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セント・ヘレンズ山またはセントヘレンズ山 (Mount St. Helens) は、アメリカ合衆国ワシントン州スカマニア郡にある活火山で、シアトルから南へ約154km、オレゴン州ポートランドから北東へ約85kmの地点に位置する。カスケード山脈の一部であり、先住民族のクリッキタットからは「煙と火の山」という意味の「ロウワラ・クロウ (Louwala-Clough)」と呼ばれていた。セント・ヘレンズという山名は、18世紀後半にカスケード山脈の調査を行ったイギリス海軍航海士ジョージ・バンクーバーが、友人であった外交官の初代セント・ヘレンズ男爵アレイン・フィッツハーバート (Alleyne FitzHerbert) にちなんで名づけたものである。

セント・ヘレンズ山は、1980年5月18日に大噴火を起こしたことで有名である。この噴火によってアメリカ合衆国の経済は大きな打撃を受けた。200軒の建物と47本の橋が消失し、57人の命が奪われた。鉄道は24km、高速道路は300kmにわたって破壊された。さらにセント・ヘレンズ山の山頂部分は大規模な山体崩壊によって直径1.5kmにわたる蹄鉄型の火口が出現し、山の標高は2,950mから2,550mに減少した。この噴火はハザードマップをうまく活用して立入制限を行い、人的被害を小さなものにとどめることができた例としてよく知られている。

カスケード山脈の他の多くの火山と同様に、セント・ヘレンズ山は火山灰軽石などの噴出物が溶岩とともに円錐状に堆積した山であり、複式円錐火山ないし成層火山と呼ばれる内部構造をしている。またセント・ヘレンズ山には複数のデイサイト溶岩ドームが崩壊してできた玄武岩安山岩の層が含まれており、この層には1980年の大噴火で崩壊したゴート・ロックスと呼ばれた山体の北側の斜面にあった溶岩ドームも含まれている。

地勢


セント・ヘレンズ山の位置(アメリカ西海岸)
カスケード山脈の東部に位置しており、山の周囲にはセント・ヘレンズ山と兄弟関係にある火山が多数存在している。セント・ヘレンズ山から東に約55kmの地点にはアダムス山が、セント・ヘレンズ山から北東に約80kmの地点にはレーニア山が、セント・ヘレンズ山から南東に約95kmの地点にはフッド山が、位置している。1980年の大噴火までは、セント・ヘレンズ山はワシントン州の中で5番目に高い山であり、カスケード山脈の中では目立って高い山ではなかった。それでもセント・ヘレンズ山の標高は3,000m近くあり、さらに山の頂は万年雪に覆われていたため、周囲の丘陵から傑出した外観をしていた。山頂は山の基底部から約1,500mの高さにあり、山の北東側では隣の峰と長さ約10kmにわたって標高約1,340mのを形成していた。その他の部分でも標高1,200m級の谷が多数存在していた。北側に位置するスピリット湖は、有史以前の噴火によって谷が堰きとめられてできた湖である。

セント・ヘレンズ山とその周辺地域の衛星写真
セント・ヘレンズ山から流れている主要な河川は3本ある。山の北側から北西側に流れるトートル川、山の西側に流れるカラマ川、山の南側から東側に流れるルイス川である。これらの河川の水は、セント・ヘレンズ山に降り注ぐ雨や雪によって供給されており、アメリカ海洋大気庁の統計によると年間約3600mmの降水がある。ルイス川には水力発電を行うためのダムが3つある。

セント・ヘレンズ山はワシントン州スカマニア郡に位置しているが、セント・ヘレンズ山へ行く際には、スカマニア郡の西に位置するカウリッツ郡から向かうほうが便利である。セント・ヘレンズ山から西方約55kmのキャッスル・ロックにある州間高速道路5号線49番出口からワシントン州道504号線を東に向かうことで、セント・ヘレンズ山の北の麓へ行くことができる。

州間高速道路5号線はアメリカ合衆国の西海岸を南北に走る高速道路であり、セント・ヘレンズ山付近ではカウリッツ川沿いを走っている。キャッスル・ロックロングビューケルソーなどの都市を結び、キャッスル・ロックから南に約80kmの地点にはポートランドが位置している。

