月11日18時28分、トップを走っていた緑色のジャガーマイク・ホーソーンが周回遅れのくすんだ緑のオースチン・ヒーレーを抜いた直後に急減速してピットイン。オースチン・ヒーレーのドライバー、ランス・マクリンが衝突を避けようと進路変更したところへ銀色のメルセデスを運転するピエール・ルヴェーが避けきれずに接触し乗り上げ、空中へ飛び上がった。ルヴェーのメルセデスはグランドスタンド側壁に衝突し、車体は分解し炎上、衝撃でエンジンとサスペンションがそのままの勢いで観客席に飛び込み、観客・スタッフ、そしてルヴェーも含めて86人が死亡、約200人が重軽傷という大事故となった。(注:当時のサーキットにはピットとコースを遮るピットウォールが存在せず、またピットロードも存在していなかった。これはサルト・サーキットに於いても例外ではなく、ピット前での接触事故は高頻度で起きていたとされる)なお、このレースは事故後も続行された。「たとえどんな惨事が起きようとも、戦い続けるのがスポーツのルールである」ことが続行の理由であった他、レースを中断すると帰路についた観客がサーキットの周りや周辺道路を塞ぎ救急車が動けなくなる、といった事態を防ぐための主催者側の判断によるものであった。皮肉にも優勝者は大惨事のきっかけとなったマイク・ホーソーンであった。

この事故の映像は、映画『グレート・ドライバー(原題"Fangio")』等で観ることができる。またルヴェーのチームメイトで当時彼の後方を走行、コクピットからその一部始終を目撃したファン・マヌエル・ファンジオは、この映画の中で「ホーソーンのピットインが物議を醸したが、ピット手前360mからの減速でルール上問題はなかった。マクリンがホーソンを左側から追い越し、さらに別の一台がコース左側からピットに向かって進路を右に変えた結果、ルヴェーが行き場を失い悲劇を招いた。自分は奇跡的に無傷で現場を通過出来たが、背後は地獄だった‥」と、いわゆる「レーシングアクシデント(特定のドライバーの責任に帰しないレース中のアクシデント)」であった事を模型を用いて解説している。ちなみに、事故後の調査でファンジオの乗ったメルセデスと、ホーソーンのジャガーがごく僅かに接触していた事が判明している(メルセデスの車体にジャガーの緑色の塗装がこびり付いていた擦痕が残っていた)。ファンジオが突然ピットインしたホーソーンのマシンを辛うじて回避する事が出来た事を証明している。

メルセデス・ベンツチームはトップを走行していたが、事故発生の7時間半後、全マシンを呼び戻すと、そのまま棄権している。その後メルセデス・ベンツは1980年代後半に復帰するまで実に30数年間もル・マンひいてはモータースポーツから遠ざかることとなった。そして事故の一部始終を目の当たりにしたファンジオはその多大な精神的ショックから、それ以来生涯ル・マン24時間レースに姿を見せることはなかった。また、事故後大破したマシンの残骸をメルセデスのスタッフが必死になって回収していた事が確認されている。これに関しては後に規定違反を隠蔽する行為なのではという声が上がっていたとされる。

モータースポーツの安全性という点で大きな疑問を投げかけたこの事故の影響は非常に大きく、後に開かれる予定だったスペインと西ドイツのグランプリレースは中止、フランス・イタリアでも政府の許可が出るまでモータースポーツは開催されず、スイスに至ってはレースそのものが禁止されるラリーやヒルクライム競技等から徐々に緩和され2007年6月に撤廃された。など全世界に大きな影響を残している。F1も例外ではなく、1955年は主催者がキャンセルするなどして3戦も中止になっているが、その後のモータースポーツ全体での安全性向上の礎にもなっている。メルセデス・ベンツ自体も、それ以来30年余りに渡ってサーキットから姿を消す事となる。

尚この事故の詳細を記した書籍として、「死のレース -1955年ル・マン」(マーク・カーン著、二玄社刊)という書籍が存在する。事故から20年後に事故の当事者の一人であるランス・マクリンが著者に電話で初めて明かした事実の他に、写真や関係者の証言を含めた事故の詳細、当事者であるマクリン、ホーソーン、ジャガーそれぞれの人物像やレース後のそれぞれの動向、さらにメルセデスチームが(事故の原因とはならない)レギュレーション違反を行っていたのではないかとの疑義などが明らかになっている。

1999年のレースに於いてもメルセデス・ベンツは、前年たった2時間で全滅した屈辱を晴らすために投入したAMGメルセデスCLRが、予選、フリー走行、そして決勝と三度に渡って宙を舞う事態に見舞われ、1955年の悪夢再びか、と騒がれた。そしてこの時もそのまま、メルセデスはル・マンから再び姿を消してしまう。

