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中華民国の[[上海に到着した国際連盟日支紛争調査委員会調査団一行リットン調査団(リットンちょうさだん/The Lytton Commission)は、国際連盟によって満州事変満州国の調査を命ぜられたイギリスの第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする国際連盟日支紛争調査委員会より出された調査団の通称である。

概要

調査団派遣の経緯


溥儀
1931年(昭和6年)、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生した。翌年関東軍清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国した。同年3月、中華民国の提訴と日本の提案により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。

調査団の要員構成


1932年1月、リットン調査団が結成された。委員は下記の5名。

また上記の他に、紛争当事国からのオブザーバーとして、

も参加していた。

調査団の旅程


調査団はまっすぐ満洲入りするのではなく、日本、中華民国(上海南京北京)の視察も行っている。日本では荒木陸相、中華民国では蒋介石汪兆銘張学良、満洲国では当時「執政」の座にあった溥儀と会談している。さらに満洲で抗日活動を続ける馬占山将軍との会見も試みたが、日本側の反対に会い実現できなかった。調査団の視察は1932年6月に完了。8月より北京で調査報告書の作成を開始し、10月2日、報告書を公表した。

報告書の内容


正式書名『国際連盟日支紛争調査委員会報告書』(「Report of the Commission of Enquiry into the Sino-Japanese.」1932年10月2日に公表された報告書は序説および10箇条からなり、その内容は下記のとおり。

  • 序説では委員会設置の過程を明らかにし。
  • 第1章では中国の最近の発達の概観、すなわち清の没落から説き起こし、共和国の出現、その後の内乱、国民党の結成、共産党の跋扈を詳述し。
  • 第2章では満洲国について述べ、すなわち中国が満洲に無関心であり、満洲の今日の発展は日本の努力による旨を述べ、張作霖および張学良時代の政情から露中紛争等に及び。
  • 第3章では日中両国間の満洲に関する諸論点、すなわち日本の満洲における権利を説明し、世界に類例を見ない特殊性を認識し、鉄道、商租権その他に関する諸争点、殊に事変勃発前数年間の重要問題を解説し。
  • 第4章では9月18日当日およびその後満洲で起こった事件を述べ、当時は日中両軍の間に感情が緊張し、日本は万一の敵対行為に対し周到な計画を有し、満鉄線路の爆破を蒙り、迅速かつ的確にこれを実施したが、中国側は攻撃の計画を有しなかった。当夜の日本側の軍事行動は正当防衛の措置と認め得ないが、将校等が自衛のために行動しつつありと考えたという仮説を排除し得ないと記し、以後の軍事行動の経過を述べ。
  • 第5章は上海について2月20日から日本軍撤退までの行動を略記し、領事委員会の補足し。
  • 第6章では満洲国を取扱い、まず新国家の建設段階を述べ、日本の文武官の一団が、独立運動を計画し、組織したものと見なし、自発的独立を否認し、次に現政府の財政、教育、司法、警察、軍隊、金融を考察し、最後に在満中国人は一般に現政府を支持しないと結び。
  • 第7章は「日本の経済的利益と支那のボイコット」と称し、中国の態度を不法と認め。
  • 第8章では満洲における経済的利益を詳述し、資源および開発に日中両国の親善回復を不可欠とし、実際的見地から門戸開放を希望し。
  • 第9章では、満洲は世界の他の地域に類例を見ないような特殊事情が多くあるゆえに、この紛争は一国の国境が隣接国の武装軍隊によって侵略されたという簡単な事件ではないことを指摘し、解決の原則および条件を掲げ、原状回復および満洲国の維持を共に否認し
    1. 日中両国の利益に合致すること
    2. ソビエト連邦の利益尊重
    3. 現行の多辺的条約と調和し得ること
    4. 満洲における日本の利益の承認
    5. 日中間における新たな条約関係の設定
    6. 将来の紛争解決について効果的施設をなすこと
    7. 中国の主権および行政的保全と調和する範囲内で満洲に自治を許す
    8. 内部的秩序は能率ある地方的憲兵隊により、外部的侵略に対する安全保障はすべての軍隊の撤退および不侵略条約による
    9. 日中間の経済的提携の促進
    10. 中国の改造に対する国際的協力等を紛争解決の条件とし
  • 第10章では上の解決方法を例示的に示すために理事会に対して若干の提議を行ない、日中両国が上の解決を討議することを承認するならば、諮問会議を招集すべきこと、ならびにその会議で到達されるべき協定の形態、解決されるべき諸点を説き、満洲自治政府には一般条約締結、外交関係設定、税関、郵便、塩税、印紙税、煙草税の管理、ならびに行政長官の任命権を与えず、これを中国政府に留保し、特別憲兵隊は外国人の協力を得て組織し、満洲における唯一の武装団体とするため外国軍隊は全部撤退し、行政長官は外国人顧問を任命し、その大部分を日本人とすべしとした。

結論


報告書では、中華民国と満洲国の実情を述べた後、下記のように論じている。

  • 柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は、自衛的行為とは言い難い。
  • 満洲国は、地元住民の自発的な意志による独立とは言い難く、その存在自体が日本軍に支えられている。

