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ジャスミン革命(ジャスミンかくめい、Jasmine Revolution、; )は、2010年から2011年にかけてチュニジアで起こった革命(民主化運動)。一青年の焼身自殺事件に端を発する反政府デモが国内全土に拡大し、軍部の離反によりザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー大統領がサウジアラビアに亡命し、23年間続いた政権が崩壊した事件である。ジャスミンがチュニジアを代表する花であることから、このような名前がネットを中心に命名された
。
この民主化運動はチュニジアにとどまらず、エジプトなど他のアラブ諸国へも広がり、各国で長期独裁政権に対する国民の不満と結びつき、数々の政変や政治改革を引き起こした。こうした一連の動きはアラブの春と呼ばれた。
一連の暴動では情報共有のため、Facebookなどを通じたインターネットによる情報交換が力を発揮したほか、YoutubeやTwitter、WikiLeaksといったネットメディアも重要な役割を果たしたという意見がある。
事件の背景
チュニジアは2010年の経済成長率が3.8%だったと見られるなど、決して経済状況が悪いわけではなかった。しかし失業率は14%、若者層に限れば30%近いという高い水準であったため、これらの世代では経済成長の恩恵を受けられないことに不満がたまっていた。加えて、1987年に無血クーデターによって政権を獲得したベン=アリーはイスラーム主義組織及び労働者共産党に対し抑圧を行い、ある程度の経済成長は果たしたものの、一族による利権の独占といった腐敗が進むなど、23年にも及ぶ長期政権に不満がたまっていった。こうした背景が暴動に結びついたとみられている。
ベン=アリーは、イスラーム主義組織及び労働者共産党への抑圧、近代改革などアメリカやかつてのイランと同様の政策をおこない、政治犯釈放などの人権政策もあり「民主主義・人権」国際賞を受賞したが、今回の暴動においても、譲歩策を次々と示した事が弱腰とも映りデモ隊を勢いづかせたとの指摘がある。イスラーム主義組織を抑圧してきた政権の崩壊により、イランのアフマディーネジャード大統領は「チュニジアの人々はイスラムの法とルールの確立を望んでいる」とイラン革命同様のイスラム国家化を示唆した。非合法であったイスラーム政党の幹部が亡命先から戻るとの推測もある。
事態の推移
事件の発端
2010年12月17日、中部シディ・ブジド(スィディ・ブーズィード)にて失業中だった26歳の男性モハメド・ブアジジ(ムハンマド・ブーアズィーズィー)(アラビア語:محمد البوعزيزي)が果物や野菜を街頭で販売し始めたところ、販売の許可がないとして警察官が商品と秤を没収、さらには婦人警官の1人から暴行を受け、没収品の返還と引き換えに賄賂を要求された。これに抗議するために同日午前11時30分、県庁舎前でガソリン(もしくはシンナー)をかぶり火をつけ、焼身自殺を図った。チュニジアの失業率は公式発表では14%だが実際にはそれよりも高く、青年層に限れば25~30%という高い水準に達しており、同様に街頭で果物や野菜を売り生計を立てる失業者も多かった。イスラム教を含むアブラハムの宗教は自殺することを禁じているため、イスラーム世界においては米国やイスラエルなどに対する自爆テロなどを除いて、自殺することは非常にまれであり、実際イスラーム諸国における自殺率は国際的にみて非常に低い傾向がみられる。そしてイスラームでは死後の肉体を伴った復活の思想が一般的であるため火葬も滅多にないので、「焼身自殺」が与える衝撃は大きかった。
その背景もあり、このトラブルがブアジジと同じく、大学卒業後も就職できない若者中心に、職の権利、発言の自由化、大統領周辺の腐敗の罰則などを求め、ストライキやデモを起こすきっかけになったとされている。次第にデモが全国各地・全年齢層に拡大し、デモ隊と政府当局による衝突で死亡者が出るなどの事態となった。やがて高い失業率に抗議するデモは、腐敗や人権侵害が指摘されるベン=アリー政権の23年間の長期体制そのものに対するデモとなり、急速に発展していった。
暴動の拡大