事故の当事者の一人であったランス・マクリンは、その後モータースポーツの世界を離れてカーディーラーとなったが、2002年にこの世を去っている。

エピソード


  • 映画「栄光のル・マン」で主演を務めたスティーヴ・マックイーンは当時レーシングドライバーとしても活躍しており、映画のロケでも実際にマシンを走らせていた。その後正式にレースに出場を希望したが、周囲からの猛反対に遭って止むなく断念せざるを得なくなり、彼は生涯それを悔しがっていたという。後に息子のチャド・マックイーンが出場を果たしている。
  • ポール・ニューマンが1979年2位となったが、レース中からずっとパパラッチがしつこく付いてくることに嫌気が差し、それ以来ル・マンにエントリーすることはなかった。
  • ピエール・ルヴェーは1952年タルボで出走し、23時間に渡ってステアリングを握りトップを走り続けたが、疲労のためギアを入れ間違えてリタイアとなった『ルマン』P40、グランプリ出版。。現在は危険防止のためレギュレーションが変更されており、このようなことはできない。
  • 「ユノディエール」の直線が全長約6kmであった頃、成績よりも最高速度に命をかけていたチームが存在した。1986年大会で、WM・セカテバ・プジョーが記録した時速407km/hが公式記録として名を残している。しかし、実際には計測されていないだけで400km/hを越えていたマシンが数多くあったといわれている。その後FIAからの再三の通達によって二箇所のシケインを設けた3セクションのストレートに区切られ、最高速度は下げられている。
  • レースの先導を行うペースカーは、その年度にEU圏内で発売された車輌が採用される。第一回レースが開催されてから65年目となる1999年には、自国フランスの自動車ではなく、その年デビューしたばかりのベントレー・アルナージ(ロールス・ロイス・シルヴァーセラフのベントレーブランド版)が起用された。第一回目のレースが国際レース化を謳いながら、殆ど自国の車で占められていたものの、イギリスからエントリーした二台のベントレーと、ベルギーの"エキセルシオール"によって辛うじて国際レースとして開催できた、その感謝を忘れることなく形にしたものとして注目された。また同時期、ベントレーの親会社であるロールス・ロイスが自動車業界の再編に伴い、売却の憂き目に遭っており、ベントレーブランドも存亡の矢面に立たされていた時期でもあった。後にロールス・ロイスがBMW、ベントレーがフォルクスワーゲン(VAG -フォルクスワーゲン・アウディグループ)と、それぞれが新しい経営母体の元で存続する事になる。日本車では日産・スカイラインGT-R(BCNR33)が採用された事がある。

アメリカ勢の活躍

フォード

パノス

イギリス勢の活躍

ベントレー


ベントレーは当初より参戦し、1924年1927年から1930年で4連勝と総合優勝し黎明期に非常に大きな足跡を残した。2003年にも総合優勝している。

ジャガー


ジャガー1951年1953年1955年から1957年で3連勝と総合優勝した。またトム・ウォーキンショーと組んで1988年1990年に総合優勝している。

その他


アストンマーチン1959年に、ガルフミラージュが1975年に総合優勝している。

イタリア勢の活躍

アルファ・ロメオ

フェラーリ

ランチア

ドイツ勢の活躍

ポルシェ


1951年、未だフランスでドイツに対する風当たりが強い中、フランス人ジャーナリストであるシャルル・ファルーの招聘によりポルシェポルシェ・356で参加、これがドイツ車の戦後初の国際レースへの参加となった。長らく小排気量車によるクラス優勝は続けたものの総合優勝とは縁遠い時代が続いたがポルシェ・917を開発して1970年に初の総合優勝を果たし、その後は1971年1976年1977年1979年1981年から1987年で7連勝と総合優勝し長く強豪の時代が続いた。後にワークスとしては撤退したが、復帰した1994年1998年にも総合優勝している。

メルセデス・ベンツ


1952年に総合優勝するなど強豪であったが1955年の大事故で撤退、その後長らくモータースポーツ自体に参加しない時期が続いた。1985年からザウバーがメルセデス・ベンツのエンジンを使用し、1988年からワークス参戦となり1989年には総合優勝を果たしている。

アウディ


1999年に初出場で3位入賞。その後アウディ・R8を開発し2000年から2002年2004年2005年に総合優勝を達成する。翌2006年に投入したアウディ・R10 TDIは、ル・マン史上初のディーゼルエンジン搭載車による総合優勝に加え2007年2008年と2度目の3連覇を達成した。2010年には総走行距離の最長記録を更新して総合優勝、2011年も総合優勝している。