と、中華民国側の主張を支持しながらも、

  • 満洲に日本が持つ権益、居住権、商権は尊重されるべきである。一方が武力を、他方が「不買運動」という経済的武力を行使している限り、平和は訪れない。

などの日本側への配慮も見られる。

紛争解決に向けた提言


また、日中両国の紛争解決に向けて、下記のような提言を行っている。

  • 「柳条湖事件以前への回復(中国側の主張)」「満洲国の承認(日本側の主張)」は、いずれも問題解決とはならない。
  • 満洲には、中国の主権下に自治政府を樹立する。この自治政権は国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下、充分な行政権を持つものとする。
  • 満洲は非武装地帯とし、国際連盟の助言を受けた特別警察機構が治安の維持を担う。
  • 日中両国は「不可侵条約」「通商条約」を結ぶ。ソ連がこれに参加を求めるのであれば、別途三国条約を締結する。

報告書への各国の反応


満洲事変を「内政干渉」としつつも日本にも一定の理解を示したこの報告により、イギリスやアメリカ、フランスやイタリアをはじめとする連盟各国は「和解の基礎が築かれた」と大きな期待をもった。リットンを長とする委員会は、1932年3 - 6月にわたり満州国および中華民国を調査し、9月に報告書を提出した。この間の3月1日満州国が独立を宣言、中華民国政府は承認しなかったが報告書提出前の9月15日に日本は同国の独立を承認した。

リットン報告書は「柳条湖事件における日本軍の侵略は自衛とは認められず、また、満州国の独立も自発的とはいえない」とした。しかし、「事変前の状態に戻ることは現実的でない」という日本の主張をとり入れ、日本の満州国における特殊権益を認め、日中間の新条約の締結を勧告したが、この報告書をめぐり日中は対立した。

内容的には日本にとって「名を捨て実を取る」ことを公的に許す報告書であったにもかかわらず、報告書の公表前に満洲国を承認し、「満洲国が国際的な承認を得る」という1点だけは譲れない日本はこれに反発。1933年2月24日の国際連盟総会での同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項紛爭解決ニ至ラサルトキハ聯盟理事會ハ全會一致又ハ過半數ノ表決ニ基キ當該紛爭ノ事實ヲ述へ公正且適當ト認ムル勸告ヲ載セタル報告書ヲ作成シ之ヲ公表スヘシおよび6項聯盟理事會ノ報告書カ【紛爭當事國ノ代表者ヲ除キ】他ノ聯盟理事會員全部ノ同意ヲ得タルモノナルトキハ聯盟國ハ該報告書ノ勸告ニ應スル紛爭當事國ニ對シ戰爭ニ訴ヘサルヘキコトヲ約ス(報告書が当事国を除く理事会全部の同意を得たときは連盟国はその勧告に応じた紛争当事国に対しては戦争に訴えない)についての条件が成立した。松岡洋右全権率いる日本はこれを不服としてその場で退場し、日本政府は3月8日に脱退を決定(同27日連盟に通告)し、日本国内世論はを拍手喝采をもって迎えた。42対1は当時日本で流行語になり語呂合わせで「向こうは死に体でこっちは1番なんだ」等と一部で評された。

その後


1933年2月24日の連盟総会ではリットン報告を基礎とした「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」の審議および同意確認にもとづき、中国は連盟規約第16条(経済制裁)の対日適用を要求、また同日午後の総会では日本軍の熱河攻略を取り上げおなじく第16条の制裁適用を要求した。これらの要求は他の代表の沈黙および討議打ち切り宣言により黙殺された連盟に参加していない米国はリットン調査団が組織される以前の1931年11月11日の段階で駐米英国大使により対日制裁に反対の立場であることが確認されていた。*「経済封鎖からみた太平洋戦争開戦の経緯」高橋文雄(戦史研究年報2011.3)http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/201103/05.pdfhttp://ci.nii.ac.jp/naid/40018877832
PDF-P.12
。国際連盟が「公正かつ適当」(国際連盟規約15条4)とした当報告書による勧告において日本軍の自衛行為や満州国建国の自発性が否認されたとは言っても、満洲国はその後少なからぬ国家から承認を受け、外交関係を結んだ。委員を出していたドイツ(1938年2月承認『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』ハインツ・E・マウル 芙蓉書房出版 P.54)やイタリア(1937年11月承認『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』ハインツ・E・マウル 芙蓉書房出版 P.55)が最終的には承認したほか、フィンランドをはじめとする枢軸国を中心として、タイ王国などの日本の同盟国とクロアチアなどの枢軸国の友好国、スペインバチカンデンマークなどの中立国をはじめ、以下の20か国が承認をした。なお、第二次世界大戦が勃発した1939年当時の独立国の数は60カ国にも満たなかった。このうち承認国の大半は、軍事的な支配圏の拡張を始めた日独伊の友好国や侵略国、その占領下、影響下にある国や政権であった。

その他では、ドミニカ共和国エストニアリトアニアは正式承認しなかったが国書の交換を行った。また、連合国の1国であるソ連は日ソ中立条約締結時に出された声明書で「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重することを確約し、正式な国交こそ結んでいなかったものの、事実上承認していたと言える。

脚注


文献情報


関連項目



満州事変
満州国
国際連盟
1931年の日本



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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