セント・ヘレンズ山に最も近い自治体はワシントン州クーガーであり、山頂から南南西に約18kmのルイス川沿いに位置している。セント・ヘレンズ山の一帯はギフォード・ピンショー国有林に指定されているが、一部は私有地となっている。

伝承


フッド山(1985年撮影)
セント・ヘレンズ山の周囲に居住する先住民族の間では、セント・ヘレンズ山に関するさまざまな神話伝説が伝承されてきた。数ある伝説の中で最も有名な話は、先住民族のクリッキタットの間で語り継がれてきた『神々の橋』という物語である。大昔、偉大なる精霊がパートとワイーストという2人の息子を連れてコロンビア川を下ってきた。ところがパートとワイーストは互いに仲が悪く、喧嘩ばかりしていた。そこで偉大なる精霊はパートとワイーストをコロンビア川の両岸に分けて住まわせることにした。

パートは川の東岸に住み、クリッキタットという部族を創造した。一方ワイーストは川の西側に住み、ノマースという部族を創造した。やがて争いが収まったことから、偉大なる精霊は2つの部族が仲良くできるよう、コロンビア川に巨大な石橋を架けた。こうして、人々は川の両岸を互いに行き交うことが出来るようになり、この橋は「神々の橋」と呼ばれるようになった。

それから数十年、川沿いにはたくさんの集落ができ、人々は仲良く暮らしていた。しかしながら中にはサケ果物が取れることに感謝もせず、欲張って喧嘩ばかり起こす人々もいた。偉大なる精霊は、そのような悪しき心を持つ人々がいることに激怒し、人々に罰を与えることにした。

ある朝、人々が目覚めると、空は暗闇に包まれていた。外には雪が積もり、人々は飢饉に襲われた。この惨状を見かねたルーウィットという名の老女は、人々を助けてくれるよう、偉大なる精霊の元を訪れた。偉大なる精霊はルーウィットの優しさに心を打たれ、人々を飢えから解放した。さらに偉大なる精霊はルーウィットに火を贈り、「神々の橋」の火を守る役目を与えた。ルーウィットがこの役目を熱心に果たしたことから、偉大なる精霊はルーウィットに褒美として若さと美を与えた。

アダムス山(1987年撮影)
美しい乙女となったルーウィットを見たパートとワイーストはルーイットをいたく気に入り、熱心に求婚をした。ところがルーウィットが曖昧な返事をしたことから2人はルーウィットを巡って争いを始めた。川の両岸から焼けた石を投げ合い、森林や家々を焼き払い、大地を揺すっては破壊の限りを尽くした。

これに憤怒した偉大なる精霊は、神々の橋を叩き壊し、パートとワイースト、そしてルーウィットを自分のもとへと呼びつけた。偉大なる精霊は巨大な腕を振りかざし、雷とともにパートとワイーストを山へと変えた。そしておもむろにルーウィットのほうを向き、ルーウィットも山へと変えてしまった。

クリッキタットの間では、パートはフッド山、ワイーストはアダムス山になったと伝えられている。そして白いローブを纏っていたルーウィットは、雪で覆われたセント・ヘレンズ山になったと伝えられている。

しかしながらセント・ヘレンズ山は1980年の噴火により、湖水は火山灰で覆われ、深い緑の森も吹き飛び、その優美な外観を見ることはできない。現在のセント・ヘレンズ山は、可憐な少女ルーウィットの姿ではなく、老女ルーウィットの姿に戻ってしまっている。

人類史


コロンビア川
セント・ヘレンズ山を訪れた最初のヨーロッパ人として記録されているのは、イギリス海軍航海士であったジョージ・バンクーバーである。バンクーバーは1792年5月19日、イギリス海軍の艦船「」の艦長に就任し、1794年までそれで北太平洋沿岸を航行した。1792年、コロンビア川の河口に入ったディスカヴァリーの眼前には、カスケード山脈の山々が広がっていた。バンクーバーは高くそびえる山々に対して英語の名称を次々に付けていった。そして1792年10月20日、バンクーバーは山頂に雪を覆った美しい山に対して、友人であった外交官の初代セント・ヘレンズ男爵にちなんで、セント・ヘレンズ山と命名した。バンクーバーの訪問から数年後、セント・ヘレンズ山の周辺地域で火山が噴火した。そしてこの噴火を聞きつけた多くの探険家や商人や宣教師が、セント・ヘレンズ山を訪れ、数多くの記録を残した。後世の地質学者や歴史学者は、1800年に起こった噴火が、以後57年間にわたるゴート・ロックス噴火期の始まりであるとしている。ワシントン州北東部に居住していた先住民族はこの噴火によって噴出した火山灰を「乾いた雪」と驚き、神に祈りをささげた。