日本勢の活躍


ル・マンに初めて日本のエンジンが登場したのは1970年である。マシンはリーバイス・レーシングが、シェブロンB16に、マツダ製10A型、ロータリーエンジンを搭載したものだった。

プライベート・チーム

シグマオートモーティブ(1973 - 1975年)


ル・マンに初めて日本のチームとマシンとドライバーが登場したのは1973年のシグマ・オートモーティブとシグマMC73である。当初はトヨタ製エンジンを搭載する予定だったが、トヨタからエンジンの供給を受けられず、やむなくマツダ製の12Aロータリーエンジンを購入して搭載した。このため、ル・マンに出場したシグマMC73はリアウイングに「TOYOTA」のスポンサーが描かれていながら、マツダのエンジンを搭載した異色のマシンとなっている。シグマMC73は元々富士グランチャンピオンレース用のマシンで耐久性に問題があり、クラッチトラブルにより79周目にリタイアした。シグマ・オートモーティブは1974年も出場し、この年はマツダオート東京と正式にジョイントしてのエントリーであった。24時間を走り切ったが、周回数不足で完走と認められなかった。マツダオート東京はエンジンのチューニングとメンテナンスを担当し、この時のル・マンへの思いがのちのマツダのル・マン挑戦のきっかけとなったと言われている。なおこの時のドライバーの一人が、後に「ミスタールマン」の異名を取ることになる寺田陽次郎である。

1975年もシグマ・オートモーティブは出場した。この年ついにトヨタからのエンジン供給が実現し、2T-Gターボエンジンを搭載したシグマMC75でエントリーした。しかし結果はエンジントラブルでリタイアとなっている。

1975年を最後にシグマ・オートモーティブはル・マン挑戦をやめたが、シグマ・オートモーティブを母体に設立されたサードがその後を引き継ぎ、1990年にサードはトヨタのワークスチームとしてル・マン再出場を果たした。1994年には旧グループCカーを貸与され出場、エディ・アーバイン/マウロ・マルティニ/ジェフ・クロスノフ組が2位表彰台を獲得している。1995年1996年には独自開発のGTマシン・サード・MC8-RスープラLM-GTで参戦した。

童夢(1979 - 1986年)


1978年東京モーターショーで、スーパーカー童夢-零」を発表した童夢は、この童夢-零とル・マンに出場するために制作した童夢-零RLをプラモデル、玩具化によって発生した権利料でル・マンに挑戦した。この童夢-零RLは、童夢で設計・製造され、エンジンはF1用に販売されていたフォード・コスワース・DFVエンジンを搭載した。1979年、童夢-零RL2台をエントリーしたものの、1台がエンジントラブルで、もう1台もガス欠でリタイアした。

1980年、童夢-零RLをモディファイした童夢RL80を1台エントリーさせたが、トランスミッショントラブルもあって最下位の25位で完走した。

1981年は、前年と同じ童夢RL80で出場したが、エンジントラブルでリタイアした。

1982年、イギリスのマーチ・エンジニアリングとジョイントして、フォード・コスワース・DFLエンジンを搭載した童夢RC82を製作し出場したが、サスペンショントラブルでリタイアした。

1983年、マーチとの提携は1年で解消され、前年のマシンを改良した童夢RC82改で出場したが、マシントラブルでリタイアした。

1984年童夢・RC-83/フォードDFLで出場するものの、予選でコースアウトしてマシンを大破し、決勝出場を辞退した。現地チームに貸与したRC82は予選を通過するも決勝はリタイヤ。

1985年、童夢・トヨタ・トムスによる提携が実現し、童夢製の車体にトヨタの4T-GT改当時市販されていたGr.B車両のセリカGT-TSのエンジンをレース用にモディファイした物。排気量は2,090ccを登載する童夢85C-Lで出場したが、決勝ではトランスミッショントラブルでリタイアしたトムスがエントリーしたマシンはトムス85C-Lと呼ばれるがほぼ同一のマシンである。

1986年、前年と同様の体制で童夢86C-Lで出場したが、冷却系統のトラブルでリタイアした。この年限りで童夢の第一期ル・マン参戦は終わった。

マツダオート東京(1979年、1981 - 1983年)


1974年にシグマ・オートモーティブとジョイントで参戦したマツダオート東京は、1979年に自らのチームで参戦を果たす。マシンはサバンナRX7・252i(IMSA-GTO仕様)であった。しかしマツダ本社のサポートを得られず、マシンのテスト不足とチーム体制の不備により、結果は予選落ちとなった。マツダオート東京はチーム体制構築のため翌1980年の参戦を見合せ、1981年に再挑戦をする。この際にトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)と提携した。また、1979年に参戦した際、食事面の配慮を欠いたため食当たりからドライバーの体調不良を招いた反省から、フランスで修行中だった料理人の脇雅世をチームの料理長に迎えた。脇は1991年のルマンまで料理長をつとめる事となる。この年はRX7・253を2台をエントリーし2台とも予選通過をしたものの決勝はリタイアとなった。