発端となったブアジジは自殺を図った後、病院にて18日間生存したものの、現地時間2011年1月4日午後5時30分に死亡した。翌2011年1月5日に葬儀が行われたが警察は行列を阻止。役所前で行われた抗議行動をブアジジの従兄弟が動画に収めてネットに投稿したことで、騒動が拡大した。1月7日には中部の都市タラで暴徒が警察署といった政府関連庁舎や銀行に火を放ち、1月8日夜から9日にかけてタラ、カスリーヌといった都市で高い失業率に抗議するデモが発生。治安部隊が発砲したことにより少なくとも14人、野党側指導者によれば25人が死亡した。1月10日にはカスリーヌで放火や警察署への襲撃が起こり、これに対処した警官隊が発砲したため市民4人が死亡。11日夜には、ついに首都チュニスに暴動が拡大。労働者街にて参加者が車、銀行、警察署といった政府関係庁舎への放火、また商店街において略奪行為を行った。警官隊はこれを解散させるため威嚇射撃を行い4人が死亡、また火炎瓶や催涙弾の使用を行った。内務省より死者は延べ23人になったと発表された(実際にはこの時点で50人以上が死亡しているとも言われた)。
ベン=アリー大統領の対応
制圧から懐柔へ
こうした反政府デモはベン=アリー政権を揺るがし、大統領自身も閣僚を一部交代させるなどした。軍による政府関係庁舎の警備を強化し、1月10日にはデモの拡大や若者の暴徒化を防ぐため全国の高校や大学を閉鎖すると発表。一連の暴動をテロリストによるものと非難し、また発端となった若者の失業者への対策として、今後2年間で30万人に及ぶ大規模な雇用緊急措置を取ると表明するといった対応に追われた。各政党からは、大統領に対し警官隊による発砲の中止を求める声があがった。1月12日には首都チュニスとその周辺地域に午後8時から翌朝午前6時までの夜間外出禁止令を発令。1月13日にはモハメッド・ガンヌーシ首相が治安対策が不十分としてカシム内務大臣の更迭を発表し、また、デモにおいて拘束された参加者らを釈放する方針を表明した。これらは情勢の沈静化を狙って行われたが、南部の都市ドウズで暴動が起こり5人が死亡。首都で出された夜間外出禁止令は無視され、暴動が止む気配はなく、警官隊によって男性1人が射殺され初めて首都で死者が出た。このほか大統領支持者によるデモも行われた。
再選不出馬表明
1月13日、ベン=アリーはテレビ演説で2014年の大統領選挙に立候補せず任期満了を以て退任する意向を表明。チュニジアでは憲法上、75歳以上は立候補ができず、ベンアリは2014年の時点で78歳となるためそもそも立候補資格はないが、立候補できるよう憲法改正をするのではないかという憶測があった。ベン=アリーはこれを否定し、デモの原因の一つであった食料品高騰に対しては引き下げると表明。また言論の自由の拡大や、インターネット閲覧の制限を解除するといった政策を約束し、また治安部隊に対し、デモ隊への発砲を禁じたと発表した。ベン=アリーにとっては大幅な譲歩であったが、これらの措置を発表した翌14日になっても内務省の前で5,000人が大統領退陣を求めるなど反政府デモは収まらず、ゼネラル・ストライキも発生し、治安部隊によるデモ隊への発砲も続いた。ベン=アリーは非常事態宣言を行い、夜間外出禁止令を全土に広げた。また、ガンヌーシ内閣の総辞職と2014年実施予定の総選挙を大幅に前倒しし、今後半年以内に実施する考えを表明した。
暴徒制圧に対し政府内からも批判の声が上がり始め、1月14日にはチュニジアのメズリ・ハダドユネスコ大使が、治安部隊がデモ隊に発砲したことに対して抗議を行い大統領に辞表を提出した。
国外脱出、政権崩壊
ガンヌーシ首相
国軍が離反するなど追い詰められたベン=アリーは1月14日に国外に脱出。軍部が逮捕もしくは亡命を迫ったとも報じられた。ベン=アリーがデモ隊への実弾使用を陸軍参謀総長であったラシド・アンマル将軍に迫ったものの、逆に「あなたはおしまいだ」と退陣を迫られたためと、ガンヌーシがチュニジアの新聞を通じて語っている。当初は旧宗主国のフランス行きを希望しパリに向かったがニコラ・サルコジ大統領がこれを受け入れず、サウジアラビアに亡命した。これにより政権は事実上崩壊し、1987年以来23年にわたって続いてきた長期政権は終焉を迎えた。アラブ諸国にはエジプトやリビアなど、チュニジアと同様に独裁的な色合いが濃い長期政権が維持されている国家も多く、暴動によって政権が打倒されたことは異例なことであった。脱出の際、ベン=アリー夫人が中央銀行から1.5トンもの金塊を持ち出したと報じられた。亡命を図った前大統領親族が機長に阻止され、拘束される例もあった。