1805年から1806年にかけて、ルイス・クラーク探検隊はコロンビア川からセント・ヘレンズ山の姿を確認したが、セント・ヘレンズ山の噴火に関する記録は全く記されていない。しかしながらポートランド近くのに入る際、流砂や川底の障害物の存在を確認していることから、ルイス・クラーク探検隊が訪れる十数年前にフッド山で噴火があったと推測されている。

セント・ヘレンズ山の噴火に関する信頼性のある最初の報告は、に設立されたハドソン湾会社に務めていたメレディス・ガードナーによって、1835年になされた。ガードナー博士はエディンバラ新哲学学会誌に噴火に関する報告書を送り、1836年1月に発表された。1841年イェール大学ジェームズ・デーナは、の航海の途中でコロンビア川の河口から平穏なセント・ヘレンズ山の山頂を確認しており、さらに探検隊の別のメンバーは、セント・ヘレンズ山の基底部に玄武岩質溶岩の塊があったと述べている。

1842年の晩秋から初冬にかけて、いわゆる「大噴火」が地元の入植者や宣教師たちによって確認された。この噴火では巨大な灰色の噴煙が報告され、小規模な噴火が15年にわたって続いた。この間の噴火はすべて水蒸気爆発であったと考えられている。オレゴン州の牧師は、1842年11月22日にセント・ヘレンズ山で噴火があったと証言している。この噴火による降灰は、山頂から約80km離れたオレゴン州にまで及んだとされる。

1843年10月、後にカリフォルニア州知事となったは、この噴火に見舞われた先住民族の話を残している。この話によると、この先住民族は鹿狩りの途中で噴火に遭遇して溶岩流によって両脚に熱傷を負い、フォート・バンクーバーで治療を受けたとされている。しかしながら当時の物資補給所の管理人ナポリアン・マクギルベリーはこの話を否定している。1845年にはイギリスの中尉ヘンリー・ウォーレが噴火の様子をスケッチしており、同年にはカナダの画家が噴火の様子を水彩画で描いている。どちらの絵も、山体の北西側の斜面から観察したものであると推測されている。
ポール・ケーンによるセント・ヘレンズ山の噴火図(1845年)

1857年4月17日、ワシントン州の新聞は、「セント・ヘレンズ山、もしくはその南方の山が噴火状態にあると見られる」と報道した。この噴火は、堆積した火山灰の層の薄さから、水蒸気と粉塵を含んだ噴煙が上がっただけの小規模なものであったと推測されている。そしてこれ以後、1980年までセント・ヘレンズ山での火山活動は起こっていない。

山の北側上空から撮影した、噴煙を上げるセント・ヘレンズ山(1982年3月21日撮影)
それから1世紀以上の後の1980年5月18日8時32分(協定世界時同日15時32分)、セント・ヘレンズ山は長い眠りから覚め、123年ぶりに大噴火を起こした。その数ヶ月ほど前から火山活動が活発化し大噴火の予兆を呈していたことから、セント・ヘレンズ山近郊には避難命令が発令された。しかしながらセント・ヘレンズ山近郊に居住していた旅館の所有者ハリー・トルーマンは避難を拒否し、世間の注目を集めた。トルーマンはマスメディアからインタビューを受けた際、噴火の危険性は「ひどく誇張されている」と主張した。

そして大噴火により、トルーマンを含む住民など57人が死亡もしくは行方不明となった。トルーマンの遺体は確認されていないが、旅館とともに9mの灰や土石流に埋もれていると推測されている。200軒の建物と47本の橋が消失し、鉄道は24km、高速道路は300kmにわたって破壊された。さらにセント・ヘレンズ山の山頂部分は大きく吹き飛び、直径1.5kmにわたる蹄鉄型の火口が出現し、山の標高は2,950mから2,550mに減少した。