1982年はRX7・254を2台エントリーし、1台はエンジントラブルでリタイア、もう一台の寺田陽次郎/従野孝司/A モファット組はガス欠症状に悩まされながらも14位完走。

1983年、前年に創設されたグループCのジュニアクラスに参戦しマツダ・717を2台製作した。2台が完走を果たしグループCジュニアクラスの1位と2位となったが、もともとこのクラスの参戦が少なく評価はされていない。この年TWRの都合で提携を解消した。

1983年のルマン終了後、マツダオート東京のモータースポーツ部門は独立してマツダ本社傘下のマツダスピードとなり、以後の活動はワークス・チームによるものとなる。

トムス(1980年、1985 - 1986年)


トムスが初めてル・マンに参戦したのは1980年、RA40系セリカ・ベースのIMSA-GTXマシンである。この時は予選落ちしている。1982年、童夢と共同で日本で初めてグループCカーを開発し、WEC-JAPANに参戦したトムスは、翌1983年以降WEC-JAPANおよび全日本耐久選手権(後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)にフル参戦するようになる。

そしてグループC活動開始から4年目の1985年、トムスは既にル・マンの常連となっていた童夢と共にトヨタエンジンでル・マンに参戦する。トムスとしては5年ぶりとなる。マシンはトムス85C-L/トヨタ。事実上、トヨタのル・マン初参戦である。この年は12位で完走。

1986年トムス86C-L/トヨタで2度目の参戦を果たすが完走は成らなかった。1987年以降はトヨタ・チーム・トムスとして、トヨタワークスとしての活動になる。

自動車メーカーの本格的挑戦


その後、マツダ(ワークスチームとしては1984年のマツダスピードから)や、日産自動車(1986年初参加)、トヨタ自動車(ワークスチームとしては1987年から)、本田技研工業などが過去にワークス・準ワークスチームで参戦したが、総合優勝したことのあるのはマツダ(1991年)だけである。日本車の優勝と日本人の優勝は以下の通りだが、日本メーカー車に日本チーム、日本人ドライバーというオールジャパンチームとしての優勝はまだない。

マツダ悲願の総合優勝



マツダは1970年代より、日本勢としては最も古くからル・マン24時間レースに参戦していた。途中、1984年には、アメリカ合衆国のチームがマツダ・ロータリーエンジンを積んだBFグッドリッチマツダローラを2台エントリーし、うち1台が総合10位・C2クラスでは優勝という成績を残しているマツダ公式サイト内の、同年C2クラスで優勝したBFグッドリッチマツダローラT616</ref>。僚車であるもう一台のBFグッドリッチマツダローラは総合12位に入賞、マツダワークスとして参加した727Cの2台も完走を果たし、4台でダイヤモンドフォーメーションを組んでゴールをした。

673レギュレーションの変更に伴いロータリーエンジン]が参加できるのは当初1990年までとなり、1990年のルマンにマツダ787を投入したが惨敗した。しかし1990年秋、各社の新規格プロトタイプカーの準備が整わないことから翌1991年もロータリーエンジンの出場が認められることになった。

事実上最後の年になった[[1991年、日本のメーカーとして初めて総合優勝を果たした。優勝車両はマツダ・787B、ドライバーはジョニー・ハーバート/ベルトラン・ガショー/フォルカー・ヴァイドラー)。同時に参戦していた他の2台も6位と8位に入った。なおこの年はファイナルラップ中に24時間のゴールタイムを迎えたため、終了前に観客がコースになだれ込んでしまい、マツダはピットロードにてチェッカーを受けることになってしまった。更に、ゴール時にドライブしていたジョニー・ハーバートが脱水症状を起こして、ゴール直後に医務室に搬送された為に表彰台に姿を現さない一幕もあった。

大資本をバックに大々的に参戦してきた他の日本勢と違い、ロータリーエンジンという独自の技術とともに、長い年月をかけて地道に参戦を続けてきたマツダの総合優勝は、多くの地元観客のみならず、他の参戦ワークスチームや世界中のモータースポーツファンから大きな賞賛を浴びた。

このとき優勝した55号車に施されていたレナウン・チャージカラーの塗装は、スポンサーであったレナウンの当時の社長がルマン以前のマツダの戦いを目にし"こりゃ勝つのは無理だ。じゃあとにかく目立て”と指示を出し、レナウンの社内デザイナーが布地のアーガイルの柄をベースに考案したものである。

