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カイロネイアの戦い(カイロネイアのたたかい、英:Battle of Chaeronea)は紀元前338年カイロネイアマケドニア王ピリッポス2世アテナイテーバイ連合軍の間で戦われた会戦

背景

ピリッポス2世のもとで急速に強大化したマケドニアはギリシアに影響力を強めており、これに対して弁論家デモステネスはマケドニアの脅威とギリシアの団結を唱えた。テーバイと同盟を結んだアテナイは紀元前338年8月初めにマケドニアとボイオティアカイロネイア近郊で戦闘を行なった。

会戦

マケドニア軍は、ピリッポス率いる近衛歩兵部隊(ヒュパスピタイ)と軽装歩兵からなる右翼を前に出した斜線陣を敷き、中央には重装歩兵部隊を斜めに並べ、左翼のヘタイロイテッサリア騎兵部隊と軽装歩兵部隊は王子アレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)と将軍パルメニオンが率いた。

一方、アテナイ・テーバイ連合軍は、左から軽装歩兵、アテナイ軍、その他同盟軍、ボイオティア軍、軽装歩兵、という布陣だった。

戦いはピリッポス率いるマケドニア軍右翼の攻撃により始まった。ところが、敵が交戦するやいなやピリッポスは後退した。それを見て自軍が押していると勘違いしたカレス率いるアテナイ軍は前進し、総攻撃を開始した。この前進により、アテナイ軍とボイオティア軍との間に隙間ができた。そこへアレクサンドロス率いるヘタイロイが突入し、同時にテッサリア騎兵と最左翼の軽装歩兵もボイオティア軍を側面から攻撃し、ボイオティア軍は左右から包囲される形となった。

その頃、アテナイ軍はマケドニア軍右翼と中央による逆襲を受け、敗走した。マケドニアの新式ファランクスの前には既存のファランクスなど敵ではなかった。しかし、包囲されたボイオティア軍は逃げることもできず、多くの兵士が討ち死にした。中でもテーバイの神聖隊は300人中254人が戦死するという壊滅的打撃を被った。

その後

戦後ピリッポス2世は(コリント同盟)を結成しスパルタを除く全ポリスがこれに参加、マケドニアの覇権を確立した。ピリッポスはペルシア遠征を目論み、パルメニオンを先遣隊として小アジアへ送るなど準備を進めていたが、紀元前336年に暗殺された。その後はアレクサンドロスが王位に就いた。弱冠20歳のこの新王に対し、テーバイは再度反旗を翻したが、敗れ、都市は破壊された。そして、ギリシアを重臣アンティパトロスに任せて後方の憂いを除いた後、紀元前334年に彼は父の夢だったペルシア遠征へ向かった。


参考文献

  • デモステネス弁論集 2(木曽明子訳)京都大学学術出版会 2010年〈西洋古典叢書〉:カイロネイアの決戦に持ち込んだギリシア側の主導者デモステネスが、敗戦後、戦争責任を追及された法廷闘争において、圧倒的勝訴を勝ち取った弁論『冠について(第十八弁論)』を収録。

http://www.kyoto-up.or.jp/book.php?isbn=9784876981847

脚注


紀元前338年
古代ギリシアの戦闘
マケドニア王国の戦闘
アレクサンドロス3世



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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