ガンヌーシ首相は政権崩壊を受け、憲法第56条の規定を根拠として自らが暫定大統領に就任すると国営テレビを通じて発表。国民に平静を呼びかけ、政治、経済の改革を実施するとした。しかし、この就任には憲法上の問題があるとの指摘が出たため、憲法評議会は翌15日に憲法第57条の規定に則り下院議長であるフアド・メバザを暫定大統領に指名した。メバザは挙国一致政権の樹立をガンヌーシに要請し、また同日15日、暫定大統領への就任宣誓を行い、これにより60日以内に大統領選挙が行われることとなった。この際、ベン=アリーが一時的に職務を離れたことにされたため、ガンヌーシが暫定的に大統領の職務を代行するとされていたが、憲法評議会はベン=アリーの復帰はないと宣言した。
ベン=アリーが去ったあとの親族の豪邸では暴徒が略奪行為に走り、1月16日には大統領宮殿で銃撃戦も発生。1月26日には暫定政権がベン=アリーら一族の逮捕状を請求し、国際刑事警察機構にも協力を要請した。
暫定政権
発足と前政権関係者への不満
メバザとガンヌーシ率いる暫定政権は野党との政権協議を行い、1月17日に暫定内閣が発足。野党からは3人、またベン=アリー政権を批判して投獄されたブロガー(ウィキリークス支援者である海賊党を自称)も入閣した。また情報統制を担っていた情報省の廃止、政治犯の釈放といった改革にも乗り出した。しかしこうした姿勢も、外務大臣、財務大臣といった主要閣僚は留任したこともあって
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反体制派からは上辺だけだと批判を受けた。また立憲民主連合の完全なる排除を求め、内閣改造を要求するデモも発生した。こうした批判を受け、1月18日には立憲民主連合の中央委員会が解散し(政党としては存続する)、同党出身の全閣僚が離党。。2月27日にはガンヌーシが首相を辞任した(後任は)。
政策
1月19日までにベン=アリー前政権時代の政治犯を全て釈放し、翌1月20日の初閣議では前政権時代に活動を禁止されていた政治活動グループの容認を決定。また暫定政権は3月中旬までに行われる予定の大統領選挙への国際監視団受け入れも表明している。暫定政権は協議の段階より、並行してベン=アリー前政権の関係者の身柄拘束に乗り出した。1月16日にはベン=アリーの警備責任者を逮捕。また同日には更迭されたカシム前内務大臣が拘束されたとの情報も流れた。先述のベン=アリーの親族で海外脱出を図るも果たせなかった5人は拘束されたと考えられている。
民政移管へ
2011年10月23日に制憲議会選挙(定数217)が実施され、イスラム政党のアンナハダが90議席を獲得し第1党となり、以下は中道左派政党の(30議席)、社会民主主義政党のエタカトルが21議席と続いた。これらの政党を中心に連立交渉が進められ、11月21日に3党が連立政権樹立で合意。11月22日に制憲議会の宣誓が行われ、議長にエタカトルのが就任。12月13日に共和国評議会党首のが暫定大統領に就任(同時に党首を辞任)、アンナハダの幹事長が首相に就任することとなった。
今後の懸念・影響
暫定大統領のメバザ、首相のガンヌーシをはじめ、前政権のメンバーがそのまま留まっているケースが多く、暫定政権成立後も彼らの完全排除を求めるデモが続いた。また騒乱も一部では続いており、刑務所からの脱走も起こっていると報じられている。また前大統領警護隊をはじめとする前大統領支持派と軍特殊部隊との間で散発的な衝突が起こっている。取材中に治安部隊の放った催涙弾が当たったフランス人カメラマンが1月18日に死亡し、海外のジャーナリストとしては初の犠牲者となった。暫定政権発足後の1月17日以降もデモや銃撃戦は収まらず、17日時点の死亡者は78人に達した。
2011年6月30日、フランスのパリ14区に、モハメド・ブアジジの名前をつけた広場が誕生した。同年10月には欧州議会よりアラブの春に貢献したブアジジら5人にサハロフ賞が授与されることが発表された。
軍事クーデター及び情報戦の可能性
前述のように、陸軍のラシド・アンマル参謀長はベン=アリーの鎮圧命令を拒否し辞任と出国を要求したが、解任を無視し権限が無い状態で軍を指揮していていた可能性がある。チュニジアの大統領は閣僚任免権、軍の最高指揮権など多くの権限を有する。警護責任者アリ・セリアティから大統領公邸攻撃の情報を受けたベン=アリーは避難し、軍特殊部隊が大統領宮殿を攻撃、アリ・セリアティは、暴動を助長し、国家の安全を脅かしたとして逮捕された。一連の報道では、「大統領警護責任者が暴動を助長した」、「大統領公邸が襲撃されると虚偽の進言をし、前大統領が避難した」(虚偽ではなく実際に宮殿が攻撃された)など一見矛盾する内容が散見され、ウィキリークス外交公電事件などネットメディアと合わせ情報戦の様相も呈している。
経済への影響