当時のアメリカ合衆国大統領ジミー・カーターは被害調査のため現地視察を行い、月面よりも荒涼としていると述べた。同年5月23日、被害状況を撮影するためにセント・ヘレンズ山を飛行していたヘリコプターが墜落し、同月25日未明に小噴火が発生した。しかし幸運なことにヘリコプターの乗員は生き残り、2日後に無事救助された。

Johnston Ridge Observatory から見たセント・ヘレンズ山(2008年)
1982年、当時のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンアメリカ合衆国連邦議会はセント・ヘレンズ山とその周囲約445kmをに指定し、ギフォード・ピンショー国有林の一部とした。国有林のビジターセンターは、1980年の噴火で死亡した火山学者のを記念して命名されたジョンストン・リッジという丘に建てられている。

地史

形成期


地質学的証拠によると、セント・ヘレンズ山は新生代第四紀更新世末期の紀元前3万9,600年頃、噴火によって噴出した軽石火山灰などによって形成が開始された。紀元前3万9,000年頃には極めて大規模な火砕流が発生し、セント・ヘレンズ山の原型が完成した。最終氷期末期の紀元前1万8,000年頃から紀元前1万4,000年頃には、円錐状の山体の一部が砕かれ、氷河とともに海へと流れていった。その後も頻繁に噴火を繰り返し、大量の軽石や火山灰を噴出した。紀元前6,500年頃になるとセント・ヘレンズ山の火山活動は収束し、以後約4,000年にわたって平穏な姿を呈し続けた。紀元前2,500年頃、再びセント・ヘレンズ山の火山活動が活発化し、スミス・クリーク噴火期と呼ばれる活動期に入った。スミス・クリーク噴火期は約900年間続き、大量の火山灰や黄褐色の軽石などの噴出物がセント・ヘレンズ山の周囲約1万kmに降り注いだ。その後セント・ヘレンズ山は紀元前1,600年頃まで大規模な噴火を繰り返し、セント・ヘレンズ山から北東に約80km離れたレーニア山国立公園には当時の噴出物が約50cmほど堆積した。また、セント・ヘレンズ山から北北東に約1,000km離れたカナダアルバータ州にあるバンフ国立公園でも噴火の痕跡が確認されている。この期間に噴出した岩石や火山灰の総量は、約10kmであると推測されている。

そして約400年間の休息期間を経た後の紀元前1,200年頃、セント・ヘレンズ山はパイン・クリーク噴火期と呼ばれる活動期に入った。パイン・クリーク噴火期は紀元前800年頃まで続き、小規模な噴火を極めて頻繁に繰り返した。山頂からは粘度の高い火砕流が発生し、近くのへと流れ落ちた。紀元前1,000年頃から紀元前500年頃には大規模な土石流ラハール)が発生し、ルイス川の峡谷を約65kmにわたって埋没させた。

その後セント・ヘレンズ山は再び約400年にわたる休息期間を経て、紀元前400年頃にキャッスル・クリーク噴火期と呼ばれる活動期に入った。キャッスル・クリーク噴火期ではそれまでの活動期とは異なった成分の溶岩を噴出した。溶岩には橄欖岩玄武岩が混ざり合っており、さらに粉々になった安山岩火山灰などが含まれていた。100年頃には大規模な噴火があり、このときに流れ出た溶岩は山体の一部となり、長さ約15kmに及ぶ溶岩洞が形成された。また流れ出た溶岩の一部はルイス川やカラマ川にも到達した。これと同時期には大規模な土石流も発生し、トートル川やカラマ川の峡谷を長さ約50kmにわたって埋没させた上、その一部はコロンビア川にまで到達した。そしてセント・ヘレンズ山は、再び約400年間の休息期間に入った。

500年頃、セント・ヘレンズ山の火山活動は再び活発化し、シュガー・ボウル噴火期と呼ばれる活動期に入った。シュガー・ボウル噴火期では山体の北側の斜面から小規模な噴火を起こし、800年頃まで継続した。シュガー・ボウル噴火期の末期には「シュガー・ボウル」と呼ばれる溶岩ドームが形成された。