マツダは、この年を最後に事実上ロータリー車が締め出されるため、当初1991年を以てル・マンを撤退する予定であったが、優勝したために急遽レシプロエンジンの車両であるマツダ・MX-R01を開発し、1992年ディフェンディングチャンピオンとして参戦、総合4位に入賞するが、マツダの業績悪化に伴い、この年を最後に撤退した。

その後、レギュレーション改正によりロータリーエンジンが解禁されると1994年にモータースポーツ部門であるマツダスピードがRX-7GTOで単独参戦、久々にル・マンにロータリーサウンドを復活させ、その後はマツダスピードや寺田陽次郎率いるオートエクゼなどによってロータリーエンジン搭載マシンがル・マンを走っている。

日産の挑戦



日産の初参加は1986年ニスモからのエントリーである。前年WEC-JAPANを制覇したR85VR86Vの2台体制。R85Vが16位で完走した。2年目以降(R87ER88C)は苦戦するが、参戦4年目の1989年、ローラと共同開発のR89Cで、日本車として初めてル・マンでトップ争いに加わるが、3車ともリタイヤに終わった。

翌1990年には、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NME)からエントリーしたR90CKが日本車初のポールポジションを獲得するも、決勝ではリタイア。日本(ニスモ)からエントリーしたR90CPが予選3位、決勝5位と健闘する。

その後暫く参加を休止するが、1995年にスカイラインGT-RをベースにしたニスモGT-R-LMで復帰。1997年からは本格的GT-1マシンである日産・R390で参戦する。1998年には星野一義鈴木亜久里影山正彦のドライブするR390が総合3位に入賞し、純日本人ドライバーチームが初めて表彰台に上がった。この年は日産から4台がエントリーしたが、すべて10位以内で完走した。翌1999年にも日産・R391で参戦するがリタイヤ。翌2000年にもニスモがR391によるル・マン参戦を計画していたが、この頃日産のCEOに就任したカルロス・ゴーンの判断により撤退を余儀なくされており、現在に至る。

トヨタの挑戦



トヨタが「ワークス」として参戦するようになったのは1987年から。トヨタ・チーム・トムスからのエントリーである。翌1988年には88Cが12位で完走している。1990年には90C-Vが6位に入賞。1年の参戦中断の後、1992年TS010で復帰したが、雨の中のレースでプジョーに破れ、結局総合2位の獲得にとどまる。1994年にはサードからトヨタ94C-Vが参戦し、シフトリンケージが壊れあと一歩のところで総合優勝を逃し、総合2位、クラス優勝となった。

久々の復帰となった1998年はTTEを通じて出走したTS020が圧倒的な速さを見せたが、終了30分前にリタイア。また、1999年には片山右京土屋圭市鈴木利男組が、3号車(1998年仕様と同型車)での出場ながらトップに迫る快走を見せたが、タイヤバーストに見舞われ総合2位に終わった。トヨタは2002年からのF1参戦に集中するため同年限りで参戦を休止した。

なお、先述のTTEの前身はラリーチームであったオベ・アンダーソンモータースポーツであり、現在のトヨタF1の実働部隊であるトヨタ・モータースポーツ Gmbh(TMG)の母体となった組織である。ル・マン参戦前はWRCにトヨタ・セリカGT-Fourやトヨタ・カローラWRCなどで参戦し、選手権を制覇している。

2012年には13年振りにル・マン復帰の予定。TMGが開発したハイブリッドカーによる参戦を予定しており、同年1月に参戦用車両であるTS030 HYBRIDを発表している。

ホンダの挑戦



1994年はホンダNSX GTにより参戦を始めた。初年度はクレーマーレーシングとのタイアップにより3台が参戦し、数多くのトラブルに見舞われ下位に沈むも、全車完走を果たした。2年目の1995年はTCPエンジニアリングが製作したGT1を3台(ターボ車両2台及びNA車両1台)、GT2を2台(チーム国光及び中嶋企画)エントリーさせたが、GT1ターボ車両と中嶋企画とがアクシデントにより予備予選を通過できなかった。ターボ車の一台に至っては、原因不明のトラブルでコースに出る事もできずに予備予選落ちとなった。後に分解して調査した結果、カウルが電気系統のハーネスを挟み込んでいた為に起きた断線が原因である事が判明するが、現場では原因を発見する事ができなかった。中嶋企画はタイムアタックが上手く行かず、好タイムを出す事が出来ないでいたところに、ピットアウト時にオフィシャルが突然マシンの前に飛び出し、撥ねてしまうというアクシデントに見舞われる。幸いオフィシャルは軽症で済んだが、このためフロントウインドウを大破し、その補修に手間取る内にタイムアタックの機会を失い、予備予選の時間が終了となってしまう。チーム側はこれを不服として嘆願書を提出して抗議したが、再度のタイムアタックは受理されず、結局決勝進出は果たせなかった(後の十勝24時間レース鈴鹿1000kmでもチーム国光とは全く明暗が分かれる事となる)。

