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アッティカ(, )は、ギリシャアテネ周辺を指す地域名であり、現在のギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリア(地方)の一つである。古典ギリシャ語アッティケー( / )、現代ギリシャ語アッティキ( /  発音:)とも表記される。

地理



位置


歴史的なアッティカは、エーゲ海に突き出した三角形状の半島(アッティカ半島)一帯を指す地域名称である。北は16kmにおよぶキサイロナス(古名: キタイローン)の山並みによってヴィオティア(古名: ボイオーティア)と区分されており、西はコリンティアコス湾、南にに面する。また、北東には南エヴィア湾を隔ててエヴィア島(古名: エウボイア島)が横たわっている。プラトンによれば、古代アッティカ(アッティケー)の境界線は、西はコリントス地峡、北はキタイローンの山々やによって画され、とで海に至ったという。

現在の行政区画(ペリフェリア)としてのアッティカ地方(アッティキ地方、)は、歴史的なアッティカ地方よりも広い範囲を指す。アテネピレウスなどの首都圏があるアッティカ半島のほか、ペロポニソス半島東部のトロイジナ周辺や、ペロポニソス半島南方のキティラ島アンティキティラ島などを領域に含んでおり、面積は3.808 km²である。

現在の人口は370万人であるが、そのうち95%が首都圏に住んでいる。

地形



アテネの近郊には、南西側から時計まわりに、、、の4つの山があり、これらが形づくる丘陵地帯は、アテネ・ピレウス大都市圏の外縁となっている。アッティカ地方の最高峰であるパルニサ山周辺にはマツモミの森が広がっている。イミトス山、ペンテリ山、東南部にある Merenta山(旧名: Myrrhinous)や(旧名: ラリウム)の山々にはマツの植生が広がっており、他の地域は低木でおおわれている。アッティカ地方は、山々によって Pedias、メソゲイア(Mesogeia, 旧名: Mesogaía)、Thriasion の平野に区分される。メソゲイア平野は、アテネの東方にそびえるイミトス山の東側に広がる平野で、北にペンテリ山、東に南エヴィア湾、南をMerenta山やラリウムの山々によって画される。

アテネの北東、マラトンの近くにあるは1920年に作られた人工の貯水池で、アテネの水がめとなっている。

古代アテナイにおいて、アッティカ半島南部の(旧名: ラリウム)は銀鉱山として知られた。また、大理石の産出地であった。


File:Parnitha some snow 3 Feby 2010.jpg|雪を頂くパルニサ山
File:Hemettus fire June 2009 001.jpg|首都圏の市街地と、山火事が発生しているイミトス山
File:Cape Sounion.jpg|アッティカ半島南端のスニオン岬
File:Lake Marathon, Greece.jpg|マラトン湖

歴史

古代



の中心地であった。ネッソスと戦うヘラクレスを描いたアッティカ黒像式陶器(紀元前620–610年頃)古代、アテナイの人々は、自分たちがよそからアッティカに移り住んできた民ではなく、この地にもともと暮らしていた民であったことを誇りとしていた。この伝承は、古典時代に暗黒時代紀元前1200年から紀元前700年頃)を振り返ってつくられたものと考えられている。

アッティカはドーリア人(ドーリス人)の活動に伴いペロポネソス半島北部から故地を追われて移住してきたイオニア人アカイア人の一派)の避難場所であった。イオニア人たちは、アッティカ人(のちに、もともとイオニア人の一部族であった考えられるようになった)と合流し、イオニア方言を話すようになった。のちにイオニア人たちはエーゲ海を渡り、小アジア(アナトリア半島)西部のイオニアの地に12の植民都市を築いたと考えられる。

ミケーネ文明の時代(紀元前15世紀 - 紀元前12世紀頃)、アッティカ人たちは自治的な農業社会で暮らしていた。先史時代の遺跡が、マラトンRafinaNea MakriBrauron、Thorikos、Agios Kosmas、Eleusinaなどで発見されている。ギリシア神話によれば、アテナイの初代王ケクロプスの頃にはアッティカは12の小さな国からなっており、テーセウスの時代にアテナイのもとに統合されたという。

スニオン岬にあるポセイドン神殿(紀元前440年頃)
紀元前6世紀まで貴族は郊外で独立した生活をしていたが、僭主ペイシストラトスの独裁やクレイステネスによる改革を経て、郊外の共同体はその独立を失い、アテナイの中央政府の支配に服することとなった。

クレイステネスの改革により、従来の村落をもととして行政区(デーモイ / 、複数形: デーモス / )が編成され、市民編成の基礎的単位となった。デーモスはおよそ100人からなる単位で、139のデーモスが確認されている。

