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クトゥブ・シャーヒー朝 (Qutb Shahi dynasty) は、インドに存在した王朝。クトゥブ・シャーヒー王国とも表記される。

歴史


ゴルコンダ要塞からクトゥブ・シャーヒー王陵墓を望む
デカン高原一帯を支配したバフマニー朝、その13代目の王ムハンマド・シャー3世の統治期(1463年)に、テランガナ地方で問題が発生したためスルターン・クリー・クトゥブル・ムルクが同地方の総督として派遣された。スルターン・クリー・クトゥブル・ムルクは、続くムハンマド・シャー4世からも幾つかの称号を授けられ、バフマニー朝の宰相となった。1518年、彼は独立を宣言してクトゥブ・シャーヒー王国をうちたてた。そして、王国の首都をゴルコンダに定め、カーカティヤ朝期の古ぼけた泥の砦を強固な石のゴルコンダ要塞都市として再造営した。彼の後継者もその事業を受け継ぎ、数多くの強固な増築がなされた。クトゥブ・シャーヒー王国の統治期は、アーンドラ・プラデーシュ州における建築および芸術の黄金時代であった。歴代クトゥブ・シャーの王たちは偉大な建築家であり、また建設をこよなく愛していた。彼らの統治期に、数え切れない宮殿や邸宅(後のムガル帝国遠征軍により徹底的に破壊され、灰燼と帰したが)、壮麗なモスク、そして数えきれないほどの湖や溜池が造営された。また王国中葉の王は、アーンドラ・プラデーシュ州の在来言語であるテルグー語を保護し、教養階級の公用語であったアラビア語ペルシア語、およびウルドゥー語と同様に奨励したことでも知られる。1589年ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャー(5代目の王)は、ハイデラバードの南を流れるムシ川周辺が豊かな緑に覆われた土地であることに目をつけ、そこをクトゥブ・シャーヒー王国の王都に定めた。有名な言い伝えによると、そこにはチチェラムという村が存在したが(チャール・ミナールがあるあたり)、彼はこの新しい王都の名を、愛してやまなかった美しい踊り子であるバーグマティーにちなんで、バーグナガルと命名した。王からのこの贈り物に驚いた彼女は、ムスリムに改宗して、自身の名をハイダル・マハルという以前と全く異なるムスリム名に改めた。しかし、王はめげることなく王都の名をハイデラバード(すなわち「ハイダルの町」)と改めてしまった。1611年に王が没すると、甥のスルターン・ムハンマド・クトゥブ・シャーが王座を引き継いだ。1626年にこの王が没すると、クトゥブ・シャーヒー王国は徐々に衰退へと向っていくが、滅亡までにはさらに60年の歳月を要し、二人の王-アブドゥル・クトゥブ・シャー(在位1626年-1672年。スルタン・ムハンマドの息子)、およびアブル・ハサン・ターナー・シャー(在位1672年1687年。アブドゥルの娘婿であり、そしてクトゥブ・シャーヒー王国初代の従兄弟ファシー・カーンの曾孫)がこの王国の末期を飾った。

ムガル帝国の版図拡大政策により、1687年クトゥブ・シャーヒー王国はアウラングゼーブ皇帝指揮の第三次遠征軍の大攻撃をうけた。クトゥブ・シャーヒー王国軍は、難攻不落のゴルコンダ要塞に篭城して、長期にわたる包囲攻城戦をよく持ちこたえていた。しかし、アフガニスタン戦士アブドゥッラー・カーンの裏切りにより戦局は一転。彼は遠征軍に内通し、同年(1687年9月21日早朝に、守備兵員が手薄となっていたキールキー城門から、密かにムガル帝国軍を迎え入れた。クトゥブ・シャーヒー王国守備軍は、完全に無防備を襲われ、防御線を瞬く間に破られてしまう。かくしてゴルコンダ要塞は、この年ついにアウラングゼーブ帝遠征軍のまえに陥落する。これは、同時にクトゥブ・シャーヒー王国の崩壊でもあった。

関連項目




イスラム世界史
イスラム王朝
インドの王朝



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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