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ノーベル平和賞受賞者を決定するノルウェー議会
オスロ市庁舎外観。
ノーベル平和賞(ノーベルへいわしょう、スウェーデン語ノルウェー語: Nobels fredspris、英語: Nobel Peace Prize)は、ノーベル賞の一部門で、アルフレッド・ノーベルの遺言によって創設された五部門のうちの一つ。
ノーベル賞の創設者アルフレッド・ノーベルはスウェーデンとノルウェー両国の和解と平和を祈念して「平和賞」の授与はノルウェーで行うことにした。平和賞のみ、スウェーデンではなくノルウェーが授与主体である。

概要


創設者のノーベルは遺言で、平和賞を「国家間の友愛関係の促進、常備軍の廃止・縮小、平和のための会議・促進に最も貢献した人物」に授与すべしとしているが、選考委員会では「平和」の概念を広く解釈しており、受賞対象者は国際平和、軍備縮減、平和交渉だけでなく、人権擁護、非暴力的手法による民主化や民族独立運動、保健衛生、慈善事業、環境保全などの分野にも及んでいる。毎年の受賞は最高3者まで。選考はノルウェー国会が任命する政治的に独立した機関であるノルウェー・ノーベル委員会(5人)が行うノーベル平和賞 (Norway the official site in Japan)。各国に推薦依頼状(通常非公表)を送り、推薦された候補者より選ばれる。受賞が決まるのは、例年10月頃。12月10日にオスロオスロ市庁舎で授賞式が行われる。

受賞者



1900年代


1910年代


1920年代


1930年代


コーデル・ハル

1940年代


ラルフ・バンチ

1950年代


マーティン・ルーサー・キング・ジュニア

1960年代


マザー・テレサ

1970年代


ダライ・ラマ14世

1980年代


アウンサンスーチー

1990年代


バラク・オバマ

2000年代


劉暁波

2010年代


物議を醸した受賞例


ノーベル平和賞はその性質上、他のノーベル各賞に比して政治色が格段に強い。科学三賞(医学・物理・化学)や経済賞などの場合は業績に対し、ある程度客観的な評価を経て選考決定されるが、平和賞は現在進行形の事柄に関わる人物も受賞対象になり、選考委員による主観的評価(毎年選考に向け、ロビー活動も政治行動も多くある)にならざるをえないため、選考結果を巡って世界中でたびたび論議が起こる。以下の事例も見ても判るが、ノルウェー外交による政治アピールの側面も有るといえる。

