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カーナティック戦争(カーナティックせんそう、カルナータカ戦争)は、18世紀イギリスマドラスフランス領インドの首都であったポンディシェリとの間で3次にわたって繰り広げられた戦争。ヨーロッパのオーストリア継承戦争と連動し、ムガル朝インドにおいて、南インド東海岸の貿易拠点や荷物の集散地をめぐって争われ、オーストリア継承戦争後も続いた。最終的にはイギリス側の勝利に終わった。

概要


第2次戦争まで


17世紀に絶頂期をむかえたムガル朝も18世紀に入ると分裂状態におちいり、これに乗じてイギリスフランスの両東インド会社がともに勢力をのばして争った。ヨーロッパ大陸で起きたオーストリア王位継承戦争でのイギリスとフランスの戦闘がインドにも波及。イギリスとフランスのそれぞれの東インド会社が戦端を開いた。当初、イギリスは南インド東海岸一帯を占領するが、ポンディシェリのフランス領インド総督デュプレクスがカーナティック同盟を結んで南インド諸侯を傘下に収め、一時は中部・南部インドでイギリス勢力を圧倒し、英領マドラスを占領するなど活躍した。しかし、アーヘンの和約でマドラスを返還、第2次戦争まではフランスが善戦したが、その終結時にデュプレクスがアジアでの多大の出費を嫌う本国政府によって召還された。

第3次戦争


第3次戦争中、七年戦争の余波でプラッシーの戦いが起こり、この戦闘では、東インド会社書記ロバート・クライブの活躍によりイギリスが勝利し、ベンガル地方はイギリスの勢力下に入った。この敗北に反撃するためにフランスの東インド会社はデカン地方に2000人の兵と6隻の軍艦を送った。新総督となったフランスのラリー侯爵は、フランスの領土強化拡大よりもイギリスの領地を破壊する計画をとった。イギリスの南インドの拠点マドラスを包囲。しかし人員と弾薬の補充を受けたイギリスが持ちこたえた。イギリスが大規模な軍艦建造計画の結果、制海権を握り情勢は逆転した。フランスの約50隻に対して、イギリスは約350隻の艦隊を派遣。さらにラリー侯爵はいくつかの過ちを犯し、インドでのフランスの敗北を招いてしまった。カーナティック(カルナータカ)州に軍隊を集中して、マスリバタムとオリッサ海岸一帯を放棄したこと。さらに綱紀粛正をあまりに厳しくしたので軍隊内で暴動を引き起こしたこと、カーストの区別を考慮せずにインド人傭兵(セポイ)を補強してインド人を敵にまわしてしまったことである。

海軍の援護を受けたイギリスが逆に反撃にでて1760年の1月22日にでフランス軍に決定的な勝利をおさめた。フランスはヨーロッパ大陸でプロイセンの反撃にてこずり、ラゴス沖とキブロン湾での2つの海戦でイギリスに敗れ十分な増援兵力を送ることができなかった。イギリスはフランスの南インドの拠点であるポンディシェリを兵糧攻めにして陥落させた(1761年1月16日)。1763年パリ条約締結をもって戦争は終了した。この条約で、フランスはインドに於けるイギリスの優位を認めることになった。

備考


日本では高校の歴史の教科書を含めて、プラッシーの戦いがインドをめぐる英仏戦争の天王山であるような書き方をしているが、必ずしも事実とはいえない。講談社から出版されている『興亡の世界史 15 東インド会社とアジアの海』(羽田正著)に記されているようにこの第3次カーナティック戦争のヴァンデヴァッシュの戦いこそが、インドでの英仏の明暗を分けた重要な決戦であったといえる。

関連項目


英仏抗争

インドの植民地化

参考文献


  • 小林幸雄『イングランド海軍の歴史』原書房

*図説 「世界の歴史 大西洋時代の開幕」 学習研究社  


1744年
1763年
18世紀の戦闘
イギリスの戦闘
イギリスの戦争
フランスの戦闘
フランスの戦争
インドの歴史
ムガル帝国
植民地



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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