カラマ噴火期とゴート・ロックス噴火期


スピリット湖から見た、1980年の噴火前のセント・ヘレンズ山。その優美な風貌から「アメリカの富士山」とも呼ばれた。
セント・ヘレンズ山はシュガー・ボウル噴火期から約700年間の休息期間を経た1500年頃、突発的に活動を再開し、カラマ噴火期と呼ばれる活動期間に入った。薄い灰色をした軽石と火山灰を噴出し、セント・ヘレンズ山の北東斜面には約9.5kmにわたって噴出物が約1mほど堆積した。また、北東方向に約80km離れた地点においても約5cmの降灰が確認されているまた。大規模な火砕流や土石流が西側の斜面で発生し、カラマ川に流れ落ちた。カラマ噴火期は約150年間にわたって継続し、二酸化珪素の成分がほとんど含まれていない溶岩が噴出した。また淡い色をした火山灰と暗い色をした火山灰の層が交互に積み重なり、少なくとも8層にわたって堆積した。その後、粘度の高い安山岩の溶岩が山頂火口から山体の南東斜面に流れ落ちた。続いて火砕流がその上を流れ落ち、一部はカラマ川にまで到達した。カラマ噴火期の末期になると山頂火口に巨大な溶岩ドームが形成され、山頂火口の大部分が溶岩ドームに覆われた。カラマ噴火期は1647年に収束し、高くそびえる左右対称な姿のセント・ヘレンズ山へと成長した。

1800年、セント・ヘレンズ山はゴート・ロックス噴火期と呼ばれる活動期間に入った。ゴート・ロックス噴火期は、口承記録と文書記録が存在する最初の活動期間である。ゴート・ロックス噴火期はカラマ噴火期と同様に安山岩の溶岩を噴出させ、フローティング・アイランド溶岩流が北側斜面を流れ、溶岩ドームが形成された。このときの火山灰は主にセント・ヘレンズ山の北東方向へ流れ、ワシントン州中央部から東部、およびアイダホ州北部、モンタナ州西部で降灰が確認された。1831年から1857年にかけて10回を超える小規模な噴火が繰り返し発生し、周辺地域への降灰が幾度となく記録された。このときの噴火口はゴート・ロックスもしくはその付近に形成されたと推測されている。そしてセント・ヘレンズ山は再び123年間の眠りに入った。

1980年の噴火


1980年5月18日のセントヘレンズ山噴火の過程。地震により山体が3つに分裂し、中のマグマが高圧のガスとともに放出されたことがわかる
セント・ヘレンズ山の噴火(1980年5月18日撮影)
1980年3月20日、セント・ヘレンズ山付近を震源とするマグニチュード4の地震が発生し、雪崩が山麓の駐車場を襲った。その後も地震が続き、3月27日には最初の噴火(水蒸気爆発)が発生した。連日のように噴火が頻発し、山頂にできた火口は幅600mまで拡大した。4月に入ると噴火は次第に減少したが、地下でマグマが移動していることを示す地震は続き、やがてセント・ヘレンズ山の北側が膨らみ始めた。4月の末には、北側斜面の一部が1979年8月時点と比べて100m近く移動しており、移動速度は1日に1.5mもの速さに達していた。5月16日に航空機から撮影された赤外線写真には、北側斜面膨張部の山頂側に沿った数箇所で地熱が異常に上昇しているのが記録されていたが、そのフィルムが現像されたのは大噴火の後だった。火山学者たちはいくつかの有人観測地点を設けたが、最終的には山頂から北に約9km離れた「コールドウォーターII」だけが残った。コールドウォーターIIでは当時大学院生だったハリー・グリッケン (Harry Glicken)1991年6月3日、雲仙普賢岳の火砕流により死亡。が観測を担当していたが、卒業研究の準備のため5月17日に現地を離れ、デイヴィッド・ジョンストン (David A. Johnston)と交替した。他にもセント・ヘレンズ山の北側にはカメラマンのリード・ブラックバーン (Reid Blackburn)、無線技師のジェラルド・マーチン (Jerry Martin)、スピリット湖畔の旅館経営者ハリー・R・トルーマン、そして伐採業者や火山見物に訪れた野次馬などがいた。避難が長期化したため、5月17日と18日には周辺住民の一時帰宅が行われることになり、伐採や植林などの作業も一部で再開されていた。