  • オシエツキー(1935年)やサハロフ(1975年)、アウン・サン・スー・チー(1991年)、劉暁波(2010年)などのように、母国で政治犯とされている人権活動家や民主化活動家への授与は、やはり当事国政府から強い反発を引き起こしている。オシエツキーへの授与では、彼に対する平和賞をナチズム批判の明確な意図があるとして、ヒトラー政権はその後ドイツ人がノーベル賞を受け取ることを禁止し代わりに「ドイツ芸術科学国家賞」を創設した。劉暁波への授与では、中華人民共和国政府はノーベル平和賞に対抗する形で「孔子平和賞」を創設した。
  • 受賞者が政治犯として当事国に拘束されていたり、出国が認められなかった場合には、本人が授賞式に出席できないケースもたびたびある。サハロフとワレサ(1983年)の場合は妻、アウン・サン・スーチーの場合は、夫と息子が(ミャンマー国外在住で)代理出席したが、オシエツキーの場合は代理出席した弁護士が賞金のみを受け取り横領した。劉暁波の場合は家族の代理出席も出来なかった(妻の出国を政府当局が認めなかったため)。
  • 非核三原則」を提唱したことを持って、1974年に受賞した佐藤栄作の場合、後に有事の際の「核持ち込み」に関する密約が、日米間で結ばれていたことが明るみになった(日米核持ち込み問題)。また、南北首脳会談開催を理由に2000年に受賞した金大中の場合は、後に北朝鮮への多額の不正送金疑惑が発覚し、韓国国内からは「金で買ったノーベル賞」との批判が巻き起こった。いずれも、受賞当時には知られていなかった事実が明るみになることで、平和賞受賞者としてふさわしかったのかという議論が今日でも続いているケースである。
  • 1973年には、ベトナム和平協定調印を理由に、アメリカのヘンリー・キッシンジャーと北ベトナムのレ・ドク・トが共同受賞したが、キッシンジャーへの授与に対しては、ノーベル平和賞委員会の中でも激しい議論が巻き起こり、反対した2人の委員が抗議のため辞任するほどだった。平和賞の受賞主体であるノルウェー政府は激しい世論の批判にさらされ、当時の国王オラフ5世が、首都オスロの路上で雪玉を投げ付けられる事件まで起きた。また、レ・ドク・トは受賞を辞退した。その後、北ベトナムは和平協定を破って南ベトナムへの攻撃を再開し、1975年にはベトナム全土を武力統一した。
  • 1994年には、パレスチナ和平合意締結を理由に、イスラエルのイツハク・ラビン首相とシモン・ペレス外相、パレスチナ解放機構(PLO)のヤーセル・アラファト議長が共同受賞したが、パレスチナの平和は続かず、やがて武力紛争が再開された。
  • 2000年には、南北首脳会談を実現させたことが評価され、韓国の金大中大統領(当時)が受賞したが、金大中政権が発足当時からノーベル平和賞受賞のために組織的な「工作」を行っていたことや、北朝鮮に5億ドルを不法送金していたことが、後年アメリカに政治亡命した韓国国家安全企画部(現・国家情報院)の元職員にによって暴露され、物議を醸している。「金大中ノーベル賞は工作」暴露の元情報員、米国に亡命へ=韓国サーチナ 2012年1月25日
  • 2002年には、アメリカのジミー・カーター元大統領が受賞した。当時アメリカが行おうとしていたイラク戦争に対して、ヨーロッパとりわけ北欧諸国は反対の立場をとっており、カーターの受賞はカーターが北欧同様にイラク攻撃に懐疑的であったことによると考えられている。また2005年に受賞したエジプトのモハメド・エルバラダイは、イラク戦争を契機にアメリカに対して批判的態度をとっており、この受賞もブッシュ政権への批判であると指摘されているノーベル平和賞はしばしば政治的に使われていた
  • 2007年には、環境問題提起によるアメリカの元副大統領のアル・ゴアへの受賞も、上記と同じように政治的な意味合いが強かったのではないかとされている。2000年の大統領選挙は、ゴア対ブッシュとなり後者の勝利が決定に至るまで、紆余曲折(ブッシュ対ゴア事件参照)があった事は周知の事実である。また、同じく候補だったイレーナ・センドラー(ポーランドのシンドラーとも呼ばれる反ホロコーストレジスタンスの活動家)の方が平和賞の趣旨に沿った活動を行っており、より相応しかったのではないかと言う批判も根強かったFederation of Social Workers (IFSW) – IFSW supported nomination of Irena Sendler for Nobel Peace Prize. IFSW. 2010年12月10日閲覧
  • 2009年には、アメリカのバラク・オバマ大統領が、プラハでの「核なき世界」演説に代表される核軍縮政策の呼びかけなどを理由に受賞したが、就任1年目で実績が乏しい段階での授与だったために「時期尚早ではないか」との論議が巻き起こった</ref><ref></ref><ref></ref>。平和賞推薦の締め切りがオバマ大統領就任のわずか12日後だったことも驚きに拍車をかける事となった<ref></ref>。平和賞推薦の締め切りがオバマ大統領就任のわずか12日後だったことも驚きに拍車をかける事となった<ref>

備考

賞金分配を巡るトラブル


賞金の分配でもめてベティ・ウィリアムズマイレッド・コリガン=マグワイア(いずれも1976年)の組織はバラバラになってしまった。

ガンディーが受賞しなかった理由


マハトマ・ガンディーはノーベル平和賞を受賞しなかった。死後数十年経ってからノーベル委員会が公表した事実によると、ガンディーは1937年から1948年にかけて前後5回ノーベル平和賞にノミネートされていた(1948年は暗殺の直後に推薦の締め切りがなされた)。これについてノーベル委員会は、ガンディーが最終選考に残った1937年、1947年、1948年の選考に関しウェブサイト上で以下のように述べている(Mahatma Gandhi, the Missing Laureate)。

  • 1937年には、彼の支持者の運動が時として暴力を伴ったものに発展したことや、政治的な立場の一貫性に対する疑問、彼の運動がインドに限定されていることへの批判があった。
  • 1947年は、当時インドですでに起きていたヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立への対処に関し、ガンディーが非暴力主義を捨てるかのような発言をしたことで、選考委員の間に受賞に対する疑問が起きた。
  • 1948年は最終候補3人の1人で選考委員からは高い評価を得ていたが、故人に対してノーベル賞を与えられるかどうかで議論が起きた。当時は規定で除外されていなかったが、何らかの組織に所属していなかったガンディーの場合賞金を誰が受け取るかが問題になった。最終的に、受賞決定後に死亡した場合以外は故人に賞を与えるのは不適切だという結論となった。ガンディーがもう1年長生きしておれば、賞を与えられていたと考えるのが合理的であろう。
  • ガンディーがそれまでの他の平和賞受賞者とは異なるタイプの平和運動家であったこと、1947年当時のノーベル委員会には今日のように平和賞を地域紛争の平和的調停に向けたアピールとする考えがなかったことが影響している。委員会がイギリスの反発を恐れたという明確な証拠は見当たらない。

脚注



関連項目


外部リンク



へいわ
平和の賞
ノルウェーの文化



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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