また、アッティカ全土は以下の3つの地域に区分された。

  • 都市部( / ) - アテネ中心部、YmittosAegaleo、山麓の地域
  • 沿岸部( / ) - エレウシスから岬にかけての地域
  • 内陸部( / ) - パルニサ山・ペンテリ山の北、イミトス山周辺の地域

いくつかのデーモスから構成された地区( 複数形: トリッテュス  / 。「3分の1部族」とも訳される)が合計30個、都市部・沿岸部・内陸部に10ずつ所属するよう編成された。都市部・沿岸部・内陸部の3地域から1地区ずつを抽出して組み合わせて「部族」とした(10部族制)。

中世



古典時代の終焉後、アッティカはローマ帝国の支配下に入り、その後東ローマ帝国の領域となった。396年には西ゴート族アラリック1世の侵略をうけた。アッティカの人口は、近隣のボイオティアに比べて減少した。東ローマ帝国の治下においてアッティカは発展から取り残された。ユスティニアヌス1世(在位: 527年 - 565年)が完成させ、以後も修築が重ねられたダフニ修道院は、例外的な遺産である。1204年第4回十字軍によってラテン帝国が建国されると、アッティカもテッサロニキ王国アテネ公国の統治下に入った。このとき、ダフニ修道院もカトリックの管理下に置かれている。しかし、「フランク人」たちは厳格な支配は行わなかったため、11世紀から12世紀にかけてのアッティカの建築物でも華麗な装飾が見られる。

アテネ公国は、フランス人カタルーニャ人が支配したのちヴェネツィア共和国の支配下に入った。

オスマン帝国


1456年、オスマン帝国はアテネ公国を征服した。アテネはオスマン帝国の統治下で、認められたいくつかの権利を謳歌している。しかし、この状況はアッティカの農村にはあてはまらない。アッティカの大部分はトルコ人の所有地となったが、領主たちは騎兵の助けをえて住民たちを脅かした。アッティカの修道院は、村のギリシャ的な性格を保つうえで重要な役割を果たした。ギリシャ独立戦争初期の1821年4月、アッティカの農民たちも蜂起を行った。彼らはアテネを占領​​し、アクロポリスを占拠した。アクロポリスは、1822年6月にギリシャ軍に引き渡されている。

近現代


ギリシャ独立後の1833年、アッティキ・ヴィオティア県(、アッティコヴィオティア )として設立された。1836年、地方制度改革によりノモスが廃止された際、アッティコヴィオティア県は北のヴィオティアと南のアッティキの行政区()に分割された。1845年の改革でノモスが復活し、アッティコヴィオティア県が再設置されるが、1899年に分割されてアッティカ県(アッティキ県、)とヴィオティア県が誕生した。両県は1909年に再統合、1943年に再分割された。

行政区画


アッティカ地方は、地方制度改革(カリクラティス改革)によって2011年に設置されたアッティカ管区 ()を構成する。



アッティカ地方は、以下の8つの行政区()から構成されている。これらの行政区は、2010年の地方制度改革(カリクラティス改革)以前の4つのノマルヒア(後述)を基礎に作られており、旧アテネ県(右図1)が北・西・中央・南の4行政区に、旧ピレウス県(3)が本土と島嶼部の2行政区に分割されている。

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File:2010 Dimi Athinas numbered-N.svg|北アテネ県
File:2010 Dimi Athinas numbered-W.svg|西アテネ県
File:2010 Dimi Athinas numbered-C.svg|中央アテネ県
File:2010 Dimi Athinas numbered-S.svg|南アテネ県

旧制度


アッティカ地方は、1987年の地方制度改革によって設立された。アッティカ地方に属するノモス(県、)は、アッティカ県(アッティキ県、)の1つのみであった。首都圏にあたるアッティカのノモスは特殊な位置づけにあった。1971年、ノモスを区分した4つのノマルヒア(、複数: / )が設置され、行政区・自治体としての機能を担うこととなった。ノマルヒアを県級の行政区画とみなし、「県」(Prefecture)と訳すこともある。

2010年まで、アッティカのノモスは以下の4つのノマルヒアから構成されていた。

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  3. ()
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1995年にはアテネとピレウスの両ノマルヒアが広域自治体(、通称: 、)を形成している。

2011年1月1日、ギリシャの地方制度改革にともない、自治体としての県(ノモス)は廃止され、ペリフェリア(地方)に属する行政区となった。

関連項目


外部リンク




ギリシャの地方行政区画
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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