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ベルギー合衆国(オランダ語;Verenigde Nederlandse Staten, フランス語 États-Belgiques-Unis)は1790年1月から12月まで存在した南ネーデルラントの連邦で、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世に対する反乱を起こし、短期間存続した国家である。英語では、United Belgium States、United Belgian States、United Netherlands Statesとも記述され、日本語ではベルギー連合国とも記述される場合もある。
背景
啓蒙時代の影響を受け、ハプスブルク家の皇帝であるヨーゼフ2世は1780年代にオーストリア領ネーデルラントにおいて大規模な改革を進めた。これは、急速に近代的で中央集権的な政治的、司法的、行政的制度の構築であった。旧式の地方に権力が存在した制度は、全帝国で均一な司法的制度に置き換えられ、オーストリア領ネーデルラントの独立州は9つの地域(Kreitsen)と35の区域(Districten)に置き換えられた。ヨーゼフ2世は教育制度と宗教を分離し、多数の宗教的階級を改革し廃止した。1789年、皇帝の中央集権的政策に対しての抵抗として、オーストリア領ネーデルラントにおいて反乱が発生した。2つの派閥が発生し、1つは「シュタティスツ」(Statists)であり、改革に反対した。1つは「フォンキシュツ」(Vonckists)で最初は改革に賛成したが、その後、改革の開始と実行がうまく行っていないことから反対に移った。
ブラバント
反乱はブラバントで発生した。それは、1789年1月にもはや皇帝の決めた規則は認められないと宣言したもので、ブラバント革命とも呼ばれる。党派のリーダーである、ヘンドリック・ファン・デア・ヌートはオランダ共和国の国境を越え、ブラバント州の北ネーデルラントにあるブレダで軍を揚げた。
10月に、彼はブラバントに進軍し、10月27日にターンハウトの戦いでオーストリア軍を破り、ターンハウトを占領した。ヘントは11月13日に占領され、11月17日には帝国のネーデルラント総督に任じられていたテシェン公アルベルト・カシミール(ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世の第12子)と妃マリア・クリスティーナ(ヨーゼフ2世の妹)がブリュッセルへ逃走した。残った帝国軍はルクセンブルクとアントウェルペンの城壁の中に撤退した。ファン・デア・ヌートはブラバントの独立を宣言し、他のオーストリア領ネーデルラント(ルクセンブルクを除く)はすぐそれに続いた。1790年1月11日、彼らは和平に調印し、ベルギー合衆国(Verenigde Nederlandse Staten / États-Belgiques-Unis)を構成した。1581年のネーデルランドとスペインの間の宣誓と1776年のアメリカ独立宣言がベルギー合衆国の条約のモデルとなった。
共和国の形成
1789年、まったく別の革命がリエージュ司教領で発生した。革命勢力は、共和国を作り、同盟の一種として、ベルギー合衆国に合流した。新しい合衆国のもろさを理解していたヴァン・デア・ヌートは、ネーデルランド連邦共和国に統一の提案と支援を求め接近したが、うまくいかなかった。また、シュタティスツとフォンキシュツの派閥は対立しており、内戦の寸前となっていた。
一方、その間にヨーゼフ2世が死去し、弟レオポルト2世が帝位を継いだ。レオポルトはオーストリア領ネーデルラントを奪還するために素早く行動した。10月24日に帝国の軍隊はナミュールを占領し、ナミュール州に皇帝の支配を認めさせた。2日後にウェスト=フランデレン州もそれに続き、12月までに全ての領土は帝国の手に戻された。
遺産
短命ではあったが、ベルギー合衆国は長期にわたる影響を持った。それは南ネーデルラントに初めての独立というものを与え、「ベルギー」と言う国家に対する政治的な考えを思いつかせた。1830年に、南ネーデルラントの住民はベルギー独立革命において、ネーデルラント連合王国に対して反乱を起こした。これにより現在のベルギーが出来た。
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