5月18日日曜日、現地時間の朝8時32分(協定世界時同日15時32分)、セント・ヘレンズ山でマグニチュード5.1の地震が発生した。北側斜面は大規模な山体崩壊を起こし、時速160kmから240kmもの岩屑なだれとなってスピリット湖へ駆け下った。調査本部を呼び出そうとするデイヴィッド・ジョンストンの声("Vancouver! Vancouver! This is it!"(「バンクーバー、バンクーバー!これだ!」))がアマチュア無線によって記録されているが、間もなく交信は途絶えた。その直後、セント・ヘレンズ山の内部に蓄積されていたマグマが噴出し、激しい横なぐりの爆風(衝撃波)と大規模な火砕流が北側山麓を襲った。このときの火山爆発指数は5であった。この様子は、山頂から北東に約17km離れた地点に陣取っていたカメラマン、ゲイリー・ローゼンクィスト (Gary Rosenquist) により連続写真として撮影され、秀麗な山容のセント・ヘレンズ山が崩落・爆発する様子が記録された。ジェラルド・マーチンは最後の瞬間まで噴火の様子を無線で伝え続けた。また、地質学者のキースとドロシーのストッフェル夫妻(Keith and Dorothy Stoffel)が小型飛行機で噴火の様子を写真に記録していた。

セント・ヘレンズ山から北に約11kmまでは跡形もなく吹き飛ばされ、約22kmまでの木々はなぎ倒され、さらに遠方では山火事が発生するなどして合計約600km(東京23区に相当する広さ)が大きな被害を被った。50kmほど離れたアダムス山でも気温が一時的に数度上昇した。

それから9時間以上にわたってセント・ヘレンズ山は灰色の噴煙を立ち上らせ、その高さは海抜20kmから25kmにまで達した。噴煙は時速95kmほどの速度で東方へ移動し、同日の正午にはアイダホ州にまで到達した。また、北側斜面の崩壊により、火山灰が土砂や雪と混ざり合い、火山泥流を引き起こした。火山泥流はトートル川カウリッツ川を数kmにわたって時速約30kmで流れ落ち、橋を次々と破壊していった。火山泥流の総量は約300万mに及び、無数の倒木がコロンビア川に流れ込んで太平洋まで流出した。

同日17時30分頃、噴煙の高さは徐々に低くなり始めた。しかしながら数日間にわたって絶え間なく爆発が起こり、最終的には広島型原爆2万7,000個分に相当するエネルギーがセント・ヘレンズ山から放出され、噴出物の総量は1kmを超えた。セント・ヘレンズ山の北側には幅約3km、深さ約800mの巨大な火口が出現し、セント・ヘレンズ山の標高は400mほど減少した。この噴火により57人が死亡もしくは行方不明となり、5,000頭のシカ、1,100万匹のが死亡したと推定されている。また家屋200棟、橋43本、道路約300km以上、鉄道25km以上が破壊された。

火山灰や火砕流、泥流、そして岩屑なだれなどの被害は概ね火山学者たちが事前に予測した通りの範囲で起きたが、横なぐりの爆風は予想外であり、大噴火を予測することもできなかった。しかしこの経験はセント・ヘレンズ山の以後の噴火やピナトゥボ山など他の火山の噴火の予測に役立つことになる。

5月18日以降で最初の噴火は5月25日未明に起きた。6月3日未明、火山学者たちはもうすぐ噴火が起きると予測したが外れた。6月12日、今度は予測通りに噴火が起きた。データが蓄積されるにつれて予測の精度は上がっていった。

1980年以降の活動


国際宇宙ステーションから撮影したセント・ヘレンズ山(2002年撮影)
1980年から1986年にかけて、セント・ヘレンズ山は活発に活動を続けた。火口には新たな溶岩ドームが形成され、多数の小爆発を伴いながら溶岩ドームは成長を続けた。1980年から1981年にかけての冬から、火口の影に形成された馬蹄型の氷河が成長を始めた。1982年3月19日の噴火ではこの氷河が融け、火山泥流が発生した。氷河は年を追うごとに巨大化し、2000年には約0.9kmにまで広がった。2004年に火山活動が再び活発化するまで、この氷河はアメリカ本土48州に唯一存在する氷河となった。

1989年から1991年にかけて、セント・ヘレンズ山を震源とする群発地震が発生し、溶岩ドーム付近において小規模な爆発が発生した。また、1995年1998年2001年にも同様の群発地震が発生したが、このときには爆発は発生しなかった。