決勝レースでは、GT1クラスのターボ車が序盤にリタイア、NA車が深夜にクラッシュし、修復したものの義務周回数不足となり完走扱いとならなかったが、悪天候の中を果敢に攻めたノバ・エンジニアリングメンテナンスのチーム国光(高橋国光/土屋圭市/飯田章組)がGT2クラスでクラス優勝を果たした。GT1クラスのターボエンジン車はル・マンの後に鈴鹿サーキットでテストを行っているが、それ以降姿を消しており、GT1クラスの参戦はこの年限りで終了した。
1996年はGT2クラスにチーム国光1台のみが参戦したが、ライバルの進歩が上回りクラス3位に終わった。

その他の日本人、日本チーム勢の活躍

童夢の第二期参戦


1980年代にル・マン参戦を試みていた童夢は、2001年にFIAスポーツカー選手権(FIA SCC)参戦用の車としてオープンプロトタイプカーの童夢・S101を開発すると、同車を購入したプライベーターによりル・マンに再び参戦するようになった。

中でもヤン・ラマース率いる「Racing for Holland」が2001年から2007年までル・マンに参戦し、2001年・2003年には予選4番手を獲得するなど、打倒アウディ・R8の有力候補として期待されていたが、決勝ではトラブルに悩まされることが多く、最高位は2003年・2004年の総合6位と、期待されたほどの成績は残せなかった。

このほか2002年から2004年にかけてKONDO Racing横浜ゴムとジョイントし、童夢・S101でル・マンに参戦。近藤真彦福田良片山右京加藤寛規らがステアリングを握ったが、こちらも2003年に総合13位に入ったのが唯一の完走。

2005年以降はル・マンのレギュレーション変更によりマシンを「童夢S101-Hb」「童夢S101.5」とマイナーチェンジしてきたが、2008年には久々の新車としてクローズドプロトタイプの童夢・S102を開発し参戦(総合33位)。しかしリーマン・ショック以後の世界的な景気低迷により、2009年以降は参戦を休止していたが、2012年に童夢S102を改良したS102.5でペスカローロと提携して復帰することになった。

その他


  • 1990年、東名スポーツがメンテナンスし、その後全日本F3選手権のチャンピオンとなるアンソニー・レイドらがドライブするジ・アルファレーシングのポルシェ962Cが3位表彰台を獲得する。トラストもポルシェ962Cで初参戦、13位で完走する。
  • 1991年にはシフトがメンテナンスするチーム・フェデコのスパイスSE90C/DFR(長坂尚樹/見崎清志/横島久組)が12位で完走し、カテゴリー1クラス優勝を遂げる。トラストも2年連続参戦するが、残り1時間でリタイアとなった。また、AOレーシングが吉川とみ子他女性3名での出場を目指しスパイスSE90C/DFRでエントリーするが、現地で吉川にはライセンスが発給されず、吉川の参戦は断念。代役の女性ドライバーで参戦するが、47周でリタイヤに終わる。
  • 1992年には、粕谷俊二がユーロレーシング(マシンはローラT92/10ジャッド)から参戦し、総合13位で完走。また、原田淳・吉川とみ子・嶋村健太らがチーム・ニッポン(登録名チェンバレン・エンジニアリング、マシンはスパイスSE90C/DFR)として参戦したが、こちらは途中でリタイアしている。
  • 1993年には、コンラッドモータースポーツ(マシンはポルシェ911カレラ)から原田淳が、クラージュ・コンペティション(マシンはクラージュC30)から吉川とみ子が参戦したが、両方リタイアに終わっている。
  • 1994年は、チーム・ニッポン(登録名ADAエンジニアリング、マシンはポルシェ962GTI)が原田淳・吉川とみ子・近藤真彦の3人で参戦したが、途中リタイア。
  • 1995年には、1985年より参戦を続けてきた関谷正徳が、日本人ドライバーとして初の総合優勝 (マクラーレン F1 GTR /チーム・国際開発UK、ドライバーは関谷正徳J.J.レートヤニック・ダルマス)を果たした。
  • 2000年にはテレビ朝日チーム郷と共同で、"テレビ朝日・チーム龍(Dragon)"としてパノスLMP-1を2台エントリーさせている。当初はLM-GT2クラスにクライスラー・ヴァイパーを二台投入した"チーム虎(Tiger)"として、二つのクラスで出場を計画していたが、諸事情でLMP-1クラスのみのエントリーとなっている。予定していたドライバーには高橋国光近藤真彦関谷正徳らが予定され、ル・マン経験者を中心に布陣を固めた「ドリームチーム」として期待されていた。この時ドライバーとピットとの会話を中継するなど新しい試みが行われたが、他チームのピットを取材しようとして拒否される等のトラブルもあった(プレスであると共に、レースに出場するエントラントでもあった為)。また同時に、和装姿のレースクイーン、「チーム姫」を同行して注目を受けた。
  • 同じく2000年にはチームタイサンのポルシェ911GT3がLM-GTクラス優勝を達成している。
  • 2004年にはチーム郷(アウディ・R8)が日本のプライベーターとしては初めての総合優勝を果たした。ドライバーの一人荒聖治は日本人として二人目の総合優勝。
  • 日本車ではないがJLOC(Japan Lamborghini Owner's Club)が、ランボルギーニワークスチームとして2006年のレースに参戦したものの完走には至らなかった。また2007年にも参戦したがフリー走行でクラッシュし、結局1周でレースを終えてしまっている。
  • その他に太田哲也が1993年~1996年まで、羽根幸浩が1995年に、鈴木隆司が1996年~1997年まで、それぞれプライベートチームからの出場を果たしている。
  • 東海大学において林義正研究室(開発コース)でル・マン参戦の為の車両が研究開発されていた。2002年頃からル・マン参戦車両開発に向けた先行実験車両が開発され、その動向が注目されていたが、2008年の大会に参戦する意向が正式に発表され、2月にエントリーが認められた。東海大学で設計し山形のYGKが製作した産学協同開発エンジンを、クラージュ・オレカ製シャシーをモディファイしたものに搭載したマシンを使用したが、学生がメカニック作業に慣れてない等の要因からトラブルが多発。メカニックについてR&D SPORTの支援を仰いだものの、結果は決勝185周リタイアに終わった。林が東海大を退官する関係から2012年に同プロジェクトは終了したが、林はYGKと共同で新たなル・マン参戦プロジェクトを立ち上げる方針である。