チュニジアの海岸やカルタゴの遺跡などは観光スポットとなっており、日本やヨーロッパなどからの観光客も多く、チュニジアにとっても観光は重要な産業となっている。治安悪化はこれらによって得られる収入に影響を及ぼす可能性がある。実際、1月14日にはイギリスの旅行会社大手トーマス・クック・グループは観光客1,800人をチュニジアより退避させ、今後のツアーを一部中止するに至っている。1月16日には日本の外務省もチュニジアへの渡航延期を勧告している。また、太陽光発電などに関する計画や共同事業を日本やヨーロッパと進めており、特に日本政府は直前の2010年12月に首都チュニスで開かれた日本・アラブ経済フォーラムにおいて、太陽熱発電に関する共同プロジェクトを開始することでチュニジア政府と合意していた。このため、今後の治安情勢が注視されている。
また、ジャスミン革命の影響は、リビアなどアラブ産油国にも影響が及んでいるため、原油の値上がりなどの影響も発生している。
各国への影響
アラブ諸国を中心とする他の独裁国家や専制国家に革命が飛び火し、反政府運動が相次いだ。エジプト・アルジェリア・モーリタニアなど一部の国では、今回の例を真似て焼身自殺を図る人が相次いでいる。チュニジアに隣接しているアラブ国家であるリビアにおいても、ムアンマル・アル=カッザーフィー大佐による独裁政権に対してリビア国民が反旗を翻した。カッザーフィー大佐はチャドやナイジェリアやエリトリアなどアフリカ人の傭兵を用いて武力を用いて鎮圧を試み流血の事態に陥ったが、その後革命は成功しカッザーフィーは殺害された(2011年リビア内戦を参照)。
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イタリアでは、ベン=アリー政権崩壊後から3000人の難民(不法入国者)が同国南部にあるランペドゥーザ島に流入してきている。急激に増えたため収容施設が足りず、やむを得ず野外で過ごす人も現れている。これを受けイタリア政府が非常事態宣言を発令している。
また、アラブ諸国ではないが、共産党による一党独裁体制が継続している中国においても、ジャスミン革命の影響が及び中国各地において反政府デモが発生している。同じく独裁国家である北朝鮮においても動揺が起こっているという。
各国の反応
- - 外務省は事態を注視するとともに、国内情勢の安定化に向けた動きを求める談話を発表した。
- - 潘基文事務総長は状況を見守るとし、平和的解決を要求。
- - 大統領選挙への監視団派遣を検討中。欧州議会は声明を発表するとされている。
- - オバマ大統領はチュニジア国民の勇気を賞賛し、公正な選挙の実施を求める声明を発表。
- - 外交部の洪磊報道官は、早期の社会安定回復を希望するとの談話を発表した。
- - 外務省は暴動に対し憂慮の念を表明。早期の情勢の正常化を要請し、民主的な対話および憲法の枠内での平和の再建が課題であると声明を発表。
- - サルコジ大統領は先述のとおり、ベン=アリーの亡命受け入れを拒否した経緯がある。声明では、民主的な意思を支持するとの声明を発表した。
- - 外務省は、チュニジア国民の意思を尊重すると声明を発表。
- - 中東最長の政権を率いる最高指導者のカッザーフィー大佐が「デモは犯罪組織の仕業だ」「国や、大統領、政府、議会を変えるのにこのような犠牲は必要ない」「チュニジア国民は取り返しのつかない大きな損失を出した。ベン=アリーは2014年に退任すると言っているのに何故待てないのか」「チュニジア国民の正気が戻り傷が癒えることを願う」と国営テレビを通じて発言し、一連の動きを非難。サウジアラビアに亡命したベン=アリーを「今も合法的な大統領である」と支持していた。チュニジア革命、アラブ諸国に波紋広がるTBS NEWS i 2011年1月17日2011年1月17日付中日新聞朝刊6面(国際欄)『カダフィ大佐政変を批判』より。
- - アフマディーネジャード大統領は「チュニジアの人々はイスラムの法とルールの確立を望んでいる」とイラン革命同様のイスラム国家化を示唆した。
脚注
関連項目
チュニジアの歴史
アラブの春
革命
民主化運動
2010年
2011年出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
- - 外務省は暴動に対し憂慮の念を表明。早期の情勢の正常化を要請し、民主的な対話および憲法の枠内での平和の再建が課題であると声明を発表。
- - 外交部の洪磊報道官は、早期の社会安定回復を希望するとの談話を発表した。
- - オバマ大統領はチュニジア国民の勇気を賞賛し、公正な選挙の実施を求める声明を発表。