2004年の噴火


2004年のセント・ヘレンズ山の噴火(2004年10月1日撮影)
2004年秋、セント・ヘレンズ山の火山活動は再び活発化した。9月23日現地時間2時(協定世界時同日9時)頃、セント・ヘレンズ山の山頂において、溶岩ドームの直下約1kmを震源とするマグニチュード1未満の微小地震が約200回にわたって連続して発生した。9月26日アメリカ地質調査所太平洋岸北西地区地震観測網は、この群発地震を危険な兆候と捉え、レベル1の警戒を発令した。また同日、アメリカ農務省林野部はセント・ヘレンズ山に入山禁止命令を発令した。地震の頻度は9月29日頃に最大化し、1分間に4回の割合で微小地震が観測された。山頂の溶岩ドームからは水蒸気が立ち上り、アメリカ地質調査所は警戒レベルを2に引き上げた(最高はレベル3)。

そして10月1日現地時間12時2分(協定世界時同日19時2分)、セント・ヘレンズ山は水蒸気や火山灰の噴出を開始し、噴煙は標高3,000mに達した。黒くすすけた火山灰は風に乗って、南方のワシントン州バンクーバーやオレゴン州ウッド・ヴィレッジに降り注いだ。

10月2日12時14分(19時14分)、セント・ヘレンズ山は前日よりも強い爆発を起こし、低周波の火山性地震を引き起こした。政府の地震研究者は警戒レベルを最大レベルである3へと引き上げ、避難命令を発令した。

10月3日3時(10時)頃、約90分間に及ぶ低周波地震が発生した。この地震はセント・ヘレンズ山の内部のマグマが大規模な移動を起こしたために発生したと考えられており、現地時間10時40分(17時40分)頃には水蒸気爆発によるものと思われる地震が発生した。

新たに形成された溶岩ドーム(2005年2月22日撮影)
その後も突発的な水蒸気爆発が続発し、10月4日9時47分(16時47分)、14時12分(21時12分)、17時40分(10月5日0時40分)、そして10月5日9時3分(16時3分)には火山灰の噴出を伴った爆発が発生した。また、これら一連の水蒸気爆発は、マグニチュード3程度の地震を引き起こした。

10月6日アメリカ地質調査所は警戒レベルを引き下げ、「今後しばらくは大規模な噴火が発生することはないだろう」と発表した。

10月11日、セント・ヘレンズ山内部のマグマは火山の地表近くにまで到達し、1980年の噴火の際に形成された山頂の溶岩ドームのすぐ南側に新たな溶岩ドームが形成され始めた。

同年11月、アメリカ地質調査所は山頂の新たな溶岩ドームについて、1秒間に10mの割合で成長を続けていると発表した。そして仮にこのペースでこの新たな溶岩ドームが成長するならば、山頂の火口はこの新たな溶岩ドームによって完全に覆われ、2015年にはセント・ヘレンズ山の標高は1980年の噴火前と同じ2,950mに達するだろうと推測した。

2005年2月1日、セント・ヘレンズ山の山頂にできた新たな溶岩ドームについて、その最高点の標高が2,329mであることが明らかになった。この溶岩ドームは、1980年に形成された火口の底面から約415mの高さがあり、セント・ヘレンズ山の最高点との差は220mであった。新たに形成されたこの溶岩ドームは鯨の背のような形状をしていたことから「ホエールバック」と呼ばれた。その長さは518m、幅は152mであり、体積は3850万mと見積もられた。

3月8日17時30分(翌日0時30分)頃、セント・ヘレンズ山を再び大規模な火山活動が襲った。噴煙は海抜1万mにまで立ち上り、マグニチュード2.5の地震が観測された。この噴煙はワシントン州シアトルやオレゴン州セイラムでも確認され、20分から30分にわたって継続した。研究者によると、この爆発は圧力の放出によるものであり、大きな噴火が起こる可能性は低いとされた。

5月5日、セント・ヘレンズ山の山頂にできた新たな溶岩ドームについて、その最高点の標高が2,339mであると発表された。

2008年1月に入って溶岩ドームの活動が止まり、同年6月10日、噴火活動の終息が宣言された。

関連項目



脚注

参考文献


外部リンク


北アメリカの火山
ワシントン州の地形
成層火山
1980年の災害



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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