テレビ中継


日本では、株式会社マクランサ代表の林正史(株式会社童夢代表の林みのるの実弟)の企画により、1979年にTBSによる2時間番組「ルマン栄光への24時間」が全国放送された。同じく、林正史の企画・プロデュースにより1982年から1986年までテレビ朝日がダイジェスト版を放送し、同局が1987年から2003年まで中継を行っていた。2004年と2005年は、CS放送スカイパーフェクTV!でレース前後を含めた25時間完全生中継、スポーツ・アイ ESPN(現J sports ESPN)でも部分的に中継を行っていた。2006年~2008年のTV中継は行われず、CS放送のG+でダイジェスト版が放送された。

テレビ朝日のル・マン中継


毎年原則として、スタート直前の日本時間22時59分(現地時間15時59分)フォーメーションラップがメゾンブランツェに到達する頃放送開始、放送開始と同時に出場する全マシンのスターティンググリッドがテロップで紹介され、スタートから2周程した後オープニングと提供クレジット、日本時間24時頃にニュースなどによる中断を挟み、以降日本時間翌朝5時まで(年によっては4時までの場合もあった)放送。日曜午後にも1時間半程放送(2003年は放送されず)。ここまでが生中継。ゴールはディレイ録画で日本時間23時に放送開始し1時間半程中継、合計約9時間にも及ぶ長時間中継であった。なおサッカー欧州選手権開催年にはスタート/ゴールが現地時間15時と1時間早まるため、日本でのスタート時の放送は録画であった。日本時間23時の放送開始で、録画のためスタート進行はダミーグリッドからフォーメーションラップがスタートする場面から放送が開始された。

それぞれの時間帯がパートで分けられており、それに沿って実況するアナウンサーは交替していた主にスタートを担当したアナウンサーは2日目の午後の放送とゴールの放送を担当し、中断から朝4~5時までのパート2~3は別のアナウンサーが担当する傾向にあった。

競合する同業社が同じ番組を提供するということは当時の広告業界ではタブーとされていたが、非常に長時間に及ぶこの番組を成立させるためには競合する自動車メーカーや、タイヤメーカーの協力が必要不可欠であった。企画者の林正史が各メーカーを説得して廻り、日本ではじめて競合社が提供する番組が誕生した。

尚、視聴者からリポーターを募集し中継に参加させるという企画を行ったが、後にその出演者が一般から募集した視聴者ではなくプロダクションに所属しているタレントであった事が発覚し、ネット掲示板などで波紋を呼んだことがある。

