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Башҡорттар

バシキール人は、主としてロシア連邦バシコルトスタン共和国に居住するテュルク民族。自称はバシコルト。1989年のデータで、ソ連領内に144万9千人が居住していた。

人種的には、モンゴロイドコーカソイド混血。言語は、テュルク諸語の北西語群(キプチャク語群)に属するバシキール語。主要宗教は、イスラム教スンニー派

におけるバシキール人の転轍手セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー撮影のカラー写真で世界最古の1枚]]

歴史


7世紀~8世紀、バシキール人の祖先は、遊牧国家ペチェニェグの下に構成遊牧民の一部として統合されており、カスピ海沿岸及び北カフカーズのステップに居住していた。9世紀~10世紀、南シベリア、中央アジアのテュルク系諸民族(マジャール人ブルガル人、ペチェニェグ人、ペルミ・ウグル人)は、バシコルト連合に統合された。
アッバース朝以降に著された地理書などのアラビア語資料ではバーシュギルド باشغرد Bāshghird として現れる。922年アッバース朝カリフムクタディルが現在のカザン周辺を支配していたブルガール・カガン国へ使節を派遣し、その使節に随伴したイブン・ファドラーン <Ahmad ibn Fadlan>(家島彦一訳注『ヴォルガ・ブルガール旅行記』 平凡社東洋文庫、2009年9月)が旅程を記録している。バシキール人たちの居住地域はこのブルガール・カガン国に隣接していたようである。イブン=ファドラーンの報告によれば、バシキール人中において、樹木ウマ、昼夜、天地などに神が宿り、中でも天の神(恐らくテングリ)が最高であると認識されていたようで、イスラム教よりもシャーマニズムが優勢だったことを指摘した。

11世紀~13世紀、バシキール人のオグズ系とキプチャク系の2派への分化が認められた。1236年頃にバトゥ率いるモンゴル帝国の西方遠征軍によってヴォルガ川流域のブルガール地方を征服し、これらの地域はジョチ・ウルスキプチャク・ハン国)に併合された。『集史』などの13、14世紀のペルシア語アラビア語文献では「バーシュギルド」をヴォルガ流域地域とは別に、ポーランド王国ハンガリー王国を指す場合もあった。

14世紀後半、ジョチ王家宗主の一族であるバトゥ家の断絶などに伴い、トカ・テムル家系やシバン家系などジョチ王家の傍流の勢力が台頭し、残余の傍系王族間の主導権争いの結果、ジョチ・ウルスは中央政権による統一を失って事実上分裂・崩壊した。15世紀前半、これらのトカ・テムル家系などの諸王家はカザン・ハン国の北西部、西シベリア・ハン国の北東部、ノガイ・オルダの南部及び中央部に3分された。

ロシアによるカザン・ハン国の征服(1552年)と併合(1557年)後、1662年~1664年、1675年~1683年、1705年~1711、1735年~1740、1755年に5度の反露蜂起が起きた。ロシアによるトルキスタン併合後は、タタール人の通訳の役割で統治機構に組み入れられた。17世紀~18世紀、カルムイク人の一部と中央アジアのサルト人の一部がバシキール人中に同化した。

1917年ロシア革命の際には、アフメト・ゼキ・ヴェリディら、バシキール人民族主義者らによりバシキール人の独立運動が行われ、シベリア出兵では独立運動「バスマチ蜂起」を起こしコルチャーク白軍とも連携したが、ソビエト政権の攻撃により解体された。

1937年、ロシアの構成下でバシキール自治共和国憲法が採択された。バシキール自治ソビエト社会主義共和国は、ヴォルガ川中流とウラル山脈の間に位置する。

1990年10月、バシキリアは、主権国家バシコルトスタンを宣言したが、ソビエト連邦の解体に伴い、1992年3月31日よりロシア連邦の構成共和国となった。

関連項目


バシコルトスタン共和国
ロシアの民族



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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