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6月29日にベルリン近郊のリッターフェルデで行われた飛行実験。オットー・リリエンタールOtto Lilienthal1848年5月23日 - 1896年8月10日)はドイツの初期航空工学(応用空気力学)発展に貢献した航空パイオニアの1人。ユダヤ系ドイツ人

ハンググライダーを作り、小高い丘から飛行する試験を行ったことで知られる。約7年間その飛行を研究するも1896年8月9日、試験飛行中に風にあおられ墜落、脊椎を折りその翌日48歳の若さで死去した。最期の言葉「犠牲は払われなければならない(Opfer müssen gebracht werden)」は有名。

生い立ち


オットーはプロシア王国ポメラニア地方アンクラムen)のスウェーデン系の家に生まれた。彼はアンクラムの中等学校に学び、弟・グスタフ(1849年 - 1933年)と共に鳥の飛び方を研究して有人飛行の発案に魅了されたENCYCLOPEDIA OF TRANSPORTATION Rand-McNally c. 1977。オットーと弟・グスタフは外付けの飛行翼を制作したが、飛行に失敗した。彼はその後2年間ポツダムの工業学校に通い、プロの設計技師になる前にシュワルツコフ社で訓練を受けた。彼はその後父親の意志に反し、ベルリンの王立技術アカデミーへ参加するつもりだった。1867年、オットーは初期の飛行実験を開始したが、普仏戦争に従軍したときに中断した。ヴェーバー社に雇われ、彼は空気力学の系統的な実験を開始し、アルプスの崖から飛び降りるためにオーストリアへ引っ越した。ドイツへ戻ると、1878年にアグネス・フィッシャーと結婚し、その5年後にはボイラーと蒸気エンジンを作る会社を設立した。1889年、オットーは『飛行技術の基礎としての鳥の飛翔(Der Vogelflug als Grundlage der Fliegekunst)』を出版した。

実験


オットーは、初期には回転アーム(“whirling arm”。風洞とは逆に、静止した空気中で翼模型を回転運動させる実験装置)を利用して、また後には自然風中で翼型の実験を行い、単なる板状の翼型をした平板翼よりも、翼弦の中央付近がふくらんだキャンバ翼の方が高性能であることを示した。


ライト兄弟への影響


1889年に発行した研究資料・実験記録『航空技術の基礎としての鳥の飛行』には、自然風中での実験により得た円弧翼のデータが含まれていた。ライト兄弟は、オクターヴ・シャヌートの手を経て一部が英訳されたこの本を入手し、彼らが「リリエンタールの表」と呼んだこの翼型データも利用して、1900年1901年グライダーを製作した。しかしながら、いずれも計算通りの十分な揚力が得られなかった。これは、以下のような点が原因だったとされる。

  1. リリエンタールの表は、中央付近がふくらんだ円弧状の翼型、かつ、翼端がとがった翼平面形についてのデータであったのに対して、グライダーには前縁付近がふくらんだ翼型、かつ、ほぼ矩形の翼平面形を採用したこと
  2. 不正確なスミートン係数を使用したこと
  3. アスペクト比が小さすぎた(これはリリエンタールの表とは直接関係しない)

オットー自身も誤ったスミートン係数を使用しており、ライト兄弟もそれを根拠として使用したと思われるが、計算過程でその影響は打ち消されていたため、「表」の数値そのものは正しかった。ところが、はじめライト兄弟はこれに気づかず、次第に「表」の数値そのものを疑うようになり、結局、自分たちで風洞実験を行って正しいスミートン係数を得た。ただし、彼らも後には「表」が適用できる条件を正しく認識したようである。

動力飛行の試み


墜落死の直前期、リリエンタールが動力機の開発に取りかかっていたことは有名である。しかし彼が飛ばそうとしていたのが固定翼機ではなくオーニソプターの一種であったことはあまり知られていない。それは炭酸ガスエンジン(圧縮空気エンジン)を動力としていた。特許取得(1893年)の後、1号機(1894年)と2号機(1896年)が作られた。前者は2馬力の小型機で、後者はその大型化版(翼面積20平方メートル)であった。彼の死の事情を正確に言うと、有名な墜落が起きたのは2号機で動力飛行を試みる前、エンジンを外した状態で滑空試験をしている最中のことであった。「もしも1896年の墜落事故がなければ、人類初の動力飛行は、ライト兄弟の登場を待つことなくリリエンタールによって成し遂げられていただろう」という論調がかつては有力だった。しかし彼の動力機がオーニソプターであったことから、今日ではその考えは疑問視されている。むしろ、ライト兄弟がリリエンタールの死をきっかけとして自ら飛行機開発に乗り出したそれが人類初の動力飛行を早めたものと言えるかも知れない。

オットーの弟・グスタフ(彼は主に初期の頃、実験の協力者であった)はオットーの死後、その後をついでオーニソプターの研究開発に取り組んだ。グスタフは1933年に病死するまでそれを継続したが、さしたる成果は得られなかったという。

参考文献


  • ロルフ・シュトレール 『航空発達物語』 松谷健二 訳、白水社、1965年
  • 鈴木真二 『ライト・フライヤー号の謎』 技法堂出版、2002年、ISBN 978-4765544313
  • John D. Anderson, Jr., A History of Aerodynamics and Its Impact on Flying Machines, Cambridge University Press; 1997, ISBN 978-0521454353(hardcover); 1999, ISBN 978-0521669559(paperback)
  • オットー・リリエンタール 『鳥の飛翔』 田中豊助 原田幾馬 訳、東海大学出版会、2006年、ISBN 978-4486031765

脚注

関連項目



航空パイオニア
ドイツの技術者
ユダヤ系ドイツ人
航空事故死した人物
1848年生
1896年没



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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