実況


解説


  • 熊谷睦(1987年 - 1990年・1992年) - 『オートスポーツ』編集長(当時)、1991年はスタジオ解説を担当。
  • 津々見友彦(1991年 - 1995年)
  • 由良拓也(1995年 - 2003年) - 長年に渡って解説を担当、参戦しているマシンを分析する「由良拓也が斬る!」というコーナーを持っていた。1995年はピットレポートを担当。

ピットリポーター


  • 赤井邦彦(1987年)
  • ビル大友(1988年・1989年)
  • 大石吾朗(1988年)
  • 粕谷俊二(1993年・1996年-2001年)
  • 服部尚貴(1996年)
  • 近藤真彦(1997年)

現地リポート


ゲスト解説


ゲスト(現地)


  • 酒井法子(1992年) - ピットバルコニーゲストとして登場。
  • 岡本佳織(1994年) - ピットリポートを担当した。
  • MANISH(1996年) - この年のテーマソング(後述)を担当し、ピットバルコニーゲストとして登場。
  • 松岡充SOPHIA)(2001年) - MANISHと同様、この年のテーマソング(後述)を担当。

ゲスト(スタジオ)


スタジオ司会


歴代テーマ曲


  • 1987年 - テレビ朝日スポーツテーマ
  • 1988年 - テレビ朝日スポーツテーマ
  • 1989年 - テレビ朝日スポーツテーマ
  • 1990年 - 高中正義「Can You Feel It」
  • 1991年 - 外道「龍神 ~空に舞う (1991 Version)」
  • 1992年 - DIMENSION「Out Of Wind」
  • 1993年 - FORCE「HUNAUDIERES」
  • 1994年 - FORCE「DISTANT VIEW」
  • 1995年 - DIMENSION「Land Breeze」
  • 1996年 - MANISH「It's so Natural」
  • 1997年 - ケンイシイ「DRUMMELTER」
  • 1998年 - CORNELIUS「Count 5,6,7,8」
  • 1999年 - LUNA SEA「G.」
  • 2000年 - 東儀秀樹「COOL RUN」
  • 2001年 - SOPHIA「KURU KURU」
  • 2002年 - SOPHIA「ROCK STAR」
  • 2003年 - B'z「IT'S SHOWTIME!!」

ラジオ中継


1990年、1991年に2年間、文化放送で中継された。
実況は同局扇一平アナが担当。

ル・マン24を主題にした映画・ドラマ・ゲーム

映画


ドラマ


レーザーディスク


  • '84 24HEURES DU MANS(1984年、パイオニア、プロデューサー:林正史)

ビデオソフト


  • エキサイティング ルマン(1984年、プロデューサー:林正史)
  • 爆走モンスターマシン 24時間の記録
  • ル・マン'82 爆走!モンスター・マシン(1982年、日本コロムビア、プロデューサー:川野真)
  • DOME&TOM'S IN LE MANS '85(1985年、ファンハウス、プロデューサー:林正史)
  • 24 HEURES DU MANS 1983(1983年、アドインターナショナル)
  • Dramas of Le Mans 24Hours(1980年、東映芸能ビデオ)
  • '86 LE MANS 24 HOURS RACE(1986年、デルタポイント)
  • Le MANS 83(1983年、東映ビデオ、プロデュース DUKE marketing ltd)
  • ル・マン カタログ'85(1985年、TDKコア

LP


  • 24HEURES DU MANS 1983(1983年、Japan Records、プロデューサー:林正史)
  • TINNA/DOME IS A CHILD'S DREAM(1979年、東芝EMI、プロデューサー:新田和長)
  • 童夢ZERO RL(1979年、東芝EMI、プロデューサー:新田和長)
  • FUNKY TRACK/鳴瀬喜博(1984年、徳間ジャパン、プロデューサー:林正史)
  • DIGITAL EXPLOSION '83(1983年、東芝EMI、プロデューサー:林正史)

VHD


  • DOME & TOM'S IN LE MANS '85(1985年、日本ビクター、プロデューサー:林正史)

CD


  • 24 HEURES DU MANS 1983(1983年、Japan Records、プロデューサー:林正史)

小説


  • ニッサンがルマンを制覇する時(高斎正)
  • お気に入りがルマンに優勝する時(高斎正)
  • スーパーカーのル・マン(福野礼一郎) - 「スーパーカー野郎」収録、1994年ル・マンのパラレルワールド的作品

漫画


  • 白と黒の羊(新谷かおる)
  • ミルザンヌの嵐(聖悠紀)

ゲーム


Le Mans 24 Hours video games (英語)も参照のこと。

関連項目


脚注


外部リンク



*
自動車レース
フランスのモータースポーツ大会
ル・マン



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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