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オスカル・ペレイロ(Óscar Pereiro Sio、1977年8月3日-)は、スペインガリシア州ポンテベドラ県モス出身の元自転車競技(ロードレース)選手で現在はサッカー選手。
経歴
因縁の出会い
- スペイン国内選手権のシクロクロス(U-23)で優勝
1999年、国内選手権・シクロクロスのエリート部門で2位。
2000年にポルトガルのポルタ・ダ・ラベッサと契約を結び、本格的にロードレース選手への道を歩む。
- ジロ・デ・イタリアに初出場し、総合11位。
- ツール・ド・スイス 総合3位
- ツール・ド・フランス初出場。総合10位に入った。
- USポスタルに在籍していたフロイド・ランディスがフォナックに移籍するが、このことが後に大きな因縁を生むことになる。同年のツール・ド・フランスでは前年に引き続き総合10位、マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ(山岳賞)争いでは2位に入ったが、ランディスは総合順位ではペレイロよりも一つ上の9位に入った。また同年はブエルタ・ア・エスパーニャにも出場(総合25位)。
- フォナックがランディスやサンティアゴ・ボテーロをリーダーとするチーム編成としたことを受け、ケス・デパーニュに移籍。そしてツール・ド・フランスでは、前年までチームメイトだったランディスと最後まで壮絶な戦いを繰り広げることになる。
ツール・ド・フランス2006
チームのエースアレハンドロ・バルベルデのアシストとしてスタートしたが、バルベルデが第3ステージの落車で鎖骨骨折により早々リタイヤ。その後はウラジミール・カルペツがチームのエースとなり、ペレイロはそのアシストを努めていた。第11ステージでマイヨ・ジョーヌを手中にしたランディスに対し、ペレイロは山岳でのアシストを努めていたこともあり、第12ステージ終了時点ではランディスに遅れること28分50秒差の総合46位。ところが第13ステージで大逆転劇が起こる。20km付近で、ペレイロは、この区間を制することになるイェンス・フォイクトら6名とともに集団から飛び出してアタックに出た。ペレイロ自身はカルペツやチームのアシストたちを休ませるためのジョーカー的役割として逃げただけだが、ランディスをはじめとする上位陣は牽制しすぎるあまり、29分57秒もの大差がついてしまい、ステージ優勝のフォイクトと同タイムゴールしたペレイロがランディスを逆転してマイヨ・ジョーヌまで奪ってしまった。しかし第14ステージよりはじまったアルプス越えステージではさらにランディスとの壮絶な戦いが繰り広げられた。第15ステージはラルプ・デュエズがゴールだったが、ランディスがペレイロを10秒差逆転して再びマイヨを奪取。だが第16ステージではペレイロが区間優勝のミカエル・ラスムッセンに1分54秒遅れの区間3位でゴールしたのに対し、ランディスは終盤でついていけなくなり、ラスムッセンに遅れること10分4秒差の区間23位と大敗。マイヨ・ジョーヌは再びペレイロに手に渡り、逆にランディスは8分8秒差の総合11位に転落した。
ところが第17ステージにおいて、ランディスが奇跡的な走りを披露。残りまだ120kmもある地点にもかかわらず、ランディスは単独アタックを敢行。それに対し、ペレイロを含む総合上位陣はランディスのこの走りを見くびり、なかなか追撃に出ようとしなかったこともあってか、ランディスの単独攻撃はまんまと決まってしまった。ペレイロはランディスに遅れること7分8秒差の区間7位でゴールしたが、総合3位に浮上したランディスとのタイム差は一気に30秒差にまで縮まった。
第19ステージは個人タイムトライアル。区間3位でフィニッシュしたランディスに対し、ペレイロは区間4位だったが、ランディスに1分29秒の差をつけられ、マイヨはここでランディスに移動。残るステージは凱旋ムード漂う最終ステージのみであったことから、ランディスの総合優勝がここで事実上決定し、ペレイロはランディスに57秒差の総合2位でこの年をツール・ド・フランスを終えた「はずだった」。ところが、2006年のツール・ド・フランスは、これからさらに1年以上に亘る「戦い」が繰り広げられることになる。
総合優勝決定へ
全ステージ終了後に行われたドーピング検査においてランディスの体内から多数の禁止薬物が発覚。これを受け、ランディスの総合優勝は保留とされ、その後公聴会などの調査が続けられた。一方、ペレイロは、ランディスの一件がいまだ解決しない中で行われた翌2007年のツール・ド・フランスに出場。総合10位となった。しかし前年のツールの最終順位は当年のツールが終えてもまだ確定していなかったが、ペレイロがブエルタ・ア・エスパーニャに参加中だった9月に、漸く最終決着を見ることになる。
1年以上に亘る調査の結果、2007年9月20日に「アメリカ合衆国反ドーピング機関」(USADA。)が後日ランディスの総合1位記録を取り消し、失格とする告知を出したことから、ペレイロの繰り上げ優勝は決定的となった。翌9月21日には、UCI(国際自転車競技連合)が正式にランディスの失格とペレイロの優勝を認定したことで、ペレイロが2006年のツール・ド・フランス総合優勝者となった。そして同年10月15日、ツール・ド・フランスの総合ディレクターであるクリスティアン・プリュドムより、マイヨ・ジョーヌが授与された。
自転車引退まで
2008年のツール・ド・フランスでは、第15ステージのアニュエル峠のスリッピーな下りでガードレールを乗り越えて崖下のコースに転落、左肩骨折の重傷を負って途中リタイアとなってしまった。2009年のツール・ド・フランスでも開幕前から体調が優れず、結局第8ステージで2年連続の途中リタイアとなった。その後2009年限りでのケス・デパーニュ退団が発表された。
2010年、アルベルト・コンタドールを擁するアスタナに移籍。同年シーズン限りで引退した。
サッカー転向
ロードレース選手引退後、スペインのサッカーリーグであるセグンダ・ディビシオンB(3部リーグ相当)に所属するコルショFC()に加入してサッカー選手に転向。ただしプロ契約ではなくアマチュア選手としての所属となる。ポジションは主に右ウィングで、2010 - 2011シーズンはトップチームでは2試合に出場したにとどまっているが、それでも2得点を挙げているTour de France news shorts - cyclingnews.com・2011年7月7日。
関連項目
脚注
スペインの自転車選手
ツール・ド・フランス総合優勝者
ガリシア州のスポーツ選手
1